6
アルベルの国葬から、数週間が過ぎた。
王都は、魔王という長年の脅威が去った後の、穏やかな平和を謳歌していた。人々の顔には笑みが戻り、市場の喧騒は、世界の生命力が再び脈動し始めたことを告げているようだった。
だが、その活気も、王都の中央広場の一角だけは届かない。
そこに建てられた、英雄アルベルの記念碑。聖剣を天に掲げるその若々しい石像の前だけは、まるで時が止まったかのように、静かな空気が流れていた。
サシャとゴードンは、言葉もなく、ただ黙って、その石像を見上げていた。
(こんなに立派な石像になっても、あなたはもう、何も語ってはくれないのね……)
サシャは、胸の中で、今は亡き友に語りかける。
(なあ、アルベル。お前の望んだ世界は、ちゃんとここにあるぜ。……お前がいねえ、この世界がな)
ゴードンは、やり場のない思いを、ただ噛みしめていた。
その時だった。広場の向こうから、一人の旅人が、彼らに向かって歩いてくる。
その姿は、かつての聖女の面影はなく、旅にやつれ、日焼けし、その神官服は所々が擦り切れている。しかし、その足取りは、何かを見つけた者のように、力強かった。
ハンナだ。
彼女は、広場の中心に立つ二人と、そして巨大なアルベルの石像の存在に気づく。彼女の足が、その場で縫い付けられたように止まった。
サシャとゴードンも、彼女の存在に気づく。
三人の視線が、広場の喧騒を隔てて交錯する。誰も、何も言えない。ハンナは、二人の沈痛な表情と、そこに立つ英雄の「記念碑」の意味を、瞬時に理解した。
彼女の視線が、石像に刻まれた若々しいアルベルの姿に向けられる。彼女が必死に救おうとしていた、衰弱した彼の姿とはあまりに違う、理想化された英雄の姿。その残酷なまでのギャップが、彼女の最後の気力を打ち砕いた。
希望の全てであったはずの、古文書の束が、ぱらぱらと力なく彼女の手から地面に散らばる。そして、彼女はその場に崩れ落ち、子供のような、甲高い嗚咽を上げた。
「あ……あ……うそ、です……。間に、合ったはずでは……。だって、私……!」
ゴードンとサシャが、泣き崩れる彼女に駆け寄り、その小さな体を支える。ハンナは、若き日のアルベルの姿を模した記念碑を見上げると、声を上げて泣いた。その泣き声は、希望を失くした者の、魂の叫びだった。
ひとしきり泣いた後、彼女は、自分を責めるように、途切れ途切れに言った。
「私は、臆病者です……。日に日に衰弱していくアルベル様を見ているのが、ただ怖くて……」
彼女の脳裏に、旅立つ日のアルベルの顔が蘇る。
「あの日、アルベル様は『希望を探してきてくれ』と、あんなに優しく笑ってくださったのに……。私は、彼の優しさに甘えて、一番辛い時にそばにいることから逃げたんです。ただ、怖かった……それだけなのです!」
その痛切な告白を、サシャが静かに首を振って遮った。
「違うわ、ハンナ。あなたが諦めずに希望を探し続けてくれたから、アルベルは最後まで心を保てたのよ。彼が一番、あなたの報告を待っていたわ。その希望が、彼の最後の支えだった」
サシャの脳裏にも、最後の日々の光景が浮かぶ。
「彼は、あなたからの手紙が届くのを、いつも待っていたわ。手紙を読んでいる時だけ、彼はほんの少しだけ、未来を信じているような顔をしていた……。私には、そんな顔をさせてあげることすら、できなかった……」
サシャはそう言うと、自嘲するように、ふっと笑みを浮かべた。その笑みは、ひどく悲しげだった。
「私こそ……彼の隣で、ただ死を待つだけだった。運命を受け入れたふりをして、本当は、何もかも諦めていただけなのかもしれない。もっと、奇跡を信じて、無様でも叫び続けるべきだったのかもしれないわ。死なないで、と」
二人の言葉を聞いていたゴードンが、天を仰ぎ、やるせなく言った。
「どっちもだよ。どうしたって、後悔は残るに決まってる」
彼の脳裏には、あの夜の、親友の涙が焼き付いて離れない。
「あいつが、ガキみたいに泣いて『死にたくない』って言った夜……俺は、ただ隣で泣くことしかできなかった。もっと、何か……くだらない話でも、未来の話でも、何か言ってやれたはずなんだ……。それなのに、俺は……!」
ゴードンは、そこまで言うと、唇を固く噛んだ。
「俺なんて、結局、あいつの愚痴を聞いて、泣き面に付き合うくらいしかできなかった……。あいつが一番欲しかったであろう『時間』を、一秒だってくれてやれなかった。結局、誰もあいつを救えなかったんだ」
三人は、言葉を失くした。
そうだ。正解なんて、どこにもなかったのだ。
彼を想い、彼のために必死に行動し、そして、誰もが自分の選択を悔い、自分の無力さに打ちのめされている。
再び、沈黙が訪れる。だがそれは、先ほどまでの気まずいものではなく、互いの痛みを分かち合った者たちの、重く、静かな沈黙だった。
夕暮れの光が、アルベルの石像と、三人をオレンジ色に染めていた。
やがて、サシャが、鼻をすすりながら、それでも前を向いて、静かに言った。
「……行きましょうか」
ゴードンが黙って頷き、まだ地面に座り込んでいるハンナに、そっと手を差し伸べる。ハンナは、その手を取って、ゆっくりと立ち上がった。
三人は、もう一度だけ、石像のアルベルに背を向け、ゆっくりと広場を去っていく。彼らがどこへ向かうのかは、まだ誰にも分からない。ただ、今は、共に歩き出す。その背中を、夕日が長く伸ばしていた。
勇者アルベルの伝説は、この先も永遠に語り継がれるだろう。
だが、彼の隣で笑い、共に泣いた者たちの、このどうしようもない後悔と寂しさを知る者は、もういない。