000 プロローグ滅ぶ運命の少女
左眼が、じっと少年を見つめていた。
その目は他人のものではなく、少年の顔面に据わるものでもない。
こぶし大の巨大な瞳。
少年の左の甲に宿った、邪眼。
その眼は魔力の源。
少年に魔力を供給するのと引き替えに、彼の人生を呪い、支配している魔物。
少年は今、追い詰められている。
いや、眼が少年を追い詰めたのだ。
その左眼は怒っていた。
猛り血走った目が、憤怒の睨みで少年を捉えている。
自分がどうして怒っているのかも忘れるほどの、怒り、狂い、禍々しいほどの憎悪。
左眼は自身の境遇を納得できていない。
自分がどうして、こんな少年の左手にいるのか、甚だ理不尽だと思っている。
――復讐だ――
眼の瞳孔が、きゅっとすぼまる。
この少年に最大限の絶望を与え、復讐するのだ。
人生を奪ってやる、希望を奪ってやる、仲間を、大切な人を、そして少年自身の心を、奪ってやる。
両腕を突っ張り魔法を使い続けるその姿を、開いた眼が凝視していた。
眼が、彼の行いすべてを覗いている。
血を流す姿を、涙する姿を、絶望にうちひしがれる姿を。
もはや眼は、少年の表情が塗炭の苦しみで曇ることを欲している。
愉しみ、見下し、邪悪な微笑いでもって、暗黒の底に沈むのを心の底から待ち望んでいる。
少年の腕の先に、少女が横たわっていた。
荒い呼吸を繰り返し、胸郭が上下するのと同時に口から鮮血があふれ出す。
虫の息だ、もうきっと、長くはない。
地面に倒れた彼女の身体に、少年はヒールをかけ続ける。
ヒールの呪文スクロールが発動する度に、左手の邪眼が輝く。
なんという運命の皮肉なのだろう。
少年を追い詰めた根源の邪眼が、今では唯一の希望だというのは。
――多少は協力してやるさ――
意地悪く、目が微笑った。
最大限の絶望を味合わせるには、その前に……わずかな希望が必要だから。
少女を助けたいという、少年の祈り……それが重要だったのだ。
だから左眼は、少年に魔力を供給した。
ほんのわずかな希望、絶望にあえぐ少年に下ろされた救いの糸、少女を助ける最後の魔法、そう、それを与え……。
そして……。
――折れてしまえ――
……叩き折るのだ、最後の希望を。
眼が彼をあざ笑う。
最後に彼を支えている剣、 ”心” が折れるのを、待ち望んでいる。
ヒール程度では少女の身体を維持するには不十分、いくら魔法をかけ続けても、刻の経過で少女は崩壊していく。
ああ、少年の顔が苦痛に歪んだ。
自分の無力さを噛みしめ、己の弱さを悔やんでいる、なんと可哀想な姿だ。
なんと切なく、身を切られそうなほど、儚く美しい姿なのだろう。
少女の体温が急速に失われ、皮膚は氷のように冷たくなっていく。
左眼の中に、少年の焦りが流れ込んでくる。
――ダメだ! ダメだ! ダメだ!
ああ、そうだ。それでいい。
無力な自分を恨め、弱い自分を恥じろ、そして……我を左手に閉じ込めたことを地獄の底で後悔するが善い。
心地よい愉悦を覚え嘲るように、眼が微笑んだ。
ピシリ。
木の枝のように細い少女の腕に、ヒビが入った。
まるで陶器の皿のように、白い亀裂が走っていく。
――これから少年に、真実を伝えよう――
眼が邪悪に微笑う。
少女は器だ。
けなげに少女を救おうとする彼には、それがわかっていない。
――貴様が助けようとする少女が、彼に残された最後の希望が、ただの人形であると教えてやろう――
――どんな顔をする? ああ、愉しみだ。愉しみだ――
――絶望 我は それを欲す。絶望 我は それを喰らう――
無駄な努力。
無駄な希望。
無駄なあがき。
さあ、絶望のショーを始めよう!
ぐしゃり。
柱のように太い何かが、少年の腹に叩きつけられる。
衝撃は止まらず軽々と背中を貫通し、血みどろの筒が突き出る。
溜まらず少年の口から、悲鳴とも嗚咽とも、喉の震えともつかないものが漏れる。
「あ゛……くぁっ……ぐぁ……っ」
筒の血が垂れて正体を明かす。
漆黒の巨大な尾。
尾の先には巨大なかぎ爪がついていて、それが少年の腹を貫通したのだ。
ギシギシ、ギシギシギシ。
鎌首をもたげるように、尾っぽが少年の腹に食い込んでいく。
漆黒の尾は、少女の身体に繋がっていた。
自分が助けようとした少女に攻撃されたのを、少年はきょとんとした目で見つめている。
彼にはまだ、ことの深刻さがわかっていないのだ。
そんな少年の戸惑いと慟哭をよそに、少女の身体は不気味な変化を起こしていた。
ガラスが砕けるみたいに、少女の身体が崩れ、巨大な尾が伸び始める。
ギシギシ、ギシギシギシ。
止めとばかりに漆黒の尾が少年の腹を横に割いた。
熱い血潮が喉を逆流し、少年の口からこぼれ出た。
噴水のようにあふれた血液が頬を伝い、邪眼の表面に降りかかる。
まるで眼が血の涙を流しているように見えた。
魔術スクロールの発動が、途切れた。
刹那、少女の肉体が限界を迎える。
パリパリ……。
パリパリパリ……。
少女の身体は粉々に崩れて、中から次々と――どす黒い尾が伸びた――。
『――さよなら――』
血塗られた口づけを交すと、少女は身体を離した。
まるで枷から解き放たれたように、尾は数を増やし膨張していく。
常世のすべての光を吸収するかのように、不気味な尾が地面を這う。
大地は砕けて、巨大な亀裂が縦横に走った。
「……アンズ……君が死龍なんて……どうして……」
少年が恐怖に震えるように、喉を鳴らした。
隠された姿、少女の真の姿、もはやバケモノにしか見えない、禍々しく常世離れした姿。
”邪神”、それ以外に形容する言葉を持たない。
彼女はもはやバケモノ、死龍と呼ばれる、世界を滅ぼす力を持ったバケモノだ。
空は黒雲に包まれ、稲光がざわめく。
少女の解放された力は巨大な邪悪となって、今この世界に解き放たれようとしていた。
胴体だけの死龍。頭はない。
伸びた八ツ又の尾を従えて、死龍は少年を離れて進み始める。
八ツ又の尾の一つが谷を越えると、もう一つが山を軽々と吹き飛ばした。
長く封印されていた死龍が息を吹き返し、波打ちながら世界を破壊していく。
そんな伝説が生まれるような光景が、今目の前で繰り広げられていた。
覚悟を決めた少年が、口を開く。
その眼の中からは、ためらいが消えていた。
「眼よ……頼みがある……」
ああ、ついにこの刻が来た。
待ち侘びた少年の言葉が、左眼を振るわせる。
――貴様が最愛の少女をその手にかけるまで――
――我は、力を与えよう――
――戦え。そして朽ちよ。我の望みは、それのみ――
血まみれの少年の身体が、ゆっくりと起き上がる。
邪眼の力がなければ、とうに息絶えるほどの怪我だ。
いや、邪眼の力などなくとも、少年は立ち上がっただろう。
それほど彼にとって、少女は大切な存在だったのだから。
ひときわまばゆく左眼が輝くと、錬成された刃が宙に灯った。
白刃に、少年の瞳が映る。
放たれた光の渦と共に少年は、邪神と化した少女に向かって駆けた。
これはただのプロローグでしかない。
邪眼に支配された少年が、最愛の少女をその手にかけるまでの、長い長いプロローグだ。
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