失態と優しさ
――目が覚めて一番最初に思ったことは、”やっちゃった”だった。
別に比喩とかオブラートに包んだりとか、そんなこと全然していない。
文字通り”ヤッてしまった”のだ、あたしは。
「あー…人生で一番最悪な失態だわ、こりゃ。」
とりあえずむくりと起き上がると、目の前に広がるのは見慣れたアイツの部屋。
ベッドがまだ少し暖かい。それにこの水音――多分シャワーでも浴びているんだろうと大方の予想をつけてから、あたしはまだ痛む腰に眉を顰めながらベッドを降りた。
ベッドの周りに乱雑に散らばっている自分の服をかき集め適当に身に着けて、一階に降りる。場所を移動しても聞こえるのはシャワーの音だけで、他はまるで人の気配がしなかった。…なんて、アイツの両親は昨日から出張に出かけているのは既に知っている。(まぁだからこそこんな事態になっているわけなんだけれども。)
キッチンの冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを一口飲んだのと同時に、いつの間にか水音がしなくなった浴室からガチャリと扉の開く音がした。
視線をそちらに向けると、そこにいたのはまぁ当たり前といえば当たり前、不本意ながら昨夜一晩を大人の事情的な意味で共にしてしまった幼馴染の姿だった。
そいつはあたしの姿を視界に映すなり微かに目を見開いた。
「……もう、動いて大丈夫なのか?」
第一声がそれかよ、と心の中で突っ込みを入れながらあたしはペットボトルのキャップを締める。
「まぁね。…ていうか、そう思うんなら手加減くらいしたらどうなの。お陰さまで腰の痛みはマックスだっつの。」
毒づきながらペットボトルをヤツに向かって放り投げる。結構乱雑に放ったつもりだったけれど、ヤツは器用にそれを受け取った。…ち、惜しい。
「あー…悪かった。」
「…別に、もう過ぎたことだししつこくは言わないけどさぁ。カノジョ出来たとき上手く手加減出来ないと逃げられるよ? “沖口君最悪―”って。」
「…それは、お前も同じなのか?」
「……は?」
上手く聞き取れなくて首を傾げると、ヤツ――沖口は、”いや”と呟くように言いながらあたしから視線を外し、ミネラルウォーターを喉に流し込んだ。
その顔は少し苦笑の色を浮かべていて…変なヤツだ。言いたいことがあるならはっきりと言えばいいのに。
「…今日、なんかあるの?」
なんとなく流れた気まずい雰囲気を飛ばしたくて無理やり話題を変えた。
突然の流れに沖口はびっくりするでもなく、しれっと今日の予定を頭の中で整理しだした。(…こんの鉄面皮め。)
「部活、だな。今日の予定といったら」
「朝からあるの?」
「あぁ。」
ちろりと時計を見れば、時刻は六時半を指していた。
コイツが家を出るのが七時だとすると…後三十分は余裕があるか。
「朝ご飯食べたの?」
「これから食べるところだ。」
「作った方がいい?」
なんとなく、昔からの口癖で問いかけてみると、沖口はまた苦笑した。
「…いや、簡単に済ませるつもりだから大丈夫だ。それよりお前はもう少し休んでろ、真由。辛いんだろう?」
「別に、今すぐ倒れたいほど辛いってわけでもないけど。」
「無理させた手前、ここで更に注文つけるわけにはいかないからな。まだ動けるんならシャワーでも浴びてきたらどうだ。」
言いながらクシャッとあたしの頭を撫でた後、沖口はキッチンの奥へと入っていった。
こうなってしまってはあたしがここにいる意味はないんだろう。”ハイハイ”と誰に言うでもなく呟いてから、あたしは浴室へと足を運んだのだった。
――――……
身に着けていた服を脱衣かごに適当に放って、あたしは浴室に入るとシャワーのコックをひねった。
少し熱めのお湯を頭からかぶりながら、あたしは今さらながら深いため息を一つ吐き出した。
そもそもどうしてこんなことになったのか。冷静になって考えてみても理由なんて全く思いつかなかった。
一応未成年だったからおばさん達がいないからって別にお酒飲んだわけでもないし、というか、あたしはただ単にご飯を作りに来ただけだ。おばさんに頼まれて。
まぁ沖口の妹である桜(ちなみに現在中学2年。しかもあたしにかなり懐いてくれてる可愛いヤツだ)が友達の家に泊まりに行っていたことは多少誤算だったけど、そんなこと今に始まったことじゃないし、沖口に襲われる原因になるとも考えられない。
そんな今さら、”幼馴染”なんて面倒なものに手を出す理由なんて、なかなかないと思う。
沖口 楓。
およそイマドキな男子とは言えないヤツは、和服やら旅館やらの事業で活躍している企業の御曹司――つまり、金持ちのボンボンだ。(本人は否定している。)
厳しいようでいて意外と緩い校風であるうちの高校にしては珍しい、男にしては少し長い黒髪を低い位置で一つに束ねておばさん仕込みの”和”という言葉がしっくりくる凛とした立ち振る舞い。
カッコイイというよりは綺麗という形容詞の方がピッタリとはまる容姿でバスケ部の三柱を担うとあれば当然も当然。沖口はどこに行っても女の子の注目の的だった。
中学は二年からあたしが転校したから本当のところはよく分からないけど…おそらくそういう色恋的なものには興味が湧かないのか、生まれたときから今の今まで、沖口に女の影がちらついたことは一切なかった。
その気になれば女なんてより取り見取りでしょうに…なんて勿体ない男なんだ、とはもう散々考えすぎて飽きてきた今日この頃。
それに対してあたし、立花 真由。
父親は早くに他界していて、兄弟もいないあたしにとって唯一の肉親である母親であり、ついでに今をときめく飲食チェーン店の社長である知世子を持つただの高校二年生だ。(と言ったら親友にすごい顔をされた。あの子にとってあたしは十分”お嬢様”にみえるらしい)
特技は母親譲りの料理で、勉強は国語だけならトップクラス、体育は平均よりちょっと下。
沖口のことは言えない、やっぱりうちの高校では珍しい黒髪を乱雑に短く切りそろえたあたしは、ポジション的には沖口の幼馴染といって差し支えないと思う。
…いや、中学には離れていたわけだから、むしろ”元”幼馴染と言ったって良いはずだ。
そのはず。確実に、それで十分形容出来る関係だった。
断じてこんな、ありえなく面倒くさい関係になりたいと思っていたわけじゃない。
どうしてこんなことになってしまったのか。実はあたしにも何か問題があったんだろうか。
そう、いくら自問自答を繰り返してみても混乱していた当時の記憶を引っ張り出すのは容易な作業というわけでもなく。
あたしはまた重苦しいため息を吐くより他なく、ただ無心でお湯を引っ被るしかなかったのだった。
――――……
勝手知ったる、とはよく言ったもので浴室から出たあたしは脱衣所のタンスを迷いなく開けてバスタオルを拝借し、身体を拭いて服を身に着ける。
髪を拭きながらリビングへと戻ると、そこにはもう家の住人の気配すらなく、かわりにテーブルには保温調整されたコーヒーの入ったケトルと食パンとイチゴジャム、そして一枚のメモと鍵だった。
ペラリ、とメモを手に取ると、
『そろそろ出る時間だから行く。朝飯は適当に食べとけ。しばらく家にいて良いし、すぐ出ても問題ない。鍵は預けとくから後で返せ。』
と、いうような内容が簡潔に記されていた。
その書き方があんまりにもヤツらしいので思わず笑みを漏らす。
まぁ、沖口の方はそんなに気にしていないみたいだし?
ここであたしが変に気にしすぎるのも不自然か、なんて。
沖口のおかげで幾分か解れた気持ちを胸に、あたしはコーヒーカップへと手を伸ばしたのだった。