過去の出来事
ありていに言えば、幼馴染とか腐れ縁、といった表現が一番適切だったように思う。
気が付いた時にはもう一緒にいるのが当たり前になっていて、家が近かったせいもあったのか、その付き合いは家族ぐるみレベルに肥大していた。
幼稚園に入る前から小学校…合わせて十年と少し一緒にいたあたし達は、中学に入っても変わらない距離を保っていけるんだと信じていた。
――あの日までは。
――――……
「切ったのか。」
三学期の終業式まで残り二週間を切っていた頃。
中一の冬のある朝、十分ほど遅れてきた楓は、あたしの姿を見るなり大層驚いた。
“切った”というのは別に手やら足やらに傷を作ったわけじゃない。痛くもない。――少なくとも、肉体的には。
「そうだけど。」
突き放したような口調であたしが言うと、楓はわずかに眉を寄せた。
「どうしてだ。今まで腰から上にもしなかっただろう。」
そうして楓はさらりとあたしの髪を撫ぜた。
昨日まで指を通せばしばらく絡み付いて離れなかったそれは、今は容易くヤツの指を解放する。
それがなんだか悲しくて、虚しくて。ふいと視線を逸らした。
「別に、深い意味があったわけじゃない。ただロングに飽きたから切っただけよ。」
未だ髪を触ろうとする楓の手を軽く止めて、あたしはヤツの傍を離れようと踵を返した。
今は朝早いから教室には誰もいない。
それならまだいい。――けれど、もうすぐ人が来る。
ヤツと二人きりで話しているこの状況。
今まではそれが普通だったのに、これからはそうはできない。
そうさせてくれない。
早く、早く。慣れなければ。
楓がいないことが日常となるように。
「おい真由。」
あたしが教室を出るより早く、楓があたしの腕を掴んできた。
少し前まではなんだかんだ言っても心地よかったこの温度が、この時間が。――今のあたしにはたまらなく煩わしい。
「何。」
「……お前、何か隠してないか。」
そう言った楓の目はいつになく真剣そのもので。
その見透かされそうな瞳に、あたしは一度怯んだ。
けれど怯む様子を顔に出す一歩手前でなんとかポーカーフェイスを保持する。
演技しろ、あたし。
今までの苦労を無駄にする気か。
「別に隠してない。」
「けどお前、その髪……。」
「髪が短くなったからって何? いくら幼馴染だからってあたしの髪型にまで口出す権利ないと思うけど。」
極めて冷たく聞こえるよう言葉を紡ぐと、それに比例して楓の顔には(基本鉄面皮なので分かりにくいけれど)みるみる傷ついた要素が足されていく。
少し、良心が痛んだ。
――さぁ、もうすぐクラスメイト達がやってくる。
手早く終わらせなければ。
「真由。」
「あたし、今日からお母さんの店を手伝うことになったから。」
だから、もう一緒には帰れない。
情けない顔をした楓に追い打ちをかけるように、あたしはやんわりと笑みをのせた。
「さよなら、”沖口”」
その言葉を聞いた直後、沖口の手からは力が抜け、その隙を突くようにあたしはヤツの手から逃れると教室を後にした。
――廊下に出ると聞こえてくるのは朝から騒々しい声をまき散らす同級生たちの声。
あぁ、間に合った。あいつらが来る前に。
本来ならば安堵のため息を吐いてもいいはずなんだけれど、あたしはギュッと表情を険しくすると、声のする方とは反対の方向に、まるで逃げるように、足を進めた。
『沖口くんに近づき過ぎじゃない?』
『いくら幼馴染だからって、図々しすぎるんだよ。』
そんなような理不尽な暴言は今まで飽きるほど聞いてきた。
いっそムカつくくらい理想の男性像の大半を制覇していた沖口は、周りがそういうことに興味を持ち始める小学5年くらいから女の子達に好かれていた。
だから、必然的にそばにいたあたしは彼女達にとって邪魔者でしかなかったわけだ。
あたしとしてはただの幼馴染だったし、そんなことしている暇があるならもっと女を磨けよ、と説教してやりたいくらいなのだけれど。
そんな不毛な応酬を繰り返していたからそういった類には慣れ切っていた。
――けれど、昨日のは違った。
沖口のファン達の中でもとりわけ過激だと噂されていた女の子達が突然あたしを――ベタだけれど――体育館裏に呼び出した。
「つーかさぁ、マジあんた目障りだってこと気づいてる?」
「家が近いんだか昔馴染みだか知らないけど、沖口君を独り占めするとか…何調子こいてんの?」
「沖口くんだけじゃなくてほかの男子にも可愛いからってちやほやされてるから?
そういう女ほどイタイってそろそろ知った方がいいよー?」
口汚い暴言は、正直言って許容範囲内だった。
投げつけられる幼稚な言葉達に内心呆れ返りながら右から左に流していると、そんなあたしの無気力さが癪に障ったのか、彼女達の勢いはさらにエスカレートしていった。
「ちょっとぉ…なんとか言いなさいよ! 何自分関係ないみたいなカオしてんの!?」
「……別に、言うことなんてないし。
というか、興味ない。楓だってあたしのことそういう風には見てないと思うし…正直、この時間自体無意味だと思ってるから。」
「この…っ、オイ、引き倒せ!」
5人いた内の1人がそう叫ぶように言った瞬間、残りの4人が一斉にあたしに飛び掛かってきた。
突然のことに反応できなかったあたしはなす術もなく簡単にその場に押さえられる。
「い…っ、何するの!!」
「あんたちょっと痛い目みないと分かんないみたいだから。
制裁ターイム、ってやつ?」
下品な笑いを浮かべた彼女が取り出したのは――ハサミ、だった。
さらに乱暴な手つきでグイッと髪を掴まれて……全身の血が一気に凍った。
「な、何を……っまさか、」
「確か、男子達からは大和撫子だの和風美人だの言われてたっけ?
こんな髪さえなくなったら、あんたに取り柄なんてなーんにもなくなっちゃうと思わない?」
ハサミが、髪の間を通る。
動こうと抵抗しても、4人がかりで押さえつけられてはびくともしなかった。
「やめ…やめて、嫌……!!」
「あっはは、いー気味!
じゃ、いっきまーす。」
ヤツは今風邪をひいていて学校にはいない。
この時間帯に、こんな所を通る人だっていない。
誰も、助けてなんかくれない――――。
ジャキン。
この音が、あたしの終わりだった。
その後に残されたのは彼女達の高らかに笑う声と、無残に切られた髪達だった。
……髪くらい、と。他人から見たらそう思うだろうか。
けれどあたしにとって、髪は自分の命よりも大切だった。
少なくとも、あたしの中の何かを壊すくらいには。
『俺は好きだな。お前のその長い髪。』
そう言われてからあたしが無意識下も含めどれだけ大切にしようと努力してきたか。
切られたこの時になって気づいた。
さらに言うならもう一つ気づいたことがある。
こんな、幼馴染に言われた言葉一つであたしが髪を大切にし始めたというなら。
――あたしは、沖口のことを本当に幼馴染程度にしか思っていなかったのか。
どちらにせよ、大切なものを失くしたあたしの世界は既に壊れていて、今さら修復することなんてできないんだけれど。
その翌日、沖口をはっきり拒絶したあたしは風になびく髪を視界で確認しながら、行くあてもなくただ足を動かしていた。
――――……
それからのあたしの行動は、自分で言うのもなんだけど早かった。
前々からお母さんに会社が移転するから出来れば引っ越しをしたいという相談にもあっさりと了承し、ついでに転校もしたいと申し出た。
頑張れば通えない距離じゃないけれど、やっぱり朝早いのはキツイからと。
あたしの言い分に最初お母さんは怪訝そうな顔をしていたけれど、あたしの意思が固いことに気づくと何も言わずに首を縦に振ってくれた。
学校では沖口を徹底的に避けて、家では密かに引っ越しの準備を進める。
そうして三学期の終業式が終わり、中一としてのあたしに終わりを告げた日。
あたしは、逃げるように(というより完全に逃げた)学校からも沖口が近くに住む町からも消えた。
それから四年。
中学時代のトラウマはあっても、沖口と顔を合わせることにあたしは自分でも不思議なくらい抵抗を感じていなかった。
それは高校の入学式の頃から変わっていなくて、偶然鉢合わせた時もあたしもアイツも何食わぬ顔で挨拶して。
成嶋君が月奈のことを好きでことあるごとにちょっかいをかけ始めた時も、それが要因となってなんだかんだ沖口と顔を合わせる機会が多くなった時も。
二人が付き合い始めた時だって、あたし達の間に重苦しい空気なんて微塵もなかった。
ただ、つるんでいる。そんな距離感。
“楓”と呼ばない距離感。
近づき過ぎてあんなことになるくらいならと、そうやって作った関係に、あたしは満足していたはずだ。
――沖口は、どうだったのだろうか。
ヤツは、今でも罪悪感をひきずっているのだろうか。
分からない。
「……難しいね、人間関係って。」
ため息交じりで隣にいた成嶋君に呟くと、彼は少し微笑った。
「そんなもんじゃない? オレだって最初は月奈と犬猿の仲っぽかったし。」
「いや、それは明らかに成嶋君のせいだと思う。」
さっきとはまた違った意味でため息を吐きながら腕時計に視線を落とすと、ちょうどお昼休みも半分を回ったところだった。
…そろそろ食べないとまずいか。次移動教室だし。
「じゃ、そんな悩めるあたしの為にお昼ご飯よろしく。」
「うん。…ん?」
「あたし今財布持ってないし、お弁当忘れてきちゃったから。
サンドイッチとお茶、よろしくー。」
にんまりと笑いながらヒラヒラと手を振ってその場を後にする。
後ろから”理不尽…”という言葉が聞こえてきたような気がするけれど無視。
とりあえず。これから色々、どうしようか。
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