尊き命―自殺者を英雄視する我が国よ―
少年が、少女が。
いじめによって、体罰によって、自らの命を絶った。
マスコミはそれを騒ぎ立て、世間は原因を追求し、原因を駆逐しようとする。
しかしその動きは果たして正しいのだろうか。
とある問題によって命を絶った少年少女は、その問題を解決した英雄なのか。生贄なのか。
とある問題によって少年少女が自殺すると、マスコミは異常なほどに騒ぎ立てる。
いじめであったら、その加害者を非難し、学校を非難し。
体罰であったら、教師を非難し、学校を非難する。
それに伴い、世間は加害者を非難し、学校を非難し。退学や懲戒免職などを言い渡す。
問題は悪いものだと、根絶しようと言う。
こうして、問題の元凶は排除されてゆく。ように見える。
しかしその動きは正しいのか。
私は、正しいとは思わない。
マスコミが少年少女の自殺を過剰報道すると、それを見た少年少女が、死ねば問題が解決すると勘違いし、自殺が増える。たったひとつしかない命を疎かにする。
いじめた奴が悪い、学校が悪い、教師が悪い。
そう言って原因を追求し処分を下すが、根本的にはそれは何の解決にもならない。
その問題の元凶が高々一つ二つ無くなったって、世の中何も変わらないのだ。
命が一つ犠牲になってからその問題が解決したって遅いのだ。
だからと言って問題の根絶、つまりいじめであったらいじめをなくそうという動きは正しいのか。
私はそうは思わない。
考えて見ても分かるように、いじめ、または差別は古来から存在しているものだ。
人間は優劣を付けたがる。自分より下の人間がいることで安心するからだ。
そんな性質を持っている人間に、古来から存在するいじめを無くせと言ったって無くなるはずはない。
確かにいじめは悪いことであり、なくそう、やめよう、というのは間違いではない。
しかしそれだけで無くなるはずはないのだから、別の解決方法を考えるべきなのだ。
いじめをしない、なくす、というのは、一人一人の人間の内的な葛藤であり、人間が真の人間になれるかどうかという個人の問題なのだ。
では、どうしたら良いのか。
私は、問題が起きた後の行動が重要だと思う。
無くしようのないものを無くそうとしたってどうしようもない。
だから、起きたらどうするかを考えるのだ。
私はひとつの案として、転校の簡易化が必要だと思う。
いじめや体罰など、問題が起こりどうにも耐え難い場合は、何も命を捨てることなく転校すればいいのだ。
学校なんてものはごまんとあるのだから。
辛いなら、逃げればいい。
合わないのなら、変えればいい。
しかし学校、特に高校は転校がとてもしにくい。
住所が変わるなど、余程の事情がない限りほとんどの高校は転校ができないのだ。
学力がその学校のレベルに達しないのに転校するというのはあるべきではないが、しかしその学校が設けた基準に達しているのなら、従来よりも簡単に転校できるような処置が必要だと思う。
それが出来ないから少年少女は逃げ場を失い、退学か自殺かの二択に迫られてしまうのだ。
問題が起こったときには、少年少女たちに逃げ場を、生きる道を作ってあげるべきだと思う。
何より私が言いたいのは、少年少女たちよ、死ぬな。ということだ。
命は一人にひとつしかない。それを疎かにしてしまったら、何もなくなってしまう。
自分の人生は一度きりで、人生の主人公は自分だ。過ちを犯してももう決して戻ることはできない、一度きりの特別な物語だ。死んでしまったら、後悔しても二度と戻れない。その物語も、完成することのないまま終わってしまう。その先にあったはずの幸せな物語も、楽しい物語も決して見ることができなくなってしまう。ただただ、悲しみだけが後に残るだけだ。
そして人生というものは、様々な人の人生とつながり、作用し、世界を廻している。そのひとつがなくなると、様々な影響が生じ、人の運命を動かし、先にあったはずの人の人生の喜びを楽しみを奪うのだ。
絶対に死ぬな。どんなに苦しくても死ぬな。その先にはきっと光が見えるはずだから。
確かに人生辛いこともあるが、辛いことがある分、楽しいことも絶対にある。
その楽しみを、幸せを、喜びを、みすみすドブに捨てるんじゃない。
愛に包まれ、幸福に包まれ生まれてきた自らの命を捨てるんじゃない。
それを忘れないで欲しい。
現在、日本ではある国の紛争地域で戦死する人の数よりも多くの人が自ら命を絶っている。
この日本という国も、見えないところで紛争が起こっているようだ。
しかし何があっても死んではいけない。
辛かったら逃げてもいい。
でも、どうしても逃げられない時もある。
その時は、歯を食いしばれ。強くなれ。
決して死んではいけない。
強く強く。生きるのだ。
心の強い、正しく美しい人間になれ。
その先にはきっと光がある。
少年少女よ、死ぬなよ。