(短編)西の国の光る粒
白い波が打ち付ける岩場に腰を下ろし、男は悠々と釣り糸を垂れていた。
背後で茂る木が程よい影を作り、頬を撫ぜる七月の風が心地よい。
機嫌の良い鼻歌を歌いながらも、男は背後に近づく小さな気配に耳を澄ませていた。
さっきから、半刻はこちらを見ている。
まるで小動物が恐る恐る木の実を拾いに来るように、辺りを伺い、ほんの少しづつ距離を詰めている。
そろそろこちらから声を掛けてやろうかな、と男は笑顔で振り返った。
「クヨーナーラ!」
親し気に片手を挙げて見せた男に、その姿は一瞬だけ驚いた顔をし、そしてすぐに平静を装って言葉を返してきた。
「……チュー ウガナビラ」
木の幹の陰から、少年がこちらを見ていた。
せいぜい十歳くらいだろうか。大きな瞳に、癖のある黒髪。警戒しながらこちらを伺う姿が毛を膨らませた子猫に似ていて、男は思わず笑みを浮かべる。
それに、少年が返してきた挨拶は、完璧なシュリの都言葉なのだ。
ヤイマの片田舎、ソトバナリの小島に毛色の変わった子供がいたものだ、と男は興味をそそられる。
肩をすくめてみせると、少年は言葉を続けた。
「おじさん、無理しなくていいよ。シュリの人でしょ?」
くせっ毛の少年は、どこか大人びた口調で続けた。だが、そんなませた様子なのに子供の好奇心が勝っているのか、その場を離れないのがなんとも可愛らしい。
男はにこにこと笑って手招きをした。
「これは驚いた。なぜ私が都の人間だと分かったね?」
ぶす、とした顔をしながらも、少年は男の腰かけた岩の横に来て座った。
「簡単だよ。おじさん、都のなまりがあるもの。それにヤイマの男はそんな着物は着られないからね」
少年は目ざとく男の着物を見ていたのだろう。確かにそれは、地味ではあるが上質の織なのだった。
「おじさん、こんな田舎に何しに来たの?」
警戒した目を和らげるように、男はおどけてみせた。
「何を隠そう、私は海賊なのだよ。この島の財宝を探しに来たのさ」
少年はしぱしぱ、と大きな目で瞬きをする。
「こんな人の良さそうな海賊なんか、いるもんか」
男は朗らかに笑う。
「それはどうかな。君、名前は何という?」
眉をひそめると、少年はしごくまっとうな返事をした。
「……おじさんの名前は、何なのさ」
男はぴしゃ、と自らの額を打つ。
「これはしたり。失礼した、私はカナーだよ」
少年は少しだけ機嫌が悪そうに黙り、しぶしぶという感じで返した。
「……まのん」
「マノン? それは随分、異国風の名だな?」
一応は驚いては見せたものの、内心男――カナーは納得していた。
くりくりしたくせ毛に、杏仁型の大きな瞳。肌の質感もほんの少しだけ違う。黒髪と黒い目ではあるから、よく知らなければ少し変わった子供で通るだろう。それでも、外つ国との交流が多かった男には分かる。異国の血が入っているに違いなかった。
「本当は”まんのう”だったみたいだけど。
母さんが上手く言えないから、いつの間にかそうなっちゃったんだ」
「では、母君が異国の方なのだな」
まあね、と少年はまた肩をすくめる。
「嫌になっちゃうよ。本当は女の子の名前らしいしさ。
母さんは上手く喋れないから、僕がいちいち通詞役をやらなきゃならないし」
そう言いながらも、少年はどこか得意そうだ。
「なるほど。では父君も助かるであろうな」
そんな不用意な言葉に、少年の瞳が暗く沈む。
「……そんなの、いない」
少年は足元の小石を一つ拾うと、遠い波間に放り投げた。
「誰なんだろうね、僕の父さんって。
僕に名前だけ付けていなくなっちゃった、顔も知らない人。
どうせ母さんの客のうちの、どれか一人だったんだろうけど」
何か言ってやろうとして、カナーは言葉が見つからず、黙る。
そんな様子に年に似合わぬ瞳を返してから、少年は言葉を継いだ。
「別に気を使ってくれなくてもいいよ。こんな島でも、結構客は来るんだ。
シュリに、ミャークに……。視察って言うの? あいつらみんな、イリオモテを欲しがってるからね」
イリオモテはこのソトバナリの対岸の島で、豊かな森林資源を求めて豪族たちの熾烈な牽制が続いていた。政情視察のついでに足を延ばすものがいても不思議はない。
「けちなやつらだよ。落としていくのは小銭と、せいぜい異国の言葉の置き土産ぐらいさ。
……今日だって、家に帰れやしない」
少年は口をつぐんで岩場に座り込む。立てた膝を抱く背中がひどく頼りなげで、カナーの胸は痛んだ。
まのんは呟く。
「母さんは外国の海賊船に乗ってたって、みんな言ってる。それで、この島に流れ着いて……」
続いた沈黙にカナーも俯く。
この小さな島で、言葉の不自由な異国の女にどれだけの選択の余地があっただろう。その道筋を思うとひたすらに気の毒だった。
そしてこの子供も――訛りの無い完璧なシュリ言葉に、利発そうな瞳。本当は、この小さな島に収まる器ではないのだろう。 それでも、裸足で粗末な着物を着た少年にどれだけの未来があるというのか。
「――血筋や育ちなどというものはな、実体のないものだ。かくいう私だって、本当のところはどうなのかな」
怪訝そうにまのんが首をかしげる。
「どういうこと?」
ふふ、とカナーは笑う。
「夢を見るのに、人生を楽しむのに、生まれは関係ないということさ」
分かったような、分からないような……そんな顔の少年に、カナーは力強く言う。
「だから、誇りを持って自分の人生を生きていくんだ」
その言葉に、少年の目に強い光が灯った。
「もちろんさ。僕はこんな小さな島では絶対、終わらない。いつか、僕と母さんを馬鹿にした奴らを見返してやる」
しなやかで、打たれ強い。瞬時に覗いた大器の片鱗にカナーは頼もしさすら覚える。
不意に、少年がカナーの着物をつまんだ。
「ん?」
「おじさん、ここほつれてる」
やあこれは、とカナーは苦笑いをした。
「参ったな。さっき釣り針を引っ掛けてしまったかな。後で繕わんと……」
「自分でやるの? おじさん、割とかっこいいのに独り者なの?」
“割と”は余計だな、と苦笑しながらカナーは答える。
「今はね。だが、素晴らしい妻がいたこともあるぞ」
「捨てられたの?」
おいおい、とカナーは笑う。
「もちろん違うさ。
そうだな、運命の渦に巻き込まれたとでも言うのかな……」
遠い目をして海の彼方を見やるカナーに、まのんが呟く。
「……好きだったんだね、その人のこと」
大人びた言葉に振り返ると、カナーは笑って頷いた。
「ああ、大好きだった。
素晴らしい人だったよ。美しく、やさしく、強く……。
いつかまのんにも、そんな人が見つかるぞ。その時はな、離してはいけないよ」
少年が顔をしかめる。
「どうかなあ……。僕、女の子は好きじゃないし」
カナーは破顔し、少年の頭をぽんぽん、と叩いた。
「そんなことはどうでもいいんだ。誰か一人、特別な人がいるものさ」
深く頷いて見せるカナーに、まのんはおずおずと問う。
「そうかな?」
「そうさ」
少年はしばらく男を見つめ、やがてくすぐったそうに笑った。
それから二人は長い間話し合った。
かつてカナーが出会った人たちのこと。カナーが愛した一人のひとのこと。
太陽の光が少しづつ色を変え、少年の瞳の色が和らいでゆく。
と――視線を下げたまのんが慌てた声を上げた。
「引いてる!」
「おお、本当だ! 大物だぞ⁉」
慌てて引いた竿が、強くしなる。
竹竿は弧を作り、その先をカナーとまのんが懸命に掴み、引く。
二人と一匹の長い格闘の末、海の中から諦めたように大きな魚が躍り出た。
「でかいぞ!」
「でかい!」
反動で岩の上に尻もちをついた二人はわあ、と歓声を上げる。
「すごいや!」
「すごいな!」
立ち上がった二人は手を取り合って小躍りする。
一抱えもあるイラブチャーを手際よくしめるカナーを、まのんは目を丸くして見守った。
「さ、これを母君に持っていってやりなさい」
魚の尾を掴んで差し出したカナーに、まのんは首を振る。
「おじさん、宿で料理してもらえばいいじゃない」
「いや……」
カナーは困ったように頭を掻き、そして言った。
「私はもう、食べることができないのでね」
怪訝そうに首を傾げたまのんの大きな目が、さらに大きく見開かれる。
「おじさん、足が……薄くなってるよ?」
おや、と笑うとカナーはまた一つ、ぴしゃりと額を叩いた。
「つめが甘いのが私の悪いところだな。忘れないうちに、君にはこれを渡しておこう」
懐を探ったカナーは、まのんの小さな掌にその鈍く光る粒を握らせた。
じっと見つめるまのんの瞳が、やがてきらきらと輝く。
「この綺麗なものは……なに?」
「“ろーまのこいん”さ」
カナーは魚を脇に置くと、まのんの肩に手を置いてしゃがみ込んだ。
「大きな夢を持ちなさい。生まれも、育ちも……そんなことは関係なく、大きな夢を。
私の夢、今度は君に託すとしよう」
「おじさん⁉」
沈む夕日の橙色の光が、カナーの体の向こうから透けている。
「七つの海の七つの宝を手に入れる――そんな夢を、私は見ていたのだよ。遥か彼方の広い世界、あのひとにも見せてやりたかったが……」
寂しそうにカナーは笑い、そしてまのんの頭を撫でた。
「私に子がいたら、こんなだったかな」
「おじさん!」
少年の声を背中に受けて、カナーは夕陽に溶けてゆく。
あの少年は、どんな大人になるのだろうと思いながら。
もう、自分を縛るものは何もないのだ、と思いながら。
「用緒、何だそれは?」
錦の座布団に背を預けてかざしていたそれを、怪訝な顔でその男は覗き込んだ。
「“ろーまのこいん”だよ」
軽やかに笑うと、隠すように光る粒を握り込む。
南蛮の衣の裾から拳を突きだし眼前で振ってやると、相手は顔の傷痕を引きつらせて目を白黒させた。
「見せて欲しいかい?」
男の憮然とした顔を眺めて、まのんはもう一つ軽やかに笑う。
「七つの海の、七つの宝……僕も手に入れるのさ」
開いた掌の中で、鈍く輝く丸い粒。
七つの海の、七つの宝。夢は紡がれ、伝えられ。
遥か外つ国の、ろーまのこいんを通じて。