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床下の長い夜

 雨は、夕方になってもやみませんでした。

 屋根の上では、雨粒が静かに跳ねています。

 壊れた瓦のすきまから落ちた水は、廃屋の床をゆっくり流れていました。

 机の下の小さな水たまり。

 そこに、ハルとツユは並んでいました。

 雨の音は、遠くから聞こえる海のように広がっています。

「まだ降ってるね」

 ハルが言いました。

「うん」

 ツユは水の流れを見つめていました。

 昼間にできた小さな川は、少しずつ形を変えています。

 新しい水が流れてくるたびに、道が変わるのです。

 ハルはその様子を見るのが好きになっていました。

 水は、いつも同じところを通りません。

 少しずつ、違う道を見つけます。


「ツユ」

「なあに?」

「この水、どこへ行くの?」

 ツユは少し考えました。

「たぶん……床の下」

「床の下?」

 ハルは上を見ました。

 古い板でできた床。

 ところどころすきまがあります。

 そのすきまに水が吸い込まれていくのが見えました。

「下にはね」

 ツユが言いました。

「もっと暗い場所があるの」

「もっと暗い?」

「うん。光があんまり来ないところ」

 ハルは少しだけ不安になりました。

 光の場所が好きだからです。

 でも同時に、知らない場所のことが気になりました。

「行ってみたい?」

 ツユが聞きました。

 ハルは少し迷いました。

 暗い場所。

 光がない場所。

 怖い気もします。

 でも。

 ハルの胸の奥には、小さな好奇心がありました。

「……うん」

 ツユは静かにうなずきました。

「じゃあ、水について行こう」


 そのとき。

 水の流れが、床のすきまへ向かいました。

 細い溝を伝って、ゆっくりと落ちていきます。

「今だよ」

 ツユが言いました。

 ハルとツユは、水の流れに乗りました。

 すうっと体が動きます。

 そして。

 するり。

 床のすきまを通り抜けました。

 その瞬間。

 世界が変わりました。

 床の下は、とても暗い場所でした。

 湿った木の匂いがします。

 古い土の匂いもしました。

 床の裏側には、たくさんの木の柱があります。

 それらが、静かに家を支えていました。

 水はその柱の間を流れていきます。

 ハルはゆっくり周りを見ました。

 光はほとんどありません。

 でも、完全な暗闇ではありませんでした。

 上の床のすきまから、細い光がいくつか落ちているのです。

 それは、夜の星のようでした。

「ここが……床の下?」

 ハルは小さく言いました。

「うん」

 ツユが答えました。

「わたしも、あんまり来たことないけど」

 水はやがて小さな溝に集まりました。

 そこで流れはゆっくり止まります。

 ハルとツユも、静かにそこに降りました。

 しばらく、音はありませんでした。

 上の雨の音だけが、遠くで響いています。


 そのとき。

「……新しい声だな」

 低い声が、暗闇の奥から聞こえました。

 ハルはびくっとしました。

「だ、だれ?」

 ツユも少し緊張した様子です。

 暗闇の向こうから、ゆっくり何かが動きました。

 それは、小さなウイルスでした。

 でもハルより、ずっと落ち着いた雰囲気があります。

 動きはゆっくりで、静かです。

「初めてここに来たのか」

 そのウイルスは言いました。

「うん」

 ツユが答えました。

「雨で流されてきちゃって」

 そのウイルスは少しだけうなずきました。

「そうか」

 しばらく、静かな時間が流れます。

 ハルは勇気を出して聞きました。

「あなたは……?」

 そのウイルスは、ゆっくり答えました。

「カゲ」

「ここに、ずっといる」

 カゲ。

 その名前は、暗い場所によく似合っていました。

 ハルはカゲを見つめました。

 カゲの動きはとてもゆっくりです。

 まるで長い時間を知っているようでした。

「上から来たんだろう」

 カゲが言いました。

「光の場所から」

 ハルはうなずきました。

「うん。朝になると、光が来るんだ」

 カゲは少しだけ空を見上げました。

 床のすきまから、細い光が落ちています。

「春の光だな」

 カゲは静かに言いました。

 ハルは、その言葉に反応しました。

「春? それって、ツユも言ってた季節っていうやつ?」

 カゲはしばらく黙っていました。

 まるで遠い記憶を思い出しているようでした。

「そうだ。季節だ」

 カゲはゆっくり続けました。

「ここはな、春が来て、夏が来て、秋が来て、そして冬が来る」

 ハルにはまだ、その意味がわかりません。

「それって、どうなるの?」

 カゲは少し考えました。

 そして静かに言いました。

「世界が、少しずつ変わる」

 上では、雨がまだ降っています。

 床下の空気は冷たく、静かでした。

 ハルはその言葉を胸の中で転がしました。

 世界が変わる。

 それは少し怖くて、でも不思議でした。

 カゲはゆっくり目を閉じました。

「今は春だ。まだ、やさしい季節だ」

 ハルは上の光を見上げました。

 細い光が、床のすきまから落ちています。

 その光は、遠くて、静かでした。


 雨の夜。

 廃屋の床の下で。

 ハルは初めて、「季節」という言葉の意味を知りました。


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