揺れる気持ちと空模様
梅雨の時期にしては珍しく空に晴れ間が差したある日、春日千沙都はここ数日で一番機嫌がよかった。
理由は単純。雨が降っている間にできなかったプールを使用した練習が今日はようやくできそうだからだ。
ただでさえ苦手な室内練習に加えてこの間返却された中間試験の結果が思ったよりも芳しくなかったということもあり、ここ数日溜まりに溜まった鬱憤を発散させるべくまだ午前中にも関わらずソワソワと落ち着かない様子を見せている。
最も、彼女が早くプールで泳ぎたい理由はそれ以外にもあるのだが……。
教科書の影に顔を隠しながら千沙都はこっそり右斜め前の座席に座る人物に視線を向ける。
(……ホント顔からは想像つかないけどわりと真面目なのよね、あいつ)
手元に持ったペンを手持ち無沙汰にクルクルと回しながら視線の先にいる人物に注視する。
三ヶ月前まで赤の他人だった一人の少年。柄の悪そうな見た目とは裏腹に細かな気配りと、他人を思いやる優しさを兼ね備えている。真面目に授業を聞いていることもあり、先日の中間試験の成績もかなりよかったらしい。
初めこそその見た目から授業を行う教師から警戒をされていたが、今では成績の件もあり授業の手伝いなどで声をかけられる姿を見かける。それは生来彼、晃一が持つ人の良さが伝わったからだろう。
そして、千沙都もまたそんな彼の人の良さについてはその身を持って経験していた。
今こうして過ごしている三山高校の受験当日、ウッカリ受験票を敷地内で無くしてしまい絶望に暮れていた千沙都に声をかけて一緒に受験票を探してくれたのだ。試験時間がもうすぐそこまで迫っていたのにも関わらず……。
あの時は喜びのあまりつい涙を流してしまったが、よくよく考えれば事情を試験官に話していれば便宜を図ってもらえたと思い返して恥ずかしさがこみ上げてくる。
後になってちゃんとしたお礼をしそびれていたことに気が付いたが、相手がどこの誰なのかも知らなかったため、すこし落ち込んでいた矢先にあの再会は本当に千沙都を驚かせたものだ。
(きっと、私だけなんだろうな……意固地になってるのは)
この三ヶ月の間、父である礼次郎が両家の仲を必死に取り持とうと気を回してくれていたのは気づいていた。そして、それは義母となった亮子も。
父の再婚相手の亮子が悪い人ではないということも千沙都はとっくに分かっていた。
これまで自分たちのために男手ひとつで苦労をかけてきた父のためにも早く今の環境を受け入れなければならないということも。
だが、頭で理解していても気持ちが付いてこない。千沙都にとって母親と呼べる存在は幼いころに事故で亡くなった一人だけである。亮子は礼次郎にとっての妻とはなったが千沙都の母ではないのだ。
そんな彼女の心情を亮子も礼次郎も分かっているためか、亮子や晃一と距離を置き、必要時以外最低限の接点を持とうとしない千沙都に対して何も言わない。
ただ、この三ヶ月で一度だけ長女の美咲が夜更けに千沙都の部屋を訪れこう尋ねたことがあった。
『ねえ、ちーちゃん。もし今の生活が本当に嫌だと思っているのなら、私からお父さんに話をしようか?』
今となっては姉しか呼ぶことがない昔からの懐かしい千沙都の呼び名。かつて母親が幾度となく使っていたその呼び名を聞いて千沙都は思わず涙腺が緩んだ。
『ううん、大丈夫。ありがと、お姉ちゃん。ただ、もうちょっと。もうちょっとだけ待ってもらってもいい?』
千沙都の返事を聞いた美咲は何も言わずにそっと優しく微笑み、彼女の部屋を後にした。
その夜、千沙都は頭から布団を被り声を殺して涙を流した。その日は無性に母と過ごしていた頃の思い出がいくつも頭をよぎり、涙が止まらなかった。
(やだ、やだ。また嫌なことばっかり思い返してる。せっかく今日は天気も晴れて楽しみにしてた練習もできるのに。
早く授業終わんないかな……)
ただでさえ苦手な英語の授業。既に教師の授業説明は耳を通ってはそのまますり抜けており、集中力は当の昔に散漫している。
退屈な時間、鬱屈とした気持ちが千沙都の周りをフワフワと漂う。窓の外の光景は彼女の現状とは打って変わって暑く、明るい日差しがグラウンドを照らしていた。
その日の授業はずっと身が入らないまま、千沙都は寿命を迎える間際の機械のようにただひたすら黒板に書かれた授業内容をノートに写すだけの単純作業を繰り返して終えるのだった。