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短編小説

ワラウ妃ニナニガアル

作者: おでこ
掲載日:2026/02/24


 銀のトレイは、思ったより重い。


 三年前のリーナは知らなかった。


 給仕の仕事がこれほど体力を使うことも。

 地味な使用人服を着てこの場に立つことも。


 何より──かつての婚約者の隣に別の女が立っているのを、微笑みながら見続けることが、これほど静かに消耗することも。


 王宮の大広間は、今夜も豪華だった。


 シャンデリアの光が磨かれた床を照らし、貴族たちの笑い声と弦楽の音が混ざり合っている。どこもかしこも金と白で飾られた、華やかな夜会だった。


 リーナはトレイを持って、人混みの端を静かに歩いた。


 中央に、エドワード王子がいた。


 隣にクローデット。栗色の髪に赤いドレス。今夜もよく笑っていた。


 エドワードがクローデットに何か囁いた。クローデットが声を立てて笑った。


 リーナはその二人に向かって歩いていった。


「どうぞ」


 微笑みながらワインを差し出した。


 エドワードがグラスを取った。リーナには目を向けなかった。給仕など、景色と同じだ。そういう人だった。昔から。


「ありがとう」


 クローデットだけが、軽く会釈した。


 リーナは深くお辞儀をして、その場を離れた。


 心の中は、氷だった。


 冷たく、静かで、揺れなかった。


 三年間で、そういう心になった。





    ◇





 三年前の夜のことは、今でも鮮明に覚えている。


 あの夜もこんな場所だった。王宮の大広間。華やかな夜会。


 リーナは中央に立っていた。王妃候補として。三年間、その立場で生きてきた。


 エドワードが口を開いた。


「皆に伝えることがある。新たな婚約者として、クローデット・ベルナール伯爵令嬢を迎えることにした」


 広間が静まり返った。


 リーナも、静まり返った。


 エドワードはリーナのほうを向かなかった。向く必要がないとでも思っているような顔だった。


「リーナ・ファルネには、これまでの労に感謝する」


 労。


 三年間が、その一言で終わった。


 リーナは笑った。


 泣かなかった。震えなかった。ただ深くお辞儀をして、「おめでとうございます」と言った。


 自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。


 それから一週間後、父が連行された。


 国家反逆罪。

 証拠書類は整然と揃っていた。

 全部でっち上げだったが、そのときはまだわからなかった。


 家が没収された。財産が没収された。使用人たちが散らばった。


 父が獄中で死んだ夜、リーナは初めて泣いた。


 声を押し殺して、一人で泣いた。


 翌朝、鏡の前で笑顔を作った。


 うまく笑えなかった。何度も練習した。


 やっと笑えるようになったとき、リーナは決めた。


 もう二度と、人前では泣かない。


 笑顔は武器にする。


 そして──全部、返してもらう。





 ヴィクター侯爵の屋敷に使用人として潜り込んだのは、父が死んで二ヶ月後だった。


 黒幕がヴィクターだと気づいたのは、その半年後のことだ。


 屋敷の奥で交わされる会話を、偶然に聞いた。


「ファルネ侯爵の件は、うまく片づいた」


 ヴィクターの声だった。


「王子も使いやすい。あの程度の男が王になれば、我々が動きやすい」


 リーナはその場から動かなかった。


 怒りはあった。


 でもその怒りを、顔には出さなかった。


 胸の奥にしまった。


 燃料だ、と思った。


 それからの二年半、リーナは笑顔で給仕をしながら証拠を集め続けた。


 ヴィクターが交わす会話を聞いた。書類を少しずつ写した。繋がりのある人間を調べた。


 全部、今夜のためだった。





    ◇





 夜会も中盤に差し掛かった頃、リーナはトレイを持って廊下に出た。


 厨房への道を歩いていると、暗い角で人影に気づいた。


「そこを通してもらえますか」


 リーナは微笑みながら言った。


 男が振り返った。三十代くらい。黒い外套。腰に剣。使用人でも、夜会の客でもない。


「あなたは」と男が言った。「リーナ・ファルネですか」


 リーナの笑顔が、一瞬だけ固まった。


「人違いです」


「旧ファルネ侯爵家の令嬢。今は使用人として、この屋敷に潜伏している」


 リーナはトレイを持ったまま、男を見た。


「何者ですか」


「カイル・セルヴァン。王家直属の調査官です」


 カイルが懐から証章を出した。王家の紋章が入ったそれは、本物だった。


「ヴィクター侯爵を三年間追っています」


 リーナはしばらく黙った。


「何が目的ですか」


「手を貸したい。あなたが持っている証拠と、私の権限を合わせれば、ヴィクターを完全に追い詰められる」


 リーナはカイルを見た。


 嘘をついていない、と思った。目が真っ直ぐだった。


「一つだけ聞いていいですか」


「どうぞ」


「私の計画を利用したいだけですか」


 カイルが少し間を置いた。


「最初はそのつもりでした」


 正直な答えだった。


「ただ、三年間の記録を見て考えが変わりました。これだけのことを一人でやってきた人間を、利用するだけで終わらせたくない」


 リーナはトレイを持ち直した。


「……証拠は揃っています」


 それが、答えだった。





    ◇





 決行の夜を、リーナは王宮の年に一度の大夜会に設定した。


 エドワードとヴィクターが同じ場所に揃う、唯一の夜。


 リーナは今夜も給仕として会場を歩いた。


 トレイを持って、微笑みながら。


 何も変わらない夜のように見えた。


 でも、違った。


 カイルが会場の各所に配置した部下たちが、証拠の書類を持って待機していた。


 リーナが会場を一周するたびに、準備が整っていく。


 エドワードがクローデットと笑っている。

 ヴィクターが重鎮たちと話している。

 誰も、何も気づいていない。


 リーナはヴィクターのそばを通りながら、ワインを差し出した。


「どうぞ」


「ありがとう」


 ヴィクターはリーナを見なかった。


 笑顔のまま、リーナはその場を離れた。


 夜が深まった頃、カイルと目が合った。


 リーナは小さくうなずいた。


 カイルが動いた。





 会場の中央で、カイルが声を上げた。


「皆様に、重要な報告があります」


 音楽が止まった。


「ヴィクター・ラングレー侯爵による、不正行為の証拠をご覧いただきます」


 広間が静まり返った。


 一枚目。三年前、リーナの父に着せた冤罪のでっち上げ書類。


 ヴィクターが笑った。「何を馬鹿なことを」


 二枚目。ヴィクターが王子エドワードに渡していた献金の記録。


 エドワードの顔が曇った。


 三枚目。ヴィクターが過去十年間に握り潰してきた告発状の束。


 ヴィクターの笑顔が、消えた。


「これは偽造だ」


 ヴィクターが叫んだ。「誰かが私を陥れようとしている。こんな書類、信用するな」


「仕組んだのは私です」


 静かな声が、広間に響いた。


 人混みの中から、一人の給仕が歩み出た。


 銀のトレイを脇に置いて。微笑みながら。


 会場の視線が集まった。誰もが「誰だ」という顔をしていた。


 一人を除いて。


「……リーナ?」


 エドワードの声が、かすれた。


「ご記憶いただけて光栄です、殿下」


 リーナは深くお辞儀をした。


「三年ぶりでございます」





 ヴィクターが声を上げた。


「使用人の言葉など信用に値しない。この娘は反逆者の娘だ」


「反逆者にしたのは、あなたではないですか」


 リーナの声は、静かだった。


 怒鳴らない。震えない。ただ、淡々と。


「三年前、父に着せられた罪の証拠を今夜ご覧いただきました。偽造かどうかは、文書鑑定官に確認していただければわかります」


 カイルが一歩前に出た。「鑑定官は既に待機しています」


 ヴィクターが青ざめた。


「私は……そんなことは知らない。誰かが私の名を使って」


「では、この書類に押されたあなたの印章はどう説明しますか」


 カイルが最後の一枚を広げた。


 ヴィクターが口を開いた。閉じた。また開いた。


 言葉が、出てこなかった。


 会場の重鎮たちが顔を見合わせた。


「リーナ」


 エドワードが立ち上がった。「私は知らなかった。ヴィクターがそんなことをしていたとは」


「存じております」


 リーナはエドワードを見た。


「殿下は知らなかった。ただ、知ろうともしなかった」


 エドワードが黙った。


「三年前、私を切り捨てた翌週に父が連行されました。おかしいと思いませんでしたか。思っても、調べなかった。それが殿下のお答えでした」


 広間が、しんと静まり返った。


 そのとき、クローデットが震える声で言った。


「私は……ただ隣に立って、笑っていただけで、何も知らなかったのです」


 リーナはクローデットを見た。

 悪い人ではない、とわかった。笑って、隣に立っていただけの人。それは本当のことだと思った。


 だからこそ、リーナは静かに言った。


「笑うことしかできない妃に、何があるというのですか」


 クローデットが息を呑んだ。


「たしかに、笑顔は武器になります。でもそれだけでは、いつか誰かに使われて終わる」


 リーナはクローデットを真っ直ぐに見た。


「それが、三年間で私が学んだことです」


 クローデットが、何も言えなくなった。

 リーナはエドワードとヴィクターに向き直った。


「三年間、笑いながら準備しました」


 一歩、前に出た。


「殿下とヴィクター様が私から奪ったものを、今夜全部返していただきます」


 深くお辞儀をした。


「父の名誉を。家の名誉を。そして──三年間分の、時間を」


 顔を上げたとき、リーナはまだ微笑んでいた。


 でもその笑顔は、今夜が最後だった。





    ◇





 全てが終わったのは、夜が深まってからだった。


 ヴィクターは王家の騎士に連行された。エドワードは側近たちに囲まれて別室に消えた。会場は静かな混乱の中に沈んでいった。


 リーナは王宮の庭に出た。


 一人になりたかった。


 噴水の音だけが聞こえた。月が出ていた。冷たい夜風が、頬を撫でた。


 リーナは噴水の縁石に腰を下ろした。


 手を見た。三年間、トレイを持ち続けた手。証拠を書き写し続けた手。


 震えていた。


 怖かったのか。安堵したのか。どちらかわからなかった。

 ただ、張り詰めていた何かが少しずつ溶けていく感覚だけがあった。


「終わりましたね」


 声がした。


 振り返ると、カイルが立っていた。


「……終わりました」


 リーナは答えた。

 笑顔を作らなかった。

 この三年間で、人前で笑顔を作らなかったのは初めてだった。


 カイルがリーナの隣、少し離れた縁石に腰を下ろした。月を見上げた。


「これからどうするつもりですか」


「わかりません」


 リーナは正直に答えた。「三年間、これだけを考えてきたので。終わった後のことは、何も考えていなかった」


「父上の名誉回復の手続きは、私が進めます。家の再建についても、今夜の件を踏まえれば通るはずです」


「……ありがとうございます」


「礼には及びません。当然のことですから」


 しばらく沈黙が流れた。


 噴水が月の光を受けて、きらきらと揺れていた。


「一つだけ、聞いていいですか」


 カイルが言った。


「次に笑うときは、本物の笑顔で笑えますか」


 リーナは言葉に詰まった。


 三年間、笑顔は武器だった。道具だった。本物の笑顔の作り方を、いつの間にか忘れていた。


「……わかりません」


 正直に答えた。


「三年間で、笑い方を忘れました」


 笑うことしかできなかった三年間が、終わった。


 カイルが手を差し出した。


「では、思い出す手伝いをさせてください」


 リーナはその手を見た。


 信じていいのか、まだわからなかった。三年間、誰も信じなかった。信じる必要がなかった。


 でも今夜、この人は隣に立っていた。

 利用するだけでは終わらせたくないと言った。正直に。


 リーナはゆっくりと手を伸ばした。


 カイルの手を取った。


 温かかった。


 夜風が吹いた。


 リーナの口元が、ほんの少しだけ、自然にほどけた。


 笑顔ではなかった。


 ただの、力が抜けた顔。


 でも三年ぶりに、作ろうとしていないのに、自然に表情が動いた。


「……変な感じがします」


 リーナが呟いた。


「何がですか」


「笑おうとしていないのに、口元が動いた」


 カイルが少し目を細めた。「それが本物の笑顔だと思います」


「そうですか」


「そうです」


 リーナはもう一度、自分の口元に触れた。


 確かめるように。


 噴水がきらきらと光を弾いていた。月が、雲の向こうから顔を出した。


 ワラウ妃の夜が、終わっていく。


 長い、長い夜が。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

笑顔を武器にした令嬢の復讐を、最後まで付き合っていただけたこと、嬉しく思います。


「スカッとした」「リーナを応援したくなった」と少しでも思っていただけたなら、評価やコメントで教えていただけると励みになります。次の作品を書く力になります。

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― 新着の感想 ―
言葉の使い方がお見事でした。
結局は処分はどうなったの? 最後にでも良いので結果はあった方が良いと思う。 流石に気になります。
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