水晶玉の呪い
「どうしてなんだ!」
岡部拓が両手のこぶしを力いっぱい握りしめながら、身を震わせるようにして怒鳴った。
西山美奈は困ったような表情をして岡部を見つめていた。
「どうして、僕と別れるなんて言うんだ。理由はなんだ。はっきりと言ってくれよ。悪いところがあればきっとなおすから…僕は美奈のことが世界中で一番好きなんだ」
岡部の言葉は最後のほうには哀願調に変わった。
「私が別れたくなったの。それでいいでしょ」
美奈はツンと横を向いた。
「僕が今までどれほど美奈に尽くしてきたか、よく分かっているだろ。バッグが欲しいと言われたら、それを買い、深夜に迎えに来てほしいと言われれば、喜んで迎えに行ったじゃないか。何でも言うことを聞いてやったじゃないか」
岡部は頭をかきむしるようにして、どうしていいのか分からない仕草をみせた。
美奈は冷やかな目で眺めると、すっと席を立った。
「それじゃね」
美奈はそう言うと、コーヒーショップから出て行った。
岡部は慌ててその後を追った。店を出ると、美奈の後姿に向かって叫んだ。
「僕は絶対にあきらめないからな!」
美奈は振り向きもせずに、まっすぐと歩いて行った。
岡部は呆然としてその後姿を見送った。好きになった女からその理由もはっきりと分からないまま、あっさりと別れを告げられた。今まで沢山の贈り物をして、愛情を表現してきたが、そのどこが悪かったのか、岡部には理解できなかった。ずっと愛していたし、愛されているとも思っていた。美奈に対する愛が岡部にとっては人生のすべてだった。どんなことを言われても、美奈が喜ぶならと思い、出来るだけの事はやってきたつもりだった。
美奈が遠く離れて行くと、無性に寂しさを感じた。生きる意欲がなくなり、打ちひしがれたようにトボトボと街をさまよっている時、街角に座っている六十歳すぎの占い師から声をかけられた。
「おい、そこの青年、ちょっと来なさい」
占い師は岡部に手招きをしていた。
岡部はチラッと眺めただけで、知らないふりをして行き過ぎようとした。
「おい、ちょっと待て」
そう言いながら、占い師は岡部の後を追って、肩を掴んだ。
「何ですか?」
岡部はムッとして振り向いた。
「まあ、そこに座りなさい」
占い師はそばのイスを指差した。
「僕は別にみてもらう気はありませんから」
怪訝そうな表情をして岡部が言った。
「今にも死にそうな顔をしているから、声をかけたんだが、どうしてもイヤなら止めないが…もし急がないなら、少し話をしていかないか?占いをしてお金を取ろうと言うんじゃないから、別にかまわないだろ?」
占い師は岡部の肩を抱くようにしてイスに座らせた。
「だいたい男がショボンとして歩いているのは、女にふられたか、仕事に失敗したかの、どちらかに相場が決まっとる」
占い師は、どうだ、という表情で岡部を見た。
岡部が黙ってうつむいていると、占い師は持っていた袋から水晶玉をゆっくりと取り出した。
「これを見なさい」
岡部が不思議そうな顔をして、言われるまま水晶玉を見た。特に何の変哲もない水晶玉のようだった。
「あんたが今心に思っていることを、この水晶玉に向かって念じるんだ」
占い師はにこやかに微笑みながら言った。
「こ、これに、ですか?」
岡部は信じられないような顔をして、占い師を見た。
「そう、この水晶玉に」
占い師は自信ありげに頷きながら言った。
岡部は言われるまま、たった今別れた美奈のことを思ってみた。美奈への熱い想いを水晶玉に手をかざしながら、念じてみたが、やはり何も変わらず、透明のままだった。
「別に何も変わらないじゃないか!」
岡部は馬鹿にされたような気分になった。
「そう怒るな」
占い師は穏やかな口調で言った。
「このペテン師が!」
岡部は吐き捨てるように言うと、イスから立ち上がろうとした。
「まあ、そんなに焦らないで、もう少し待ちなさい」
占い師は岡部の肩を押えるようにして、もう一度座らせた。
岡部はふてくされたように座りなおした。
「一体あんたは何がしたいんだ」
岡部は占い師に食ってかかった。
「ほう、怒るくらいなら、死ぬことはないだろう」
占い師が安堵したように言った。
「僕が死ぬ…そんなこと…」
岡部は死ぬという言葉を聞いて、ハッとした。確かに美奈に振られて、生きる意欲をなくしていたことに気づいた。
「そう、あんたの死ぬ姿がこの水晶玉に映っていた。それで声をかけたんだが…」
占い師はそう言いながら、水晶玉に手をかざした。しばらくその水晶玉をジッと見つめ、一人で満足そうに頷いた。
「あんたは、もう大丈夫。もう行きなさい」
占い師はそう言うと、水晶玉を袋にしまおうとした。
「あの、ちょっと待って下さい」
岡部は水晶玉を持っている占い師の手を押さえた。
「どうした?」
「もう一度、その水晶玉でやらせてもらえませんか?」
岡部は真剣な眼差しで占い師を見た。
占い師はしまいかけた手を止めて、しばらくの間ジッと岡部を見た。
「よし、やってみるか」
占い師はもう一度水晶玉を岡部の前に置いた。
岡部は両手の汗を拭うようにして、水晶玉に手をかざした。今度は真剣に水晶玉を見つめ、美奈の顔を思い浮かべた。すると不思議なことに、水晶玉の中に美奈の顔がボヤッと映り始めた。
「こ、これは…」
岡部は驚いて、占い師の顔を見た。
「ほう、見えたのか?」
「ええ、ぼんやりとですが…」
岡部は信じられないような表情をした。
「それはよかった。どうやらあんたの念がこの水晶玉に入ったようだ」
「この水晶玉を譲ってもらえませんか?」
「これは売り物ではないから、そう言われても困るんだが…それに相当高価なものなんだ」
「一体いくら出せば、譲っていただけるんですか?今は持ち合わせがありませんが、明日銀行に行って、きっとお支払いをしますから」
岡部はよほど水晶玉が気に入ったのか、頭を何度も下げながら占い師に頼み込んだ。
「仕方がない。それでは、こうしましょう。あんたが今持っているお金で、一週間だけ貸すことにしましょう。しかし必ず返して下さいよ。もしも約束を破るととんでもないことがあんたの身に起こるから、それだけは絶対に守って下さい。よろしいですか?」
占い師は厳しい顔をして、念を押すように言った。
「分かりました。それでいいですから、とにかく貸して下さい」
岡部は財布の中から一万二千円を取り出して、占い師に手渡した。
「絶対に一週間後のこの時間に返して下さいよ」
「それは、絶対に約束します」
岡部はそう言うと、水晶玉を大事そうにかかえながら、急いで家に帰った。
電気を消した部屋の中でジッと水晶玉を見つめていると、何でも願いが叶いそうな不思議な感覚になる。
静かな時間を楽しんでいる時、急にドアをドンドンと叩く音がした。
「誰だ、こんな時間に」
岡部は心の静寂を乱された腹立たしさを感じながら、部屋の明かりをつけてドアを開けた。
「おう、俺だ」
会社の同僚、佐伯公一がビールとつまみを目の前に差し出した。
「何だ、おまえか。まあ入れ」
岡部はそう言って、佐伯を部屋の中へ入れた。
佐伯は部屋に上がると、テーブルの上にある水晶玉を見た。
「おい、これはどうしたんだ?悪徳セールスに引っかかって無理に買わされたのか?」
「いや、そんなんじゃない。街の占い師から無理やり借りてきたんだ。一週間経てば、返さないとダメなんだ」
「ふうん。それで、この水晶玉があると、幸運を招くとか、そんな類のものか?」
佐伯はビールを飲みながら、関心がなさそうに言った。
「この水晶玉はすごいぞ。まあ、見てろ」
岡部は部屋の電気を消すと、水晶玉の前に座って、両手をかざして念じ続けた。五分間ずっとそうしていたが、美奈の姿は映りそうにもなかった。
「そうしていると、何かが映ったり、願いが叶ったりするのか?」
佐伯は岡部の真剣な姿を見て、茶化すことができずに訊いた。
「ああ、その筈なんだけど…うまくいかないなあ…占い師の前ではうまくいったんだけど」
「うまく騙されたんじゃないか?」
佐伯が心配そうに言った。
「それはないよ。一週間後には返さないとダメだし、それに一万二千円しか払ってないから、騙された内に入らないよ」
「それならいいけど…」
「この水晶玉に向かって念じると、美奈の顔が映ったんだ。第一あの占い師は美奈のことを知らないし、それをこの水晶玉にうまく映るようには出来ないよ」
「「もしも本当なら、俺も一度見てみたい気がする」
佐伯はまだ信じられないような顔をしていた。
「本当だよ。この目で見たんだから、間違いない。本当にここに美奈の顔が映ったんだ」
岡部が水晶玉を指差しながら言うと、もう一度両手をかざして念じ始めた。五分、十分、十五分と念じ続けた。やがて美奈の顔がぼんやりと水晶玉に映ると、次には部屋で歩く姿が映し出された。
「見えた」
岡部が叫んだので、佐伯は後ろから覗き込むように見たが、水晶玉は相変わらず透明のままだった。
「何も映ってないじゃないか」
佐伯が少しバカにしたような口調で言った。
「おまえには見えないのか?」
「えっ、何が?」
佐伯は岡部の真剣な表情に戸惑いながら、もう一度水晶玉を見た。
「ここに部屋の中にいる彼女の姿がはっきりと見えるんだけど…」
岡部が水晶玉を指差して言った。
佐伯はもう一度真剣な眼差しで、目を凝らすようにしてよく見たが、やはりただの透明なガラス玉にしか見えなかった。
「俺には何も見えないし、普通の水晶玉にしか見えないよ」
「本当か?…」
岡部は信じられないような目をして佐伯を見た。
「本当だ。そこには何も映っていない。おまえの方こそ、目がおかしくなったのか?それとも頭の方か?」
佐伯は頭を人差し指で軽く叩くようにして言った。
「不思議だな。僕には見えて、おまえには見えない。こんなことってあるのだろうか?」
「おまえの想いが強すぎて、おまえにしか見えない幻影かもしれないぞ?」
「そうかもしれないが…」
岡部は自分が信じられないように、大きくうなだれた。
「とにかく飲もう」
佐伯が励ますように言って、ビールをグラスに注いだ。
「ああ…」
岡部は曖昧な返事をして、グラスを手に取った。口元までグラスを持っていくと、そのまま考え込むように手を止めた。
「そうだ、もう一度やってみよう」
岡部はそう言うと、グラスを置いて、再び水晶玉に手をかざした。
その中には美奈がテレビを見ながら大笑いしている姿が映し出された。
「おい、テレビをつけてくれ」
岡部は急いで佐伯に言った。
「チャンネルを変えてくれ」
岡部は横目でテレビを見ながら、水晶玉の中を覗き続けた。
佐伯は岡部の言われるまま、チャンネルを変えていった。
「そこ、そこでストップ」
岡部はテレビの画面と水晶玉の中を見比べるように、交互に目を動かせた。
「それだ。そのテレビが、今彼女が見ている番組だ。それを見ながら大笑いしている姿が映っている」
「本当か?」
佐伯が横から水晶玉を覗いてみるが、そこには相変わらず何も映っていなかった。
「やはり俺には何も見えないが…」
佐伯が不思議そうに首を傾げながら、岡部を見た。
「僕にしか見えないかもしれないよ。はっきりと見えるんだ。今彼女が何をしているか、この中にはっきりと見えるんだ」
岡部が自信満々に言った。
「ふうん、不思議なもんだなあ」
佐伯が半信半疑のように言った。
「彼女の部屋の時計を見たら、今の時間なんだ。これは絶対に間違いないぞ」
岡部が興奮したように言った。
「俺にはよく分からないけど、もしそれが本当だとしたらすごいことだぞ。彼女が、いつ、どこで、何をしているのか、はっきりと分かるんだから」
佐伯が言った。
「おい、これから風呂に入るようだぞ」
岡部はゴクンと生唾を飲んで、瞬きもせずに水晶玉を見続けた。
「おまえの妄想じゃないのか?」
佐伯はあきれたように言った。
「こんな妄想なら、大歓迎だよ」
岡部は一向に水晶玉から離れようとしない。
「おい、俺にもやらせろよ」
佐伯はそう言うと、岡部を横に押しやり、水晶玉の前に座った。
「ちぇ、せっかくいいところだったのに…」
岡部が残念そうに言いながら、その席を譲った。
佐伯が真剣な表情で水晶玉に手をかざして、念じ始めた。
「おまえは何を念じているんだ?」
岡部がビールを一口飲んで言ったが、佐伯は聞こえない風に一心不乱に水晶玉を見つめ続けていた。
十分ほど続けていたが、やがて諦めたように佐伯が言った。
「やはり俺には何も見えないよ」
「そうか、不思議だな。僕にははっきりと見えるのに、おまえには見えないとは…きっと念じ方が悪いんだ。もっと真剣に想いを込めて念じないと、映らないんだ」
岡部は自分で納得するように言った。
「そうかな…真剣に念じたつもりなんだけど…」
佐伯が首を傾げながらビールを飲んだ。
「もう一度、今度は僕がやってみよう」
岡部が水晶玉に手をかざした。
「ほら、ちゃんと映っている。風呂から上がって、髪の毛を拭いているよ」
「俺にはどうも妄想が足りないようだ」
佐伯が諦めたように言うと、ビールを飲み干した。
「あっ!」
岡部がびっくりしたような声を上げた。
「どうした?」
「この写真」
岡部が水晶玉を指差しながら言った。
「写真が見えるのか?どんな写真だ?」
「それが、男と肩を抱き寄せるようにして幸せそうな顔で写っているんだ。こいつは誰だ?僕じゃないことは確かだ」
岡部は言いようの知れない怒りが湧き起こってくるのを感じた。
「それで、あいつ、僕と別れようとしたのか」
岡部は妙に納得した。
「ちくしょう」
岡部がそう言うと同時に、不思議なことにその写真がパタンと倒れた。
「えっ!」
岡部がびっくりしたように声を上げた。
「今度はどうした?」
佐伯が興味深そうに訊いた。
「その写真が急に倒れたんだ」
「まさか…」
「本当だよ。こんな写真、倒れてしまえ、とそう思ったら、本当に倒れたんだ」
岡部が信じられないような顔をして言った。
「妄想もそこまでいくと、たいしたもんだ」
佐伯はビールを飲みながら笑うしかなかった。
「これが妄想だとすると、僕の妄想も中々のもんだ」
岡部は佐伯には何を言っても信じてもらえないだろうと思った。
それから一週間、岡部はずっと部屋に閉じこもり、水晶玉の前に座り続けた。
美奈は仲のいい同僚の石井恵子とランチを楽しんでいた。
「美奈、最近暗いわね。何かあったの?」
恵子が心配そうに言った。
「そうね、何だか疲れちゃって…」
美奈は大きなため息をついた。
「元気だしなよ。彼とはうまくいっているんでしょ?」
恵子が紅茶を手に持って口に運んだ。
「ええ、まあ…拓とはきっぱりと別れたし、これで晴れてめでたく新しい彼と堂々とお付き合いできるんだけど…」
美奈が憂鬱そうな顔をして言った。
「それなら、何も言うことがないじゃない」
「そうなんだけど…」
「美奈、どうしたの?何だかうじうじしちゃって。前の彼からしつこく付きまとわれているとか…」
「ううん、そんなことはないんだけど…」
美奈は首を横に振りながら、悩むようなそぶりをみせた。
「もう、はっきと言わないと、分からないわよ」
恵子がしびれを切らせたように、大きな声で言った。
言おうかどうしようかと迷っていたが、ようやく美奈は口を開いた。
「別れた拓に付きまとわれるようなことはないんだけど、ここ最近ずっと誰かに見られているような気がして…」
美奈がもう一度大きなため息をついた。
「誰かって、誰かが美奈の後をつけているの?」
「そうじゃなくって、誰かに見られているような、そんな視線を感じるの。今までそんなことを感じたことがなかったんだけど、とにかく変なのよ」
「それって、ノイローゼ気味?」
「そうかな?…でも、変なことも起こるのよ。部屋にある彼との写真立てが急に倒れたり、ベッドから落ちたり、テレビのチャンネルが変わっていたり、上げた筈のジッパーが下がっていたり、駅の階段を踏み外して転んだり、とにかく変なことばかりが起こるの。この前なんて、彼からの電話と思って、出てみたら何も言わないの。それで、掛け直してみると、彼は掛けた覚えはないと言うし…」
「もしかして、悪霊に取り付かれている?」
恵子が怖そうな顔をして言った。
「そう、そう、そんな感じ。それに、会社にいても、家にいても、いつも誰かに見られているような気がして、落ち着かないの」
「盗聴器とか盗撮用カメラとか、一度部屋中を調べてみる必要があるわよ」
「そうね。それもいいかもしれないわね」
美奈は関心のなさそうに言った。
「絶対に一度調べてもらった方がいいわよ。それとも引越ししちゃう方がいいかもね」
「引越しか…その方がいいかもしれないわ。霊がいるような気もするし…」
「だったらなお更よ。早いところ、そうすれば?」
「そうね」
奈美は幾分か気が楽になったように言った。
「ところで、今日は新しい彼とデート?」
「そうなの」
美奈にようやく明るい笑顔が戻ってきた。
「一度私にも紹介してよ」
「いいわよ。それじゃ今日待ち合わせの場所に一緒来る?」
「ええ、行く、行く」
恵子がはしゃぐように言った。
「でも色目を使わないでよ。彼は私の彼なんだから、そこのところを忘れないでね」
「分かっているわよ。人の彼を横取りするような趣味はありませんから、安心して」
「それなら、一緒に連れて行ってあげる」
美奈は得意そうに言った。今度の彼は拓とは雲泥の差があって、背が高くて二枚目タイプの格好いい男だった。美奈が一目ぼれして、ようやくデートまでこぎつけた男だった。
仕事が終わると、美奈と恵子は連れ立って待ち合わせの喫茶店に急いだ。
美奈は店の中を見回して、須藤俊の姿を探した。窓際の席で書類を見ていた姿が目に入った。
美奈はその席に近寄って行くと、恵子と向かいの席に座った。
「こちらは同僚の石井恵子さん。どうしても私の彼を見たいと言って、一緒に付いてきたの」
美奈が須藤に恵子を紹介した。
「どうも、よろしく」
恵子が頭を下げて挨拶した。
「どうも、こちらこそ」
須藤が同じように頭を下げた。
美奈が視線を感じて、後ろを振り返った。しかし美奈を見つめているよう者は誰も見当たらなかった。
「美奈、どうしたの?」
恵子が訊いた。
「ううん、何でもない。気のせいみたい」
美奈が気を取り直すように微笑んだ。
須藤がコーヒーカップを取り上げようとして、手をすべらせた。
「あっ」
須藤が小さな叫び声をあげた時は、カップは床に落ちて大きな音を立てて砕け散った。
「すいません」
あわてて飛んで来たウエイトレスに、須藤は謝った。ウエイトレスは無言で素早く砕けたカップを片付けると、何事もなかったように立ち去った。
「失礼。こんなことは初めてだ。コーヒーカップを落とすなんて…」
須藤は苦笑いをしながら言った。
美奈と恵子は顔を見合わせるようにした。霊の仕業という言葉が二人の頭に同時に浮かんで、少し身震いした。
「それより、これから映画を観に行こうと思っているんだけど、恵子 さんも一緒に行きますか?」
「いえ、私は遠慮しておきます。デートを邪魔するほど、野暮ではありませんから」
恵子は微笑みながら言った。
「そう言わずに、ぜひ恵子さんもご一緒に」
須藤は思ってもいなかった言葉が口から出て、自分でも驚いた。美奈と二人で映画を観た方が楽しいのに決まっている。それが分かっていながら、恵子も誘うなんて、どうかしている、と自分で思った。しかし自分の意志とは反対に、口からは違う言葉が飛び出してくる。
「お誘いはありがたく思いますが、私には気をつかわないで、二人で楽しんで来て下さい」
恵子がはっきりと断ったが、須藤は諦めきれないように言った。
「邪魔者なんて、とんでもない。恵子さんがいてくれる方が明るくて、話しやすいから、ぜひ三人で行きましょう」
須藤は自分でも何を言っているのか分からなくなった。
「そんなに恵子がいる方がよければ、お二人でどうぞ。私は帰るわ」
美奈は怒って立ち上がった。
「そうじゃないんだ」
須藤はあわてて、美奈を座らせた。
「何よ」
美奈は頬を膨らませて、プイと横を向いた。
「美奈、そんなに怒らないで、私が帰るから」
恵子が立ち上がって、帰ろうとした。
「待って、恵子さん」
須藤は恵子を呼び止めて、元の席に座らせた。何をやっているんだろう、と自分でも思いながら、二人を交互に眺めた。
美奈はまたしても射すくめるような視線を感じて、振り返ったが、やはり誰もいない。店中を見回したが、美奈を見ているような者はいなかった。美奈は身震いして言った。
「私、帰る」
美奈が立ち上がって、店を出て行くのを、須藤は黙って見ていた。
「私も帰ります」
恵子も慌てて立ち上がると、美奈のあとを追った。
須藤は口をポカンと開けたまま、二人の後姿を眺めていた。
美奈はまっすぐに赤信号にもかまわずに歩いて行った。
「あぶない!」
恵子が美奈の背中を掴んで引き戻した。
「美奈、どうしたの。赤信号よ。自殺でもする気なの」
恵子が息を切らしながら、大きな声で言った。
「えっ、私、どうしたの?」
美奈がキョトンとしたような表情で言った。
「ざまあみろ」
岡部は水晶玉を見ながら、手を叩いて喜んだ。
「これで、美奈とあの男も終わりだ。僕と別れて、あんな男を選ぶからこうなるんだ。これからもずっと新しい男ができるたびに邪魔をしてやるからな」
岡部は憎しみを込めた目で水晶玉に映っている美奈を見つめた。
「おまえ、大丈夫か?」
佐伯が心配そうな顔で言った。
一週間、会社に全然顔を見せない岡部を心配してやってきたのだが、部屋に入るなり驚いた。岡部は水晶玉の前に座り続け、頬はこけ落ち、目だけが異様な光で輝いていた。
「僕は大丈夫」
そう言った岡部の目には、恨みに燃えた狂気が宿っていた。
佐伯はその目を見てゾクッとする思いをした。
「今日で一週間目だろう。そろそろ水晶玉を返した方がいいんじゃないか?」
この水晶玉さえ返してしまえば、取り付かれたようになっている岡部も正気に戻るだろう、佐伯はそう思った。
「ああ、そうなんだ。それが問題だ。あの占い師、まだあそこにいるのかな?」
岡部は不安そうに遠くを見るような目になった。
「返すんだろう?」
佐伯は不安そうに言った。
「返す約束なんだけど、まだ返したくないんだ。もう少しでもこの水晶玉を見ていたいんだ」
岡部は水晶玉を胸の中に抱きかかえるようにして言った。
占い師との約束の時間が刻一刻と近づいていく。
「そろそろその占い師のところへ行って返した方がいいんじゃないのか?」
「ああ、分かっている」
岡部はそう言いながらも、一向に水晶玉を手放そうとはしなかった。
「そんなに見たければ、もう少し借りられるように頼んでみたらどうだ?とにかく一度返した方がいいよ」
佐伯は岡部の様子を見て、ますます不安になってきた。
「やっぱりイヤだ。もうすこし、もう少しだけ」
岡部はそう言うと、水晶玉をしっかりと抱きかかえたまま離そうとはしなかった。
佐伯はあきれたようにその姿を見ていた。
やがて佐伯の目の前で、岡部はその水晶玉に吸い込まれるようにして消えてしまった。その時は何が起こったのか信じられずに、何度も目をこするようにして水晶玉を見た。やがて気を取り直すと、恐る恐る水晶玉に近づき、手をかざしてみた。その中には、水晶玉を宝物のように抱きかかえた岡部の姿が映っていた。
「うああ」
佐伯は驚いて叫び声を上げた。
しばらくの間どうしていいのか分からず、ただ呆然として水晶玉を眺めていた。やがて水晶玉をバッグに入れると、岡部から聞いた街角の占い師を探すことにした。
ようやくそれらしき占い師を見つけたのは一時間後だった。
「あのう、これ」
そう言って、佐伯はカバンの中から大事そうに水晶玉を取り出した。
「ああ、水晶玉だね」
占い師は両手で受け取ると佐伯の顔を見た。
「確か、あんたではなかった筈だが…」
「そうです。それをお借りしたのは、俺の友達で、岡部というヤツなんだけど、そいつが返すのはイヤだって言って…」
佐伯が困った表情で言った。水晶玉に吸い込まれた、と言っても誰も信じないだろうと思った。
「そう、それであんたが届けに来てくれたわけだ。ありがとう。約束は必ず守るように言っておいたんだが…」
占い師は残念そうに言った。
「これを貸すと、ほとんどの者が手放そうとはしなくなって、約束を守らないんだ。だから貸す時は、念を押すように何度も言うんだけど…」
占い師はそう言いながら、水晶玉に手をかざした。
「なんと…やはり」
占い師はそう言ったきり何も言わなくなった。その水晶玉の中には水晶玉を抱きかかえた岡部の姿がはっきりと映っていた。佐伯の目にもその姿ははっきりと見えた。
「その中に入ると、どうなるのですか?元に戻すことはできるのですか?」
佐伯が不安そうに訊いたが、占い師は首を左右に振るだけだった。
「水晶玉にすべての魂を込めた者が一度その中に入ると、二度とそこから出ることはできない。もうこれで十人目になる」
占い師は哀しそうな表情をした。
「十人ですか…今までに何人の人にその水晶玉を貸したのですか?」
占い師は何も答えずに、諦めたように何度も首を横に振った。
完