1-2.日常になったウェストンヒルにて
――19歳、冬の終わり。
ウェストンヒル侯爵、アルバート・フレデリック=ウォードの養子になって長い年月が経つ。
いつの間にか馴染んだ豪奢な部屋に、窓から見渡せる庭園の風景。ウォード家は伝統ある家門であり、所有する丘の上の邸宅は古い歴史を誇っている。
そんな侯爵家に平民の孤児を養女として招き入れたのだから、当時は皆が養父の正気を疑ったことだろう。幸い、義理の家族は驚いていたものの、不満を口にすることなく薄汚れた子どもをにこやかに歓迎した。
萎縮していた私は思わず拍子抜けしたが、順に新たな関係を受け入れることができ、彼らを本当の家族だと慕うようになった。
もはや土埃が髪に絡まり、屍のような肉つきだった面影はどこにも見当たらない。
鏡に映るのは真っ直ぐな白い髪と瞳が青紫色の少女。ケープの下には光沢のある淡い青のドレスを着て、侍女が私の白い髪に髪飾りをつけている。
「お嬢様、お召し物はこれで以上となります。シャーロット様が選ばれた真珠の髪飾り、非常にお似合いですよ」
「ありがとう。シャルの素晴らしいセンスのおかげね」
私の口角は微かに上がる。
義理の妹、シャーロット・ジョアン=ウォードは審美眼のない私のために毎度おすすめの装いを教えてくれる。天真爛漫な性格で、私の3歳年下の妹。彼女に任せれば令嬢らしい恰好になれる。私にはもったいないほどの家族だ。
階段を下りて玄関前、念のため侍女に聞いた。
「公園でシャルが待っているのよね? 時間に間に合うといいのだけど」
なぜ義妹が公園で待っているのかといえば、そこで買い物の待ち合わせをしているからに他ならない。なんでも「春の社交界シーズン中、わたしたちは王都にいるでしょ? だからウェストンヒルのみんなにささやかな贈り物をしたいの!」とシャーロットが言ったため、私が同行する形で街の花屋へ向かう予定になっていた。外商を利用する手もあったが、シャーロットは直接足を運びたいらしい。
「馬車はすでに手配していますから、そう時間もかからず到着するでしょう。まだ肌寒い気候ですから、お身体に気をつけて」
侍女の返答に軽く首を横へ動かす。
「ええ。ありがとう」
外の空気はとても冷えていた。白い息が漏れ出て未だに冬を感じる。
ガタゴトと馬車に揺られて、牛の群れが歩く光景を過ぎ、ぼんやりと曇りゆく空を眺める。
「雪が降りそうね」
灰色のケープを意味もなく握り締める。冷気が布を貫通していて寒い。
侍女の言った通り、公園に到着するのに長い時間はかからなかった。大通りの片隅に馬車を止めて降りる。
「こちらでお待ちしております」
御者の声に相槌を打ち、石畳の道を歩いて行く。公園は葉を散らした樹木が立ち並び、この気温だからか人通りは普段より少ない。同伴する侍女は静かに私の後ろをついてきてくれる。公園を一周し終えた後、出入り口前で足を止めた。
「おかしいわね。シャルがどこにも見当たらないわ」
「行き違いがあったのやもしれません。噴水広場でお待ちになってみては?」
侍女の提案に踵を返す。
「そうね。見晴らしがいいし、向こうも気づいてくれるでしょう」
噴水広場の噴水には最高神エリスの像が鎮座していた。緩やかな斜面の上にベンチが設置され、そこに腰を下ろすと小さめの湖が見渡せる。さらに奥の木々まで楽々と見通せ、浮桟橋には数艘の舟が浮いていた。
「一体どこにいるのかしら? 時間には間に合ったのよね?」
「はい。予定通りに到着しております」
侍女の言葉に小首を傾げて、見える範囲で義妹の姿を探す。深刻的に北風が吹いてきた頃、さすがに寒くてこの場を立ち去る判断をした。
「一旦、近くの教会にでも入りましょう。このままだと凍えてしまうわ」
侍女は目を凝らして湖の向こう側を見ている。気になって侍女の顔を覗き込んだ。
「何かあるの?」
「お嬢様、あちらに見えるのはシャーロット様ではありませんか?」
侍女の視線の先を追うと、物寂しい冬木の中に小さな黄色い塊が見える。その黄色はドレスのような輪郭があり、風の影響にしては不自然な動き方をしていた。どうやら湖の縁に沿って噴水広場へ向かっている。
私の直感が告げた。
「あれはきっとシャルだわ! あちらへ行きましょう」
「はい、お嬢様!」
かじかんだ手足に鞭を打ち、広場に弾んだ靴音を鳴らした。その時、上空から巨大な黒い影が通り過ぎる。
「何?」
侍女とともに顔を上げると、一体のドラゴンが真紅の翼をはためかせ、夕焼け色の瞳で地上を見下ろしていた。
「う、そ……」
か細い声をあげ、その場に立ち尽くす。
ドラゴンは人間に害をなす魔物でも別格だ。強靭な鱗は千の剣をも耐え忍び、口から放つ炎は一瞬で村全体を崩壊させる。ウェストンヒル侯爵領はガラニス王国の中でも魔物の被害が極めて少なく、ましてドラゴンなんて一度も出現したことのない土地だ。
――異常事態。
その言葉が脳裏に激しく響く。
「お嬢様、逃げましょう‼」
「ええ。とりあえず邸宅に……」
耳をつんざく咆哮。血の色をしたドラゴンは鱗に覆われた尻尾を揺らし、グルグルと空を飛び回る。爬虫類のような肢体に橙の光が集い、曇天の空模様には不気味な明るさがもたらされている。
体の芯が凍てつき、両目をこれでもかと見開いた。
「ねぇ、逃げ場なんてあるのかしら……?」
侍女は私の問いかけに答えず、この世の終わりかのように震えている。気づけば私自身も身震いをしていた。
現実味が薄れていく感覚に、死の覚悟がままならないまま、舞い降りる雪の美しさに気を取られる。
「雪が降っているわ」
場違いな感想を呟き、シャーロットの様子を確かめる。少し鮮明に見えた義妹は侍女にしがみついて頽れている。
空が一段と眩しくなり、ドラゴンの口から灼熱の炎が放たれた。
こんな、唐突に死ぬなんて。まだシャルと花を見れていないのに――。
雪は刹那に消えていく。孤児だった頃には感じた覚えのない未練がよぎった。どんなに生を枯渇しても助かる術がないのに、私はずっと死の淵から脱することを願っている。
「あぁ、神よ……」
――突如、荒れ狂う風が炎を巻き込んだ。
緑に輝く光の粒子が暴風を生み出し、ドラゴンの炎と相殺されている。奇跡の瞬間に開いた口が塞がらない。ドラゴンは怒号をあげ、もう一度炎を放とうとしている。自然と身構えた瞬間、杖を持った人物が空中に現れてドラゴンと相対した。
暗めの緑色をしたのローブを翻し、魔法師らしき男性は杖をドラゴンへと傾ける。エメラルドのごとき光が杖の先端に集合し、矢を飛ばすように風の杭をドラゴンの口内に打ち付けた。
「ギギャァァァ~~~~ッ‼」
頭部から噴き出す血潮は紅い。巨体をくねらせドラゴンは金切り声をあげる。上空に佇む男性は再度同じ箇所に風の魔法を叩き込んだ。断末魔が途切れ途切れに響き渡り、やがて恐ろしい魔物は橙の光を霧散させる。完全に生命の気配が消え失せたのは数秒後の出来事だった。
「こんな、人離れした魔法が……」
侍女は茫然と呟き、緑の光に包まれたドラゴンを凝視する。空に留まった状態のドラゴンは、魔法師の手によって東の方角へ運送されていく。
「すごいわね……」
ありきたりな賞賛では物足りないほど、素晴らしく強力な魔法に感嘆の息を漏らす。緊迫していたのに今では安堵する気持ちと高揚する気分があった。雪が微かに降り積もり、街からドラゴンと魔法師がいなくなる。
しばらく恩人が消え去った東の空を眺めたのち、じわじわと思考が回り始めて足を動かした。




