春日千沙都は頭がよくない
本日最後の練習、100m個人メドレー3本。それを終え、水中から上がると、既に精根尽き果てプールサイドで大の字で寝そべる同類たちの仲間入りを千沙都はした。
横目で周りを見渡せば、自分と同じように体力を使い果たした1年生部員の姿が多数見られる。
「あはは。まったく、だらしないわね。そんなんじゃ、今度の予選会の結果は悲惨なものになるわよ」
水の滴る水泳キャップを脱ぎ去り、千沙都の横に立ち声をかける一人の女性。先ほどまでの練習などアップに過ぎないと思わず感じさせるほど活力に満ちた姿を見せる少女。
「由利先輩……なんでそんなに元気なんですか?」
「ん? まあ、あたしたち二年生はこれでも一年多く練習積んでるからね~。これくらいで根をあげるようなだらしない姿を一年の前で晒してちゃ先輩としての威厳がないっしょ」
「そう言ってるのは先輩だけで他の先輩方は結構限界そうですけど」
少し息が落ち着いた千沙都は上半身を起こし、同時に周りを見渡す。どうやら元気なのは引退を間近に控えた三年生と由利のみであった。
「ああっ! ホントじゃない! ちょっと、みんなもっとちゃんとしてよ。せっかく後輩の前でいいとこ見せようとしてるのに台無しじゃない」
一年生ほどではないがプールサイドで息を切らしたり、座り込んでいる同学年の部員に向かって由利は叱咤するが、そんな彼女には『由利と一緒にしないで!』『うるさい! この体力オバケ!』『そんなに練習しか興味がないから彼氏ができないのよ!』と反論や関係のない野次が次々に飛んだ。
「い、言ったな! 本人が地味に気にしてることまで……。ふん、いいわよ。そんなに好き勝手に言いたいことをいうのならあたしにも考えがある。
あたしが部長になった暁には今の練習メニューを倍にするように先生に打診するから」
ニヤリと悪どい笑みを浮かべながら他部員に向かって権力という名の脅しをかける由利。その様子はまるで彼女の後ろに邪悪な黒い靄が立ち上がっていると錯覚させるようだった。
「ふーん。まだ私たちが引退していないっていうのにもう部長気分とは……。さすが県下有数のスイマーね。
そんなに早く引退してほしいのかしら? ん?」
そんな彼女たちの様子を見ていた現部長がワシッと由利の頭を掴み、アイアンクローを決める。
「イタタッ! イタッ! 痛い、痛い!! 部長、ごめんなさい! 調子に乗ってました。
ギブ! ギブアップ! ほんの出来心だったんですってば!」
ジタバタと部長のアイアンクローから逃れようと必死に身体を動かす由利。しばらくしてようやく部長の魔の手から開放された由利は目尻に涙を滲ませながら、
「……覚えてろよ。部長になったらもうこっちのものなんだから」
と恨めしげに小声で呟いた。
「ん? 何か言った? 聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしたけど、もう一度逝ってく?」
ポキポキと指の関節を鳴らす部長に対し、口笛を吹き由利は「イエナンデモゴザイマセン」と白々しい返事をした。
そんな光景を見ていた部員一同は思わず声を上げて笑いあった。炭酸の抜けたサイダーのような緩い雰囲気が漂う。
だが、そんな空気を壊す部長の一言が、その場にいた全員を凍りつかせた。
「まあ、私たちはそろそろ引退だけど、その前にあんたたちに忠告。
この間の中間試験。赤点ギリギリ、もしくは赤点だった奴。手を上げなさい」
その言葉に部員たちは互いに顔を見合わせた。そして、恐る恐るといった様子で一人また一人と手を上げていく。その中には千沙都と由利の姿もあった。
「……クッ。一年を含めて半数以上が補修対象の候補だなんて。これだから、三山女子水泳部は脳筋だなんて噂が流れるのよ」
心底悔しそうにそう呟く部長に言わなければ無事に済むのにワザワザ突込みを入れる馬鹿がいた。
「いや、それはふつーに部長の普段の態度が噂の大半でしょ」
「由利。あんたはどうやら死にたいようね」
反論する暇も与えられずにプールサイドから部長によって由利は水中に沈められた。誰も今の出来事にはあえて触れまいと、見なかったことにして引き続き部長の話を聞いていく。
「まあ、それはともかく。補修ラインに引っかかっているのなら今のうちにしっかりと勉強してせめて赤点にならないように気をつけなさいよ。
もし次の期末試験で赤点とることになったら補修が終わるまでは練習に参加できないからね。
顧問の木村先生はそのあたり特に厳しいから、もし赤点取ることがあったら予選会突破しても関東大会出させてもらえないわよ」
その言葉に部員たちの顔から思わず血の気が引く。特に千沙都は他人事でないだけにドクドクと早鐘を打つ心臓の音を聞きながら背筋が寒くなるのを感じた。
(嘘、嘘ッ! ど、どうしよう……。私現文と現代社会がギリギリ。もし赤点取ったら練習できないし、大会も辞退しないといけないってこと?
むり、むり。絶対に無理!」
そもそもこの間の中間試験ですら想像以上に悪い成績であったためあまり多くは言われなかったが礼次郎から「次はさすがにもう少し頑張れるといいね」と苦笑いとともに釘をこっそり刺されたところだったのだ。
ここで勉強を怠り、期末試験の結果が今よりも芳しくなかった日には……。そう想像すると、頭が痛くなった。
ただでさえ頭を悩ませている事態が別にあり、そのストレス発散に一役買っている部活がなくなったらなどとは想像したくもなかった。
「まあ、ここまで予め忠告しておいて赤点をわざわざ取る馬鹿もいないでしょ。
そもそも私たちの本分は勉強なんだから、それを怠る者には部活を楽しむ資格ないってこと。
それじゃあ、今日の練習はここまで。みんなお疲れ様!」
解散を一同に告げ、続々とロッカールームに向かっていく部員たち。
そして、その場には期末試験の対策に明るい希望が見出せない千沙都とさっそく現実逃避を始めてプカプカとラッコのようにプールを泳ぐ由利が残されるのだった。