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 図書館での宣告があった日の夜。

 王城から与えられた豪華な一室に戻ったアルベルを、昼間の喧騒が嘘のように、深い静寂が包んでいた。

 天蓋付きの広すぎるベッド、肌を滑る絹のシーツ、窓の外には平和を取り戻した王都の穏やかな夜景が広がっている。その全てが、昨日までの旅路では考えられなかった、まさしく「褒美」と呼ぶにふさわしいものだった。

 しかし、アルベルの心は、落ち着かなかった。戦いの興奮が冷め、祝宴の高揚感が過ぎ去った今、空っぽになった心に、ふと、あの最後の光景が過る。

 魔王ガヴェルが放った、紫黒色の光。胸に吸い込まれた瞬間の、魂を直接掴まれ、握り潰されたかのような、あの悪寒。

 彼は、部屋に置かれた姿見の前に立った。そこに映るのは、民衆が讃えた「英雄」の姿。だが、アルベルには、ただの「死刑囚」にしか見えなかった。

 図書館で仲間たちの前で保っていた虚勢が、音を立てて崩れ落ちる。


「……っ!」


 激情に任せ、彼は壁を殴りつけた。鈍い痛みが、かろうじて現実感を繋ぎとめる。彼はそのまま、壁に背を預けてずるずると床に崩れ落ちた。


(嘘だ……何かの間違いだ……)

(なぜ、俺が……。世界は、平和になったはずじゃなかったのか……)

(死ぬのか……俺は……。こんな、何も始まっていないまま……)


 虚無、怒り、そして純粋な恐怖が、彼の心を支配していた。

 どれくらい、そうしていただろうか。静かに扉がノックされ、返事を待たずにゴードンが入ってきた。彼は何も言わず、祝宴で出されたような高級な葡萄酒ではなく、安くて強い蒸留酒の瓶を一本、テーブルに置いた。そして、アルベルの向かいにどかりと腰を下ろす。

 二人は、言葉を交わすことなく、ただ黙って杯を重ねた。慰めの言葉など、無力だと知っているが故の、男同士の無言の寄り添い。

 夜が白み始める頃、ゴードンは立ち上がり、アルベルの肩を一度だけ、強く叩いた。


「……一人で抱え込むなよ」


 その一言だけを残し、彼は部屋を出て行った。アルベルは、返事ができなかった。だが、友が残した体温と、喉を焼く酒の熱に、かろうじて砕け散らずに済んだ魂の一部があるのを感じていた。



 

 

 翌日の午前、やつれた表情の四人は、王に謁見した。玉座の間の空気は、一昨日の祝賀ムードとは打って変わって重い。

 サシャが代表して、図書館での発見を、感情を排した事実として淡々と報告した。

 報告を聞いた王は、玉座から立ち上がり、顔を苦痛に歪める。


「なんと……なんということだ……。我が国の、いや、この世界の英雄が……」


 王は、国中の賢者、神官、錬金術師を総動員し、解呪法を探させると約束した。その言葉に嘘はない。彼は心からアルベルを案じている。

 しかし、その傍らで、宰相が他の大臣と、ごく微かに視線を交わすのをサシャは見逃さなかった。その目にあるのは、悲嘆ではなく、冷徹な「算段」の色だった。「余命いくばくもない英雄」という存在が、国にとってどのような意味を持つか、彼らは既に計算を始めている。サシャは、その事実に静かに唇を噛んだ。


 それから数週間、アルベルたちの周りには、奇妙に穏やかで、しかし薄氷を踏むような緊張をはらんだ日々が流れた。

 王の命令で、国中の賢者たちが解呪法を探して奔走したが、有力な情報は一つももたらされない。その間にも、呪いは、確実にアルベルの肉体を蝕み始めていた。

 

 ある晴れた日の午後。気分転換のため、ゴードンと木剣で軽く打ち合うアルベル。数合打ち合っただけで、以前ではありえなかった息切れを起こし、激しく咳き込んでしまう。ゴードンは即座に剣を下げた。


「……大丈夫か?」


 その声には、隠しきれない憂慮が浮かぶ。


「ああ、少し埃を吸っただけだ」


 アルベルは嘘をついた。二人の間に、気まずい沈黙が流れる。

 

 またある時は、サシャがアルベルの部屋で、気分転換にと古代の英雄譚を読んで聞かせていた。その最中、アルベルの視界が一瞬、ぐにゃりと歪む。


「……すまない、サシャ。もう一度、今のところを読んでくれないか。ちょっとぼーっとしてた」

「ええ……いいわよ」


 サシャは彼の嘘に気づいていたが、何も言わず、同じ箇所を読み直した。だが、その声は微かに硬くなっていた。

 誰もが気づいている。アルベルの「時」が、確実に奪われているという事実に。そして、誰もがその事実から目を逸らし、気付かないふりをしていた。


 

 


 一ヶ月が過ぎた。

 アルベルの体には、まだ目立った変化はなかった。だが、鏡を見れば、目の下に消えない隈が居座り、顔色も優れない。何より、かつては無尽蔵に湧き出てきたはずの活力が、明らかに減衰しているのを自覚していた。確実に、呪いは彼の内側を蝕み始めていた。

 そんなある日、ハンナが旅の支度を整えて、アルベルの前に立った。彼女の目は心労で赤く腫れていたが、その瞳には、狂信的ともいえる決意の光が宿っていた。


「私、旅に出ます」


 その場にいたサシャが、彼女の前に立ちはだかった。


「ハンナ、待ちなさい。気持ちはわかるわ。でも、あの魔導書にあった通りなら、それは……」

「記録がないだけです!」


 ハンナは叫んだ。それは、論理を重んじるサシャへの反発であり、残酷な現実への抵抗だった。彼女は部屋に持ち込んだ大量の古地図や巻物をテーブルに広げた。


「見てください! 東の果ての『忘れられた民』の伝承に、時を操る秘術の記述が……! 記録に残らない奇跡だって、世界にはあるはずです! 忘れられた伝承、失われた聖遺物……何か、何かあるはずなんです! 私は聖女です。主がお与えになったこの力は、人々を救うためのもの。アルベル様を見殺しにすることなど、主に顔向けできません!」


 だが、サシャは冷静に、本棚から一冊の魔導史を取り出すと、該当のページを開いて見せた。


「それは希望的観測よ。その伝承のことなら、三百年前の魔導史学会で偽書だと結論が出ているわ、ハンナ。現実を見て」

「冷静でなどいられますか! サシャ、あなたは見ているだけでいいのですか!? アルベル様が、日に日に弱っていくのを!」


 二人の間に、張り詰めた空気が流れる。ゴードンは、ただ黙って壁に寄りかかり、苦渋の表情で二人を見ていた。

 最後に口を開いたのは、アルベルだった。

 彼は、必死に希望にすがるハンナの姿が、痛々しいほどにまぶしく映っていた。サシャの言うことが正しいと、頭では理解している。だが、ここでハンナの心を折ってしまえば、このパーティーの何かが、決定的に壊れてしまうと感じていた。


「……行かせてやってくれ、サシャ」


 彼の穏やかな声に、二人がはっと顔を上げる。


「ハンナの言う通りかもしれない。世界は、俺たちが知っていることだけでできているわけじゃないんだ。……頼む、ハンナ。俺のために、希望を探してきてくれないか」


 アルベルの言葉に、ハンナは目に涙を溜め、深く頷いた。サシャは、何か言いたげに唇を噛んだが、結局、静かに道を譲った。


 翌日、王都の城門。

 旅支度を整えたハンナが、そこに立っていた。アルベルたち三人が、見送りに来ている。


「気休めだ。護身用の魔法具が入ってる」


 ゴードンは、ぶっきらぼうに小さな革袋を渡す。

 サシャは、最後まで彼女の旅を認められず、目を合わせようとしない。だが、去り際に「……死なないでよ」と、それだけを呟いた。

 ハンナは、涙をこらえて笑顔を作り、「必ず、吉報を持ち帰ります」と深く頭を下げる。

 そして、彼女は一人、東へと旅立っていった。アルベルは、その小さな背中が見えなくなるまで、ずっと、黙って見送っていた。


 その小さな背中には、四人分の、あまりにもか細い希望が託されていた。

 

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