ワラウ妃ニナニガアル
銀のトレイは、思ったより重い。
三年前のリーナは知らなかった。
給仕の仕事がこれほど体力を使うことも。
地味な使用人服を着てこの場に立つことも。
何より──かつての婚約者の隣に別の女が立っているのを、微笑みながら見続けることが、これほど静かに消耗することも。
王宮の大広間は、今夜も豪華だった。
シャンデリアの光が磨かれた床を照らし、貴族たちの笑い声と弦楽の音が混ざり合っている。どこもかしこも金と白で飾られた、華やかな夜会だった。
リーナはトレイを持って、人混みの端を静かに歩いた。
中央に、エドワード王子がいた。
隣にクローデット。栗色の髪に赤いドレス。今夜もよく笑っていた。
エドワードがクローデットに何か囁いた。クローデットが声を立てて笑った。
リーナはその二人に向かって歩いていった。
「どうぞ」
微笑みながらワインを差し出した。
エドワードがグラスを取った。リーナには目を向けなかった。給仕など、景色と同じだ。そういう人だった。昔から。
「ありがとう」
クローデットだけが、軽く会釈した。
リーナは深くお辞儀をして、その場を離れた。
心の中は、氷だった。
冷たく、静かで、揺れなかった。
三年間で、そういう心になった。
◇
三年前の夜のことは、今でも鮮明に覚えている。
あの夜もこんな場所だった。王宮の大広間。華やかな夜会。
リーナは中央に立っていた。王妃候補として。三年間、その立場で生きてきた。
エドワードが口を開いた。
「皆に伝えることがある。新たな婚約者として、クローデット・ベルナール伯爵令嬢を迎えることにした」
広間が静まり返った。
リーナも、静まり返った。
エドワードはリーナのほうを向かなかった。向く必要がないとでも思っているような顔だった。
「リーナ・ファルネには、これまでの労に感謝する」
労。
三年間が、その一言で終わった。
リーナは笑った。
泣かなかった。震えなかった。ただ深くお辞儀をして、「おめでとうございます」と言った。
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
それから一週間後、父が連行された。
国家反逆罪。
証拠書類は整然と揃っていた。
全部でっち上げだったが、そのときはまだわからなかった。
家が没収された。財産が没収された。使用人たちが散らばった。
父が獄中で死んだ夜、リーナは初めて泣いた。
声を押し殺して、一人で泣いた。
翌朝、鏡の前で笑顔を作った。
うまく笑えなかった。何度も練習した。
やっと笑えるようになったとき、リーナは決めた。
もう二度と、人前では泣かない。
笑顔は武器にする。
そして──全部、返してもらう。
ヴィクター侯爵の屋敷に使用人として潜り込んだのは、父が死んで二ヶ月後だった。
黒幕がヴィクターだと気づいたのは、その半年後のことだ。
屋敷の奥で交わされる会話を、偶然に聞いた。
「ファルネ侯爵の件は、うまく片づいた」
ヴィクターの声だった。
「王子も使いやすい。あの程度の男が王になれば、我々が動きやすい」
リーナはその場から動かなかった。
怒りはあった。
でもその怒りを、顔には出さなかった。
胸の奥にしまった。
燃料だ、と思った。
それからの二年半、リーナは笑顔で給仕をしながら証拠を集め続けた。
ヴィクターが交わす会話を聞いた。書類を少しずつ写した。繋がりのある人間を調べた。
全部、今夜のためだった。
◇
夜会も中盤に差し掛かった頃、リーナはトレイを持って廊下に出た。
厨房への道を歩いていると、暗い角で人影に気づいた。
「そこを通してもらえますか」
リーナは微笑みながら言った。
男が振り返った。三十代くらい。黒い外套。腰に剣。使用人でも、夜会の客でもない。
「あなたは」と男が言った。「リーナ・ファルネですか」
リーナの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「人違いです」
「旧ファルネ侯爵家の令嬢。今は使用人として、この屋敷に潜伏している」
リーナはトレイを持ったまま、男を見た。
「何者ですか」
「カイル・セルヴァン。王家直属の調査官です」
カイルが懐から証章を出した。王家の紋章が入ったそれは、本物だった。
「ヴィクター侯爵を三年間追っています」
リーナはしばらく黙った。
「何が目的ですか」
「手を貸したい。あなたが持っている証拠と、私の権限を合わせれば、ヴィクターを完全に追い詰められる」
リーナはカイルを見た。
嘘をついていない、と思った。目が真っ直ぐだった。
「一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「私の計画を利用したいだけですか」
カイルが少し間を置いた。
「最初はそのつもりでした」
正直な答えだった。
「ただ、三年間の記録を見て考えが変わりました。これだけのことを一人でやってきた人間を、利用するだけで終わらせたくない」
リーナはトレイを持ち直した。
「……証拠は揃っています」
それが、答えだった。
◇
決行の夜を、リーナは王宮の年に一度の大夜会に設定した。
エドワードとヴィクターが同じ場所に揃う、唯一の夜。
リーナは今夜も給仕として会場を歩いた。
トレイを持って、微笑みながら。
何も変わらない夜のように見えた。
でも、違った。
カイルが会場の各所に配置した部下たちが、証拠の書類を持って待機していた。
リーナが会場を一周するたびに、準備が整っていく。
エドワードがクローデットと笑っている。
ヴィクターが重鎮たちと話している。
誰も、何も気づいていない。
リーナはヴィクターのそばを通りながら、ワインを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
ヴィクターはリーナを見なかった。
笑顔のまま、リーナはその場を離れた。
夜が深まった頃、カイルと目が合った。
リーナは小さくうなずいた。
カイルが動いた。
会場の中央で、カイルが声を上げた。
「皆様に、重要な報告があります」
音楽が止まった。
「ヴィクター・ラングレー侯爵による、不正行為の証拠をご覧いただきます」
広間が静まり返った。
一枚目。三年前、リーナの父に着せた冤罪のでっち上げ書類。
ヴィクターが笑った。「何を馬鹿なことを」
二枚目。ヴィクターが王子エドワードに渡していた献金の記録。
エドワードの顔が曇った。
三枚目。ヴィクターが過去十年間に握り潰してきた告発状の束。
ヴィクターの笑顔が、消えた。
「これは偽造だ」
ヴィクターが叫んだ。「誰かが私を陥れようとしている。こんな書類、信用するな」
「仕組んだのは私です」
静かな声が、広間に響いた。
人混みの中から、一人の給仕が歩み出た。
銀のトレイを脇に置いて。微笑みながら。
会場の視線が集まった。誰もが「誰だ」という顔をしていた。
一人を除いて。
「……リーナ?」
エドワードの声が、かすれた。
「ご記憶いただけて光栄です、殿下」
リーナは深くお辞儀をした。
「三年ぶりでございます」
ヴィクターが声を上げた。
「使用人の言葉など信用に値しない。この娘は反逆者の娘だ」
「反逆者にしたのは、あなたではないですか」
リーナの声は、静かだった。
怒鳴らない。震えない。ただ、淡々と。
「三年前、父に着せられた罪の証拠を今夜ご覧いただきました。偽造かどうかは、文書鑑定官に確認していただければわかります」
カイルが一歩前に出た。「鑑定官は既に待機しています」
ヴィクターが青ざめた。
「私は……そんなことは知らない。誰かが私の名を使って」
「では、この書類に押されたあなたの印章はどう説明しますか」
カイルが最後の一枚を広げた。
ヴィクターが口を開いた。閉じた。また開いた。
言葉が、出てこなかった。
会場の重鎮たちが顔を見合わせた。
「リーナ」
エドワードが立ち上がった。「私は知らなかった。ヴィクターがそんなことをしていたとは」
「存じております」
リーナはエドワードを見た。
「殿下は知らなかった。ただ、知ろうともしなかった」
エドワードが黙った。
「三年前、私を切り捨てた翌週に父が連行されました。おかしいと思いませんでしたか。思っても、調べなかった。それが殿下のお答えでした」
広間が、しんと静まり返った。
そのとき、クローデットが震える声で言った。
「私は……ただ隣に立って、笑っていただけで、何も知らなかったのです」
リーナはクローデットを見た。
悪い人ではない、とわかった。笑って、隣に立っていただけの人。それは本当のことだと思った。
だからこそ、リーナは静かに言った。
「笑うことしかできない妃に、何があるというのですか」
クローデットが息を呑んだ。
「たしかに、笑顔は武器になります。でもそれだけでは、いつか誰かに使われて終わる」
リーナはクローデットを真っ直ぐに見た。
「それが、三年間で私が学んだことです」
クローデットが、何も言えなくなった。
リーナはエドワードとヴィクターに向き直った。
「三年間、笑いながら準備しました」
一歩、前に出た。
「殿下とヴィクター様が私から奪ったものを、今夜全部返していただきます」
深くお辞儀をした。
「父の名誉を。家の名誉を。そして──三年間分の、時間を」
顔を上げたとき、リーナはまだ微笑んでいた。
でもその笑顔は、今夜が最後だった。
◇
全てが終わったのは、夜が深まってからだった。
ヴィクターは王家の騎士に連行された。エドワードは側近たちに囲まれて別室に消えた。会場は静かな混乱の中に沈んでいった。
リーナは王宮の庭に出た。
一人になりたかった。
噴水の音だけが聞こえた。月が出ていた。冷たい夜風が、頬を撫でた。
リーナは噴水の縁石に腰を下ろした。
手を見た。三年間、トレイを持ち続けた手。証拠を書き写し続けた手。
震えていた。
怖かったのか。安堵したのか。どちらかわからなかった。
ただ、張り詰めていた何かが少しずつ溶けていく感覚だけがあった。
「終わりましたね」
声がした。
振り返ると、カイルが立っていた。
「……終わりました」
リーナは答えた。
笑顔を作らなかった。
この三年間で、人前で笑顔を作らなかったのは初めてだった。
カイルがリーナの隣、少し離れた縁石に腰を下ろした。月を見上げた。
「これからどうするつもりですか」
「わかりません」
リーナは正直に答えた。「三年間、これだけを考えてきたので。終わった後のことは、何も考えていなかった」
「父上の名誉回復の手続きは、私が進めます。家の再建についても、今夜の件を踏まえれば通るはずです」
「……ありがとうございます」
「礼には及びません。当然のことですから」
しばらく沈黙が流れた。
噴水が月の光を受けて、きらきらと揺れていた。
「一つだけ、聞いていいですか」
カイルが言った。
「次に笑うときは、本物の笑顔で笑えますか」
リーナは言葉に詰まった。
三年間、笑顔は武器だった。道具だった。本物の笑顔の作り方を、いつの間にか忘れていた。
「……わかりません」
正直に答えた。
「三年間で、笑い方を忘れました」
笑うことしかできなかった三年間が、終わった。
カイルが手を差し出した。
「では、思い出す手伝いをさせてください」
リーナはその手を見た。
信じていいのか、まだわからなかった。三年間、誰も信じなかった。信じる必要がなかった。
でも今夜、この人は隣に立っていた。
利用するだけでは終わらせたくないと言った。正直に。
リーナはゆっくりと手を伸ばした。
カイルの手を取った。
温かかった。
夜風が吹いた。
リーナの口元が、ほんの少しだけ、自然にほどけた。
笑顔ではなかった。
ただの、力が抜けた顔。
でも三年ぶりに、作ろうとしていないのに、自然に表情が動いた。
「……変な感じがします」
リーナが呟いた。
「何がですか」
「笑おうとしていないのに、口元が動いた」
カイルが少し目を細めた。「それが本物の笑顔だと思います」
「そうですか」
「そうです」
リーナはもう一度、自分の口元に触れた。
確かめるように。
噴水がきらきらと光を弾いていた。月が、雲の向こうから顔を出した。
ワラウ妃の夜が、終わっていく。
長い、長い夜が。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
笑顔を武器にした令嬢の復讐を、最後まで付き合っていただけたこと、嬉しく思います。
「スカッとした」「リーナを応援したくなった」と少しでも思っていただけたなら、評価やコメントで教えていただけると励みになります。次の作品を書く力になります。




