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 ハンナが希望を背負い、東へと旅立ってから、三ヶ月の時が過ぎた。

 王都は、魔王が討伐された後の、穏やかな平和を謳歌していた。人々の顔には笑みが戻り、市場は活気に満ちている。だが、王城の一室、英雄アルベルが過ごす部屋だけは、季節の移ろいから取り残されたかのように、静かな停滞の空気が支配していた。


 アルベルの肉体は、目に見えて衰え始めていた。艶のあった金髪には白いものが混じり、日に焼けていたはずの肌からは若々しい張りが失われている。一人で服のボタンを留めるのにも時間がかかり、杖なしでは室内を歩くのもおぼつかない。かつての英雄の面影は、急速に失われていた。


 その日の昼食も、サシャが彼の部屋へ運んできた。栄養を考えた、温かいスープだった。


「今日のスープは、南方の珍しい薬草を入れてみたの。少しは、気休めになるかもしれないわ」


 そう言って、彼女はテーブルに盆を置く。アルベルは「いつも、すまないな」と力なく笑い、スプーンを手に取った。

 だが、呪いは、彼の指先から着実に自由を奪っていた。微かに震える指では、うまくスープをすくうことができない。焦りが、さらなる震えを呼ぶ。そして――カチャン、と乾いた音を立てて、スプーンが手から滑り落ち、白いシーツの上に、色のついた染みを作った。


「……っ」


 アルベルは、子供のような失態に「すまない……」と顔を伏せた。彼のプライドが、日々のこんな小さな失敗によって、確実に削られていく。

 サシャはそれを咎めることなく、冷静に、しかし手早く汚れたシーツを取り換えた。そして、新しいスープを運び、アルベルの隣に腰掛けると、自らスプーンを取った。

 彼女は、アルベルの羞恥心を和らげるように、わざと少しだけ茶化すように微笑む。


「……あーん、して?」

「サシャ……」

「火傷をしなかった? よかったわ。さあ、冷めないうちに」


 有無を言わさぬその口調に、アルベルは観念して、差し出されたスプーンを黙って口に含んだ。彼女の深い愛情と信頼に感謝しながらも、その優しさが、己の無力さを際立たせるようで、胸が締め付けられる。


「情けないところを見せたな」

「情けなくなんかないわ」


 サシャは、きっぱりと言った。


「あなたは、今も戦っている。私には、そう見える」


 その言葉に、アルベルは何も言い返せなかった。


 

 


 さらに一ヶ月が過ぎた頃、王都に、ハンナからの手紙が届いた。

 ゴードンとサシャも、アルベルの部屋に集まっている。アルベルが、少し震える手で封を開け、羊皮紙に綴られたインクの文字を読み上げた。そこには、彼女の旅の成果が、熱狂的ともいえる筆致で綴られていた。


「――こちらで、『時の神殿』の場所を示すという、古代の石板の写しを手に入れました! 神殿は、南の果ての秘境にあるそうです。道のりは険しいですが、必ずたどり着いてみせます。きっと、きっと希望はあります! もう少しだけ、待っていてください!」


 手紙を読み終えた後、部屋に重い沈黙が落ちた。

 サシャは、その「時の神殿」が、何百年も前に実在しないと証明された、ただのおとぎ話であることを知っている。彼女は痛ましげに顔を歪め、黙って目を伏せた。

 ゴードンは、やり場のない感情を隠すように、窓の外を見ながら、吐き捨てるように言った。


「……そうか。あいつ、頑張ってるんだな」


 アルベルは、二人の反応を悟りながらも、声に出して言う。


「そうか……良かった。ハンナは、すごいな」


 その声は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。遠い地からの希望が、すぐそばにある絶対的な絶望を、より一層色濃くしてしまうという、残酷な現実から目を逸らすように。


 

 


 その手紙が届いてから、数日後のことだった。

 重苦しい空気を振り払うように、ゴードンが見舞いに来た。彼が手にしているのは、薬や見舞いの品ではなく、使い古された小さな革袋だった。


「おい、覚えてるか?」


 彼は袋から、角がすり減った傷だらけのサイコロを二つ取り出す。


「西の砂漠で、どっちが水当番やるか、こいつで勝負したの」


 その言葉に、アルベルの脳裏に、旅の途中の他愛ない光景が蘇った。

 あの時、ゴードンは見事な手つきでサイコロを振り、「俺の勝ちだ!」と宣言した。だが、そのイカサマを、サシャが一瞬で見抜き、罰としてゴードンは三日分の荷物持ちをさせられることになったのだ。


「あの時の俺の顔、傑作だったよな。お前も、腹抱えて笑ってたぜ」


 ゴードンの言葉に、アルベルの口から、久しぶりに、心からの乾いた笑い声が漏れた。病室が、一瞬だけ、かつての旅の野営地のような、懐かしい空気に包まれる。


「ああ……思い出した。あの頃は、毎日が……楽しかったな」


 ゴードンは、呪いを解くことも、病を治すこともできない。だが、彼にできるのは、アルベルが「病人」でも「英雄」でもなく、ただの「悪友」に戻れる、くだらない時間を作ってやることだった。

 その友情が、アルベルの心を、かろうじて繋ぎとめていた。


 

 


 魔王討伐から五ヶ月が過ぎた。

 アルベルの体調が良い日、王の気遣いで、内輪の夜会に車椅子で参加することになった。

 広間は、きらびやかな衣装をまとった王侯貴族たちで賑わっている。だが、その輪の中に、アルベルの居場所はなかった。

 かつて、彼の武勇伝に目を輝かせ、こぞって話しかけてきた若い騎士たちが、今では遠巻きに彼を見ているだけ。彼らの話題の中心は、国境で起こった新たな紛争や、次の昇進試験のこと。

 悪意のない、年老いた貴族が彼に話しかけてくる。

 

「おお、勇者殿。まだご存命でしたか。いやはや、大した生命力ですな」

 

 その言葉が、彼の心を静かに抉った。彼は、自分がもはや「現在の英雄」ではなく、「過去の遺物」になりつつあることを、痛感せざるを得なかった。


 その数日後、ゴードンに車椅子を押してもらって中庭を散歩していると、小さな子供がアルベルを見て、母親に尋ねていた。


「お母さん、あの人だあれ?」

「しっ。あれは、昔、魔王様を倒してくださった英雄様よ」

「へえ……でも、おじいちゃんみたい」


 子供は、もう興味を失くしたように、蝶々を追いかけて駆けていった。母親も、アルベルたちに申し訳なさそうに一礼すると、すぐにその場を去る。

 仕方ないことだ、とアルベルは自分に言い聞かせた。彼が望んだ平和とは、悲劇を忘れて笑える日常そのものなのだから。

 だが、自分が忘れられていくという事実は、呪いとはまた別の、冷たい刃となって彼の心を静かに切り刻んでいた。


 

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