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王都から遠く離れた、南の果て。かつて古代文明が栄えたというその場所は、今や風化した石と、乾いた砂だけが広がる荒野となっていた。
その中心に、巨大な石造りのゴーレムが、地響きを立てて腕を振り下ろす。それを、小柄な人影が、紙一重で回避した。
聖女ハンナ。かつての清楚な神官服は汚れ、所々が破れて、旅の厳しさを物語っている。
「……はぁっ、はぁっ……!」
彼女の専門は、治癒と防護。攻撃魔法は、旅の途中で覚えた付け焼刃に過ぎない。正攻法では、勝ち目はなかった。
彼女は、遺跡の崩れた柱の影に身を隠し、必死に思考を巡らせる。そして、ゴーレムの足元にある、ひときわ色の濃い魔法陣の文様に目をつけた。あれが、動力源。
ハンナは、残る魔力のほとんどを注ぎ込み、ただ一点、聖なる光の矢を生成する。それは、ゴーレム本体ではなく、足元の魔法陣へと、吸い込まれるように飛んでいった。
核を破壊され、ゴーレムは動きを止め、やがてただの石塊となって崩れ落ちる。
ハンナは、その場にへたり込み、荒い息を繰り返した。満身創痍だったが、その瞳の光は、少しも衰えていない。彼女は懐から、大切にしていた「時の神殿の地図の写し」を取り出す。その紙切れだけが、彼女の希望の全てだった。
彼女は、地図を胸に抱きしめ、空を見上げて祈る。その祈りは、天の主ではなく、王都にいる一人の青年に向けられていた。
(アルベル様、待っていてください……。私は、絶対に諦めません。必ず、あなたを救う奇跡を、この手で掴んでみせますから……!)
燃えるような決意を瞳に宿し、彼女は再び、荒野へと一歩を踏み出した。
◇
その頃、王都の王城では、アルベルの部屋を王女が訪れていた。
彼女はかつて、アルベルに満面の笑みで花輪を捧げ、その瞳を憧れに輝かせていた少女だった。だが今、すっかり衰弱し、車椅子に座るアルベルを前に、彼女は戸惑い、何を話していいかわからないようだった。
「……近頃は、少し、過ごしやすい気候になりましたわね」
「ええ、そうですね」
「宮廷では、今度、隣国からのお客様をお迎えして、夜会が開かれますのよ」
ぎこちない会話が、重たい沈黙を挟みながら続く。彼女はアルベルの顔をまともに見られず、その視線は常に、部屋の豪華な調度品や、窓の外の景色を彷徨っていた。
やがて、当たり障りのない見舞いの言葉を残し、彼女は逃げるように部屋を辞した。
一人残されたアルベルは、深い孤独感に包まれる。かつて自分を英雄として見てくれた少女の瞳に、今は「得体の知れない病人」を見る憐れみと、恐怖の色しか浮かんでいなかったことを、痛感していた。
自分はもう、彼女が知っているアルベルではない。その断絶の感覚が、彼の心をじわじわと蝕み、その夜、彼は久々に高い熱を出した。
◇
城の兵舎で、ゴードンは一人、安酒を呷っていた。
周りでは、若い騎士たちが、次の任務や出世の話で盛り上がっている。その活気のある声が、今のゴードンには、ひどく耳障りだった。
そこへ、王城の侍女が通りかかり、彼に告げた。
「勇者様が、今夜は特に体調が優れないようです」
その一言に、ゴードンの中で、世界への怒りと、友を救えない自分への無力感が渦巻いた。強さだけを信じて生きてきた。だが、その剣は、友を蝕む呪いには届かない。
「……もう、見てられねえんだよ」
彼は、アルベルが一人で抱え込んでいる「勇者の仮面」を、たとえ強引にでも、今夜こそ剥がしてやろうと決意した。それは、優しさというよりも、悲痛な覚悟に近い感情だった。
◇
その夜、アルベルは熱を出し、ベッドに寝込んでいた。呪いの進行は、彼の免疫力をも奪い、ただの風邪が命取りになりかねない状態だった。
見舞いに来たゴードンが、濡れた布を彼の額に乗せ替える。その手つきは、大剣を振るう無骨な手とは思えないほど、優しかった。
「すまねえな、ゴードン。雑用ばっかりさせちまって」
アルベルがかすれた声で言うと、ゴードンは「水くせえこと言うなよ」と、ぶっきらぼうに答えた。
しばらく、薬草の匂いが満ちる部屋に、沈黙が落ちる。
アルベルは、天井を見つめながら、虚勢を張るように、言った。
「まあ、でも、良かったよ。俺の役目は、魔王を倒すことだったんだ。ちゃんと果たせたんだから、これでいいのさ。俺は、そのために生まれてきた勇者なんだからな」
その言葉は、彼がここ数ヶ月、自分自身に必死で言い聞かせてきた言葉だった。
その言葉を聞いた瞬間、ゴードンの顔が、怒りで赤黒く染まった。彼はわなわなと震える拳を固く握りしめ、何かを必死にこらえているようだった。だが、それも限界だった。
言い終えた瞬間、ゴードンが、そばにあった椅子を蹴り飛ばした。木製の椅子が壁にぶつかり、けたたましい音を立てて砕ける。アルベルの肩が、驚きにびくりと震えた。
「いい加減にしろよ、アルベル」
ゴードンは、見たこともないような、深い苦しみの滲んだ顔でアルベルを睨んでいた。その巨躯は、怒りか悲しみか、わなわなと震えている。
「俺の前でまで、〝勇者様〟のフリすんじゃねえよ……! 辛いなら辛いって、言えよ……!」
その、親友の魂からの叫びに、アルベルの中で固く張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
視界が、急に滲む。熱のせいではない、熱い雫が次々とこぼれ落ちた。
彼は、すっかり皺だらけになった枯れ木のような手で顔を覆った。止めようとしても、嗚咽が次々と漏れ出てくる。
「死にたくない……っ」
絞り出した声は、情けないほど震えていた。
「怖いんだ、ゴードン……。日に日に、体が動かなくなって……鏡を見るたびに、自分が自分でなくなっていくのが、たまらなく怖いんだ……。せっかく平和になったのに……お前たちと、もっと……もっと、旅をしたり、バカなことして、腹の底から笑ってたかった……」
子供のように泣きじゃくるアルベルを、ゴードンは何も言わずに見ていた。
やがて、嗚咽が少し収まるのを待ち、彼はアルベルのベッドの脇に膝をつくと、その骨張った手を、自身の大きな両手で力強く握りしめた。
そして、自らも涙をこらえるように、一度、天を仰いでから、ようやく絞り出した。
「……そんなのって、ねえよな。なんで、お前なんだよ……。神様ってやつがいるなら、ぶん殴ってやりてえよ、俺だって……」
その夜、英雄と剣士は、声を殺して二人でずっと泣いた。その涙は、誰に知られることもなく、静かな闇に吸い込まれていった。