008 世界を滅ぼしかねないアンデッド少女
世界が凍っていた。
大通りは、逃げる人々で波のようにひしめいている。
人々の顔は恐怖に引きつり、眼は落ち着きを失っていた。
「変ね……」
レンリが顔をしかめた。
先刻、ゴロツキとコハル達が争っていたときは、たいした騒ぎにはならなかった。
剣と腕っ節が支配する世界では、諍いなど日常茶飯事なのだろう。
だが、今はどうだ?
恐怖に駆られた人々が、泳ぐように手を回しながら駆け、その場を離れようとしている。
アンズが二、三人ゴロツキをやっつけたところで、こうはならないだろう。
人々は荷物の詰まった籠を背負い、急ぎ足で大通りを進んでいる。
逃げると言うよりは、避難。
「悪魔……悪魔だ……っ」
「ひいいいお助けぇ……」
「もうこの街はおしまいだぁっ」
逃げ惑う人々の口から、不吉な言葉が漏れてくる。
まさか本当に……屍魔獣だったのか……アンズは……。
逃げ惑う人の群れを抜けると、今度は人々が何かを遠巻きに眺めていた。
きっと野次馬の一群だろう。
野次馬の人垣を抜けて、視界が開ける。
コハルの目に飛び込んできた、光景は――。
「なんだこれ……。怪獣でも……現れたのか……」
街は煙に覆われていた。
石造りの家屋や商店はあらかた破壊され、道ばたに崩れたレリーフが重なっている。
しゅるり。
濃く垂れた煙の向こうを、巨大な黒いものが掠める。
太い丸太のような、漆黒の触手だった。
――ズシン!
――ズシン!
触手はヘビのように動き回ると、軽々と家の一つを吹き飛ばす。
緑や赤の火閃が散ると、がれきが跳ねた。
がれきは空を滑ると、数メートル先で炸裂した。
「クトゥルフ神話の中に、こんなバケモノがいた気がするわ。ああ、クトゥルフだとバケモノではなく、邪神ってことになるわね」
「でもそれだと……アンズが邪神ってことになっちまう」
「……信じたくないわね。あれが、アンズちゃんなんて」
にわかには信じられなかった。
煙が流れて、視界が晴れる。
目の前にいたのは、アンズとゴロツキ。
ゴロツキは青銅剣を構えて、ぶるぶると震えていた。
――ヒュン! ――ヒュン!
10メートルはあろうかという黒い触手。
それはアンズの身体から、尾のように生えていた。
アンズの白い髪が街々の炎の照り返しにより、オレンジ色に染まっている。
「よ……寄るなバケモノッ!! 近づくな! 聞こえないのかッッッ!」
動転した顔のゴロツキ。
次の瞬間、振り回していた青銅剣が吹き飛ぶ。
――ズシン!
得体の知れない生暖かい風。
触手が走ると、大岩をたたき落としたように、地面にクレーターができた。
青銅剣は粉々に砕けている。
これが、屍魔獣の力だというのか。
これでおしまいとばかりに、アンズは触手を持ち上げた。
慎重に狙いを定めているようだ。
もはやゴロツキは腰が抜けて動けない。
触手の影が、ゴロツキの顔に落ちた。
「やめろアンズ!!」
叫んだ瞬間、ぴくりとアンズの肩が震える。
アンズの動きが停止したのと引き替えに、周囲の野次馬に慟哭が走った。
「アンズー? アンズーだと?」
「魔獣じゃないか……」
「エンリル様から天命の書板を盗んだっていう、あの魔獣か?」
「近衛師団だ! 王宮に走って、近衛師団を呼んでこい!」
あちゃー……という視線で、レンリがコハルを見つめる。
「言い忘れたんだけどね、コハル……」
「お、オレのせいじゃない! 止めようとしただけだ!」
「この国の神話にね、アンズーというバケモノがいるのよ。ああもう、アンズちゃんがこの姿じゃ、誤魔化しきかないじゃない!!」
アンズはコハルをちらりと見ると、再びゴロツキに向き合う。
「どう贔屓目に見ても、闇の一族ね」
「と、とにかくっ! よせアンズ! 人を殺せなんて命令してない!」
コハルの叫びが届いたのか、アンズが動きを止めた。
「…………」
先ほどまでの間抜け面は失せて、神妙な面立ちのアンズがそこにいる。
光に照らされ陰が失せるように、長く伸びた触手が消えた。
何とかなった、ほっと肩をなで下ろした、その刹那。
――ヒュン!
矢が放たれる。
一条の矢は、スローモーションのように直線を描くと――。
「い……いやぁあああああーーー!!」
レンリの叫びと同時に、アンズの首筋に突き刺さった。
あっけない幕切れ。
数十秒の再開の喜びだけで、彼らは引き裂かれるのだろうか?
「嘘……だろ……」
呆然と立ちすくむコハルとレンリ。
だが、異変はすぐに起きた。
逆巻くように、憎悪の風が吹く。
矢を受けてもなお、アンズは倒れる気配がない。
メキメキ……メキメキメキ……。
物が激しく軋む音が聞こえると、アンズに刺さった矢が砕けた。
黒く太く、先ほどとは比べものにならないほどの触手が、三本現れる。
『……死ね……』
アンズの瞳が、月光のような銀色に輝く。
「ぐ……ぐあああああああ!!」
熱風が吹き荒れた。
矢を放った兵士の一人が、苦しみもだえ始める。
『我に刃を向けるは愚かなること。呪歌を誦すれば、廻向せしめようぞ』
アンズの口からは、悪魔のように低い声が流れた。
「ぐぎゃあああああああ!!」
兵士が喉をかきむしりながら、崩れる。
――ふぁさ。
布でも被せられたみたいに、兵士の身体は地面と同化する。
そして――。
「嘘……何……あれ……」
倒れた兵士は、花になった。
まるで人一人の命を養分に変えたように、美しく地面に花が咲き乱れる。
ズズ……ズズズ……。
重い裾を引きずるように、アンズは三本の触手で進み始める。
もはやその大きさは触手ではなく、巨大な龍の尾のようだ。
アンズが通った路々に、花びらが落ちる。
落葉が街を覆うように、一面に滅びの花が咲く。
『我に刃向かうは、天背なる行為――』
『やその矢を放ちては、みなのわたを撒き――』
『夜帳の向こうに再び、禍黒き世界を呼び戻す――』
瞬きのように、紅や群青や夾竹桃色の蕾が開く。
植物のツタが縦横に走り、建物を人を貫いて、見渡す限りの花畑を作った。
美しく可憐な花が、静かに、厳かに、息を吐き、芽吹く。
騒音が絶えた。
周囲から音が消失し、人は言葉を失う。
生き物は呼吸を忘れ、建物は自壊し花に変わる。
空からは色が失われて、琥珀色の花瓣砂が涙のように降り注ぐ。
森閑とした世界の中にただ、花が咲いた。
現実離れした、夢みたいな光景。
これが、アンズの作り出した……世界。
これが魔獣だというのなら、どうしてこんなに……哀しいのだろうか。
『壱ツ目之ノ尾ハ、幻影ヲ操リ――』
『弐ツ目之ノ尾ハ、混淆デ火葬シ――』
『参ツ目之ノ尾ハ、華ニテ常世ヲ沈メル――』
巨大な三本の尾の先に、ちょこんとしたアンズが乗っている。
目から光は失せ、目的もなくただ彷徨うだけの少女。
街に死を降らせては、滅びの花を咲かせていく。
そんな死をまとったバケモノを、王都の兵士達は見逃さなかった。
いつの間に集結したのか、完全武装の兵士達が、そこかしこに集結していた。
「狙え!」
「――放て!」
屋根の上から、兵士達の弓の狙撃が始まる。
でもそれは無駄なことだ。
アンズは……アンデッドなんだから……。
幾条の矢の雨がアンズに次々と突き刺さる。
だが、アンズは倒れない。
「どういうことだ!?」
「何故あれだけの矢を受けて、倒れないのだ!?」
恨みの風が吹いた。
しゅるりと触手が動くと、兵士達の頭上で停止する。
花びらが舞い落ちると、糸が切れたように兵士は倒れた。
あの花びらに触れれば死ぬのだ。
「……まさか……疼きの花薄…………」
レンリが困惑した表情で言った。
アンズから伸びた三本の尾が、花を降らす。
花は死の象徴。
触れたものは皆倒れ、死んでいく。
「コハル君……貴方……とんでもないものを呼び寄せたわね……。あの子はもう……アンズちゃんじゃないわ……」
花びらが絡み合い、そこかしこで吹き上がった。
このまま放っておいては、王都は終わりだろう。
レンリは哀しそうにアンズを見つめると、首を振る。
「きっと物理も魔法も効かない。あんなのなら、ドラゴンでも召喚された方がよっぽどマシだった!」
すすり泣きが聞こえる。
一面の花に覆われた世界で、人々は泣き、嘆き、立つ気力も奪われて地面にへたり込んでいる。
アンズが恐ろしいのは、巨大で力があるからじゃない。
人の希望を奪って、無気力なまま花に変えてしまう。
だから恐ろしいんだ。
コハルは左手の眼をさすり、聞いた。
「おい……左眼……。オマエ一体、何を呼び出した……」
――知れたこと、屍魔獣だ――
ゴロツキの数人が、足を震わせながらアンズに近づく。
戦意はすでに失われて、まるで誘われるようにアンズに近寄っている。
放っておいたら、いたずらに命を奪われるだけだ。
なんとしても、アンズをとめなければ。
――この街は、花に覆われて滅びるのだ――
――人に対抗する術など、あるはずはない――
「……じゃあ、オレだったら?」
――面白い冗談を言うな、我が主よ。だが一度呼び出した屍魔獣は、二度と異界には戻せぬのだ――
一度召喚したものは、二度と戻せない。
だとしたら……。
「元の姿に戻すことはできんだよな?」
――伸びた尾のすべてを切り落とすがいい。人間に、それが可能ならばな――
オレは倒れた兵士に近づくと、ブロンズソードを拾い上げる。
レンリの方向を向き、叫んだ。
「二人で、アンズを止めるぞ――!」