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重い沈黙を、ゴードンが破った。
「……そうだな。全ての始まりは、アルベルが、あの霧深い街の、古びた酒場に現れた日だった……」
彼の言葉に、ハンナとサシャも、それぞれの記憶の扉を開く。
ゴードンは、腕を組みながら、遠い目をして続けた。
「……思い返してみれば、俺たちは本当に運がよかった。最初の頃なんて、あまりにもスムーズすぎたぐらいだ。まあ、それはアルベルがいたからかもしれないが……」
その言葉に、サシャが静かに応じる。
「確かに……。今思えば、いくつかの偶然が、都合よく重なりすぎていた気もするわ。……その謎を解くためにも、思い出しましょう。あの霧の街、ミストホルムでの出来事を」
そして、物語は数年前の過去へと遡る――。
◇
辺境の街「ミストホルム」は、その名の通り、一年を通して深い霧に包まれていた。活気はあるが、王都の洗練とは無縁の、荒くれ者たちが集う場所。その中心にある酒場「霧笛亭」もまた、屈強な傭兵や、柄の悪い商人たちの怒声と笑い声で満ちていた。
ゴードンは、その酒場で用心棒のような仕事をして、日銭を稼いでいた。
その日も、仕事を終えた彼がカウンターでエールを呷っていると、地元のチンピラたちが、旅の商人に因縁をつけているのが目に入った。
「見ねえ顔だなあ、兄さん。この街の『挨拶』は、もう済ませたのかい?」
ゴードンは、やれやれと首を振り、席を立つ。彼が仲裁に入ろうとした時、チンピラの一人が、彼の背後にいた、別の男に目をつけた。
酒場の最も隅の席。フードを目深に被り、一人静かにエールを飲んでいる青年。それが、アルベルだった。
「おい、そこのお前! なんだその態度は!」
アルベルは、騒ぎに関わるつもりはないとでも言うように、視線を上げようともしない。その態度が、チンピラたちの神経を逆撫でした。数人が、アルベルのテーブルを取り囲む。
だが、彼らがアルベルに手をかけようとした、その瞬間だった。
アルベルの姿が、ふっと消えたように見えた。次の瞬間には、チンピラたちが、悲鳴と共に床に転がっていた。派手な魔法や剣技ではない。驚くほど効率的な動きで、的確に急所を打ち、あるいは関節を極めて、全員を無力化していた。その動きは、無駄がなく、しかしどこか、悲しみを帯びているようだった。
ゴードンは、その圧倒的な実力と、それでいて相手に必要以上の手傷を負わせない優しさに、驚愕する。
「お前、何者だ?」
その問いに、フードを取ったアルベルは、ただ「旅の者だ」とだけ、静かに答えた。これが、勇者と、その最初の仲間となる剣士の出会いだった。
◇
アルベルとゴードンは、その夜、同じ宿に泊まり、身の上を語り合った。アルベルは、自分が聖剣に導かれ、魔王討伐の旅をしていることを、ゴードンは、この街で燻っている自分の現状を。ゴードンは、アルベルの持つ大いなる目的と、その底知れない実力に、何か運命的なものを感じ、彼の旅に同行することを決意した。
数日後、街の近くにある古代遺跡から、魔物が出没するようになった。アルベルとゴードンが調査に乗り出すが、遺跡の構造が複雑で、古代の魔法で仕掛けられた罠も多い。二人は、早々に行き詰まってしまった。
「ちくしょう、魔法の知識がありゃあな……」
ゴードンがぼやいた時、宿の主人が、一人の人物の噂を口にした。
「そういや、王都から来たっていう、妙な魔術師の姐さんが、毎日図書館に通って、あの遺跡のこと調べてるぜ」
二人が街の小さな図書館へ向かうと、その人物はすぐに見つかった。山と積まれた古文書に囲まれ、神経質そうに地図を睨んでいる、眼鏡の女性。サシャだった。
彼女は、アルベルたちの申し出を、最初は鼻であしらった。
「あなたたちのような、脳まで筋肉で出来ていそうな人たちが天才少女のこの私に、何の用かしら」
しかし、アルベルが持つ聖剣と、遺跡の浄化という目的を知ると、彼女は目の色を変えた。
「その遺跡は、古代の魔法文明の貴重な遺産。魔物の巣になっているなど、言語道断だわ。いいでしょう。私が、遺跡の道案内と、罠の解除をしてあげる。その代わり、あなたたちは、私の調査の安全を確保なさい」
彼女の目的は、あくまで「学術調査」であり、勇者一行には、まだドライに接していた。
さらに、遺跡から漏れ出した魔物の「瘴気」によって、街の子供が原因不明の病に倒れた。街の小さな教会の聖女ハンナが、必死に治癒の祈りを捧げるが、病状は悪化する一方だった。
そこにアルベルが現れ、彼の聖剣から放たれる聖なる気が、瘴気を浄化する。ハンナの祈りの力が、アルベルの聖なる気を増幅させ、子供は奇跡的に一命を取り留めた。ハンナは、アルベルに真の「勇者の器」を見出し、瘴気の根源を断つため、自ら同行を申し出た。
「私も、お連れください! あなたのその力と、私の祈りがあれば、きっと、もっと多くの人を救えます!」
こうして、運命に導かれるように、四人の仲間が、この霧の街ミストホルムに集結した。
◇
古代遺跡の内部は、禍々しい気配に満ちていた。
四人は、まだぎこちなさを残しながらも、奥へと進んでいく。最初は、連携がバラバラだった。ゴードンが突っ込みすぎ、サシャの魔法の射線に入ってしまう。ハンナが、二人の喧嘩をオロオロしながら仲裁する。
しかし、幾度かの戦闘を経て、彼らは自然と自分の役割を理解し始めた。ゴードンが鋼の肉体で敵を引きつけ、サシャが冷静に弱点を突き、ハンナが仲間を癒し、アルベルが聖剣でとどめを刺す。勇者パーティーの、黄金の連携が生まれつつあった。
その中で、彼らは奇妙なことに気づく。
「なんだか、ここの魔物、変じゃねえか?」
ゴードンが言った。
「入り口にいたのはゴブリンだろ? 少し進んだらオーガで、今はガーゴイルだ。不自然なほどに、弱い順に並んでやがる」
「馬鹿ね。魔物の生態系の、自然な分布よ。弱い個体は、強い個体を避けて、縄張りの外縁に追いやられる。何ら不思議はないわ」
サシャは、そう言って一蹴した。
「このアマ……!」
ゴードンは握りこぶしを作っていた。
遺跡の最奥で、ボスであるトロル・シャーマンを倒した時、事件は起きた。シャーマンが死の間際に放った呪詛の爪が、ハンナの腕を浅く引き裂いたのだ。それは、特殊な麻痺毒だった。
絶体絶命かと思われた、その時。
彼らは、ボスのいた部屋の奥に、不自然に置かれた一つの宝箱を発見した。中には、金貨や魔石と共に、たった三つだけ、ガラスの小瓶が入っていた。
「これは……!」
サシャが、その小瓶を鑑定し、目を見開く。
「トロルの麻痺毒に特効のある、『月の涙』の血清よ! なぜ、こんなものが……!」
それは、王都でも滅多に手に入らない、非常に珍しい薬品だった。
ハンナは、すぐにその血清を飲み、事なきを得る。
「主の導きです! 私たちをお救いくださったのですね!」
「ツイてるぜ、俺たちは!」
ハンナは祈り、ゴードンは胸を撫で下ろす。アルベルも、その幸運に静かに感謝した。
サシャだけが、そのあまりの偶然に、わずかな違和感を覚えたが、仲間たちの喜ぶ顔を見て、その疑念を胸の奥にしまい込んだ。
◇
「……まあ、そんな感じだったな。あの時は、ただ、俺たちはツイてるんだとしか思わなかったが……よく考えたら妙だな……」
現在のサシャの研究室。ゴードンは、記憶への旅から戻り、そう言って腕を組んだ。
「はい。アルベル様という光が、私たちを導いてくださったのだと、私は信じておりました……」
ハンナも、懐かしむように、しかし、どこか寂しげに呟く。
サシャだけが、黙って、テーブルの上に広げられた「勇者カイン」の資料を見つめていた。
彼女の頭の中では、今しがた思い返した「幸運」の記憶と、「不可解なり」と記された歴史の記述が、不協和音を立てて、渦巻き始めていた。