ラストシーン
数年前、ふと一日中映画を観続ける計画をたてた。
時々行くシアターから、いつも行くシアターまで。徒歩と電車を使い分けながら、いろんなところで映画を観よう。いつも引きこもってばかりいるのに、不思議なものでこういう時だけは行動力がある。
朝四時半に起きて、シャワーを浴び、移動時間用に読む本や音楽を選び、手早く支度をすませて家を出た。時刻にして五時十分。中途半端だけど、突発的な行動にはこれくらいのルーズさがちょうどいいと思う。
僕が映画巡りを計画したのは夏だったので、空はもう青く、鳥の鳴く声がしていた。朝がもうすぐやってくる。
いつも当たり前に経験しているそんなことまで、何故だかすごく愛おしく思えて、気分が高揚したのを覚えている。
バスは六時手前にならないとやってこない。一番近いシアターがあるショッピングモールも、開店するのは十時からだが、シアターが開くのは三十分早い。普通にモールの入り口からまわっていこうと思っても、当たり前だがどこも施錠されていて入れない。大きくまわって、シアターにつながるエレベーターのある入口から入らなければならない。初めて朝一で行ったとき迷ったのもいい思い出だと思う。
計画としては、まず最寄り駅まで歩く。それから六時から営業しているマクドナルドで朝食を済ませ、第一の目的地まで歩く。
最寄り駅にあるシアターで映画を観るのは最後だ。スタート地点にしてゴール。ここから始まりここで終わる。
予定より五分早く最寄り駅に到着した。ゆっくり歩いたつもりだったが、自然と早足になっていたのかもしれない。本を読んで時間を潰すには半端な時間だったので、音楽を聴いて待つことにした。
朝の空気に酔っていたのか、その時選んだ曲はビル・エヴァンスの名盤ワルツ・フォー・デビイの中の一曲、デトゥアー・アヘッドだった。
大きく回り道をしてシアターに行かなくてはならないという状況が、デトゥアー・アヘッドだなと思って選んだ。
曲は七分ちょいなので、開店時間を少し越すが、開店してすぐに飛び込むのもなんだかアレな気がしたので、ちょうどよかったと思う。
曲を聞き終え、マクドナルドに入り、ソーセージエッグマフィンのセットを頼んだ。ハッシュポテトとソーセージエッグマフィンを手早く平らげて、コーラで口に残ったマフィンとポテトを流し込み店を出る。
いよいよ計画の開始だ。
第一の目標はここから歩いて二時間近くかかる。近場にもいくつかシアターはあるのだが、まだ開店していないだろう。
なので、少し遠くのシアターを目指すことにしたのだ。
もっと時間を調整して出かければいいではないかと言われそうだが、突発的な行動の面白さはこういう所にある。
まあ、歩き始めて若干後悔したりもしたが。
さすがに六時を過ぎると車の通りも多くなる。バスも動き始めているので、車道はだいぶにぎやかだ。
信号待ちしているバスを見ると、そこそこ人が乗っている。
なんだか、僕はその光景におそろしいくらいの「リアリティ」を感じた。
バスに乗り携帯を見ている若者、席にすわりうつらうつらとしているおじさん。
普段は自分の生活に夢中で気付かないけれど、人それぞれに生活があり、僕は今その生活を垣間見ているのだということが、特別なことのように思えた。
強烈な現実をみせつけられたというか、僕がこうして普段の生活から外れている時にも、誰かは「普段通り」の生活をしている。
当たり前だけど、そこにすごくドラマを感じた。
走り去るバスが見えなくなるまで見送り、また歩き始める。
こころなしか、少しだけ足が軽くなっている気がした。
目的地についたのは、八時半だった。
今度は予定通り。だいぶ汗をかいたので、コンビニで少し涼み、スポーツドリンクを買ってふらふら歩きながら時間を潰すことにした。
目的もなく歩くというのは嫌いではなかったが、夏ということもあり、やっとひいた汗がまたじわじわと滲んできてしまった。
替えの服は持ってきたのだけど、ここで着替えてしまうのももったいないなと思ったので、日陰で時間までシアターが開くのを待つことにした。
持参した本の中から一冊選ぶ。記念すべき一冊目は筒井康隆の旅のラゴス。
僕は普段音楽を聴きながら本を読むということはしないのだけど、今回は特別だということで、キッスのハード・ラック・ウーマンだったり、ZIGGYのGLОRIAだったり、洋楽邦楽関係なく適当に聴きながら時間を潰していた。
グローリアーと間延びした小声で歌いながら本を読むのも楽しかった。
そうこうしている間にシアターの開店時間になる。
観る映画を決めていたわけではないので、その時間にやっている中で興味が出たものを選んで観た。
上映が終わったのはまもなく正午になるという頃だった。
ここからは電車移動になる。
移動時間は電車移動だけなら五十分。そこそこの時間だ。
次の映画を観るのは一三時あたりだろう。
電車に揺られながら、二回目の読書タイム。このシアター巡りの旅では、読書タイムの度に読む本を変えると決めていたので、旅のラゴス以外の本をチョイスする。
今回はヘミングウェイの短編集だ。
平日のこの時間は乗客も多くない。席に座り忙しそうにパソコンを操作するスーツの男性。壁によりかかり退屈そうに携帯をながめる若者。
静かで、電車の走る音が規則正しく声をあげている。
平和でのんびりとした空気なのに、どこか張り詰めているように思える。
ここにある日常は生活の一部なのだ。その生活とは、仕事であり、勉強であるといった「与えられたものであり押し付けられる義務」だということがあるのかもしれない。それは良い悪いということではなく、そういうものなのであろう。
ヘミングウェイの短編集に目を落とす。簡潔な中にもロマンが詰まった文章を読み進め、物語の中に生きる男たちの生きざまに酔いしれつつ電車の揺れに身を任せるのはとても心地よい時間だった。
電車を降り、第二の目的地へ向かう。港町特有の風と、その風が運ぶ潮の香りの中を歩き、シアターへ。
この港町にあるシアターは通う頻度が一番多い場所でもある。
町自体が好きで、そこで映画を観るという行為はそのまま癒しの時間になる。映画そのものが僕にとっては癒しになるのだけど、好きな町で好きな映画を観るという行為は、それ以上のものを僕に与えてくれる。
少し時間に余裕のある回のチケットを買い、シアターのあるフロアの一階上にあるレストランでエンチラーダを食べる。その後一度外に出て、レモネードを飲んだ。思っていた以上に時間に余裕があった。時間は三十分しかなかったのに。
時間がゆったりと流れているように思えた。この町にくるといつもそうだった。
この町で過ごす時間が好きだからなのか。いまだによく分からない。
シアターに戻り、映画を観る。
たまたま好きな役者が主演のアクション映画を上映していたので、それを観た。
先が見える展開、無敵の主人公、カーチェイスに銃撃戦。僕が愛してやまないエンタメが凝縮された作品だった。スタッフロールが流れ始めた時の興奮というか、なんともいえぬ達成感のようなものが、こういう映画の魅力だと僕は思う。
上映が終わり、着替えてから次のシアターに行こうと考え、トイレに向かう。
上映終了後すぐということもあり、トイレはそこそこ混んでいた。
平日でも場所によっては混む。その人の多さが逆に僕を安心させてくれることもある。見知らぬ人(無害な人に限るが)がそこにいるだけで、安心できるのだ。そこにいる人は僕を知らず、おそらく二度と会うこともないだろう。話す必要もなく、基本的に気遣いも必要ない。道を譲るとか、落としたものを拾うとかなら話は別だが。
ともかく、人の「存在」というものがただそこにあるだけで、自分がここに存在していると感じることが出来る。
僕の日常には僕がないと考えることが時々あって、それは時に僕を恐怖の底に沈めてくる。仕事をしている時、家族と過ごすとき、友人と過ごすとき。そこにいるのは間違いなく僕という存在そのものだが、その僕は僕自身が作り上げた人格が形成する僕なのだ。
だから、ただ僕が僕であり続けることができる見知らぬ人と共有する空間というやつは、僕を安心させてくれるのだ。
そんな見知らぬ人の中に、映画について話している人がいた。
若者のグループ。学校が休みなのか、それともサボったのか。もしくは大学生なのかもしれない。最近の若者はみな若さを大切にしているのか、少しだけ幼く見える。
彼らは若者特有のあいまいな表現で映画の感想を言い合っていた。
ここがすげー。あそこがはんぱない。マジで面白い。
抽象的だが、彼らは彼らの言葉で感情を共有している。意思疎通ができているのかと訊かれれば、僕には分からないが、少なくとも彼らは彼らの言葉でコミュニケーションをとっているし、共感もしている。それでいいのだと僕は思うのだ。
着替えを済ませて、次のシアターに向かう。電車での移動時間は二十分。短編をひとつ読むというよりショートショートのようなものを読み重ねた方が程よく時間を潰せると思ったので、星新一のボッコちゃんを選び、読んだ。なんとなくはっぴいえんどの曲が聴きたくなり、空いろのくれよんを聴いた。その勢いで、ジャックスと遠藤賢司の曲を聴く。星新一の文章の力と相まって、目的地に到着するころには、心は幻想味を帯び、不思議な浮遊感に満たされていた。
次に向かう町には駅の周辺に三館のシアターがあり、三館を行ったり来たりしながら、観る映画を決める。三館それぞれで一本ずつ映画を観ようというわけだ。
最初のシアターではアート系の映画を観た。せっかく幻想的な浮遊感を味わっているわけだし、そういう映画を観ようと考えてのことだった。
アートといっても、ゴダールとかフェリーニ的なヌーベルバーグを思わせる映画というわけでなく、美術的な美しさというタイプの映画だったけれど。
僕はアートな映画は嫌いではない。ただ、そこに芸術肌の人たちが思う明確な答えを見出すことはあまりない。そこにあるものを受け入れるだけというのが、僕のアート映画に対するスタンスだ。簡単に言ってしまえば、そんなに頭がよろしいわけでもなく、感性も豊かではない。ただ、面白い映画が好きで、その中にはアート映画もあるというだけなのだ。
そういうスタンスがいいとは言わない。どちらかといえば悪しき見方かもしれない。それでも、そういう素人的な感性というのも、大切な気がするのだ。
映画を観終えて、次のシアターへ向かう。
日はもう傾き、町をオレンジのベールが包んでいる。道を行く人も、帰路につく人が多くなり、疲労と安堵を混じらせたなんともいえない表情で歩いている。
開放感というにはあまりにも複雑な感情だ。
皆生きるために働いている。生きるためと言葉にすれば簡単に聞こえるが、それは大変なことなのだ。それを思い知らされる。普通に働き普通に生きることは難しく、それをこなしている人々は心からすごいと思える。
僕もそういう風に生きていくのだろうかと考える。それからすぐに考えるのをやめた。今日の僕の答えが明日の僕の答えになるかは分からないのだ。意味がないと思えた。
だから、考えながら生きていこうと思う。
考えることをやめてしまったら、おそらく僕は僕でなくなってしまう気がするから。
二本の映画を観終え、時刻は九時をまわった。
夜になると町にいる人々も変わってくる。自由と享楽。その裏にある落胆や障害。町にあふれる感情はどれも複雑になってきて、その感情を内包する人々は感情を過剰に発露させながら生きている。
僕はいくつかの映画を思い出す。夜を歩く主人公や、夜に生きる女。そして、今この瞬間夜を生きる人々と、そこを歩いている自分。
ハンフリー・ボカートを探してみるが、見つからなかった。
ボギーのように。考えてみたことはある。
だけど、僕には、僕〈たち〉にはそれは難しい。ムービーのヒーローは、いつだって魅力的だ。さながら、甘いウソに溺れることが幸福であるように。
ボギーはスクリーンの向こうのヒーローなのである。嘘という魅力の衣をまとう彼に僕らはあこがれ続ける。
彼になるには自分が嘘になるしかないと思い、どうしようもないくらいに現実的な自分に絶望しながら。
最寄り駅に着き、最後のシアターに向かうころには、十時であり、おのずと最後の映画はレイトショーになる。劇場内にいる人はまばらで、映画が始まる前の独特のざわつきもない。これが東京のシアターなら話は別なのかもしれないが。
大きな劇場に不釣り合いな人の少なさ。ヒット作を観ているのに、アート系の映画を観た時よりも観客は少ない。
時間とはおそろしいなと思った。
朝起きて夜寝る、当たり前のことだ。当たり前のことなのだが、なぜ当たり前なのか考えたことがなかった。
いろいろ答えを出してみるが、どれも納得がいかない。
何故、何故だろう。どうして、どうしてだろう。
考えを巡らせていると、映画が始まった。
なんとなく、映画の中に答えを探してみたが、見つからなかった。
そうして、僕の映画巡りの旅は終わった。
もうバスは走っていない。当初の予定では歩いて帰る予定だったが、タクシーで帰ることにした。
疲れていた、というのもある。移動と映画鑑賞をひたすら続けると、集中力と体力を同時に奪われる。楽しい時間ではあったが、疲れた。
しかし、タクシーを選んだのは、疲れていたからというより、車の中から町を眺めていきたいという気持ちがあったからだ。
映画をたくさん観ようという目的は完遂できたが、それ以上に得られるものがあったように思える。
早朝にみかけたバスの車内。
静かで張り詰めた電車の中に聞こえるかすかなタイピングの音。
若者同士の共通言語でコミュニケーションをとる青年たち。
様々な光景が、窓の外を流れていく景色をスクリーンにして流れていく。
人生とは映画のようなものなのかもしれない。
時に面白く、時に切なく、やりきれないこともあり、達成感もあって。
信号待ちになり、タクシーが止まる。
恋人たちが寄り添いながら、夜の町を歩いていた。交わす微笑みはとても純粋で、恋愛映画のラストシーンを観ているようだった。
「飲み会の帰りですか?」
タクシーの運転手が訊いてきた。
少しだけ考え、僕は言った。
「いえ、映画を観てまわってたんです。今、観終わりました」
運転手は僕の言葉をどう受け取っただろう。たぶん、今は「さっき」という意味合いになっているのだろう。
でも、僕にとっての映画巡りは言葉そのままの意味で「今」終わった。
信号が青になり、タクシーが走り出す。遠ざかる恋人たちの背に、「fin」の文字が重なって見えた。