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サシャが、分厚い手記の最後のページを読み終え、ぱたんと閉じた。
魔王城の、隠された書斎。その行為が、まるで合図だったかのように、部屋を支配していた、ありとあらゆる音が消え失せた。燃え尽きそうな燭台の炎が、声もなく揺れる。壁を伝う水の滴る音さえ、今は聞こえない。
絶対的な沈黙が、三人を支配していた。
今しがた知った、あまりにも重い真実。彼らが死闘の末に打ち破った「魔王」の、本当の姿。そして、友アルベルが、その身に受けた呪いの、本当の意味。その全てが、鉛となって彼らの心にのしかかり、顔を上げることさえ許さない。
長い、長い沈黙。
それを破ったのは、暴力的なまでの、衝動だった。
ゴードンが、無言で椅子から立ち上がると、やり場のない怒りに任せて、すぐそばにあった石壁を、力任せに殴りつけた。ゴッ、と骨が砕けるような鈍い音が響き、彼の拳から血が流れる。
「……ふざけやがって……」
彼の喉から、獣の唸り声のような、低い声が漏れた。
「何が魔王だ……。あいつは、ただの……! 俺たちは、なんてものを殺しちまったんだ……」
その言葉が、堰を切った。
ハンナが、胸にかけた聖印を、強く、強く握りしめる。彼女の瞳からは、嗚咽と共に、大粒の涙が次々とこぼれ落ちていた。それは、友を失った悲しみの涙とは違う。自らの信じたもの、全てが崩れ落ちていく、絶望の涙だった。
「……分かりません。私の祈りは……私たちの正義は……一体、何だったのでしょうか……。私たちは、救いを求める魂を、断罪してしまったのでしょうか……」
サシャは、ただ、テーブルの上に置かれた『カインの手記』を見つめていた。彼女の顔は青ざめ、その手は微かに震えている。彼女の頭の中では、手記の悲痛な言葉と、かつて魔導院の禁書庫で読んだ、あの異端の論文が、一つの恐ろしい結論となって結びついていた。
「……『現象』……。論文の通りだとしたら、勇者と魔王は、この世界を維持するための、ただの生贄……」
その冷たい響きを持つ言葉に、ゴードンとハンナが、はっと顔を上げる。
サシャは、続ける。その声は、震えていた。
「アルベルは……もしかしたら、気づいていたのかもしれない。自分の、運命に」
その一言が、引き金だった。
ゴードンの脳裏に、決戦前夜の、アルベルの顔が蘇る。
『もし、俺に何かあっても、お前たちは、三人で、生きて、幸せになるんだ。……これは、俺からの、最後の『命令』だ』
あれは、万が一の話などではなかった。彼は、自分が「いなくなる」未来を知っていたのだ。その上で、残される仲間たちの未来を、託していたのだ。
ハンナの脳裏にも、聖都での、あの奇跡の光景が焼き付いていた。自分の力を超えた、あの黄金の光。あれは、主の力などではない。
「ああ……!」
ハンナが、悲痛な声を上げた。
「聖都での、あの奇跡……! あれは、アルベル様が、ご自分の命を……! 私たちのために、彼の時間を……!」
アルベルの全ての行動が、仲間たちを、そして世界を、自らが魔王になるという最悪の未来から守るための、壮絶な自己犠牲だったことを、三人は、今、ようやく理解した。
絶望が、再び、部屋を支配する。
友は、自分たちのために死んだ。そして、自分たちが殺した魔王は、友と同じ痛みを抱えた、もう一人の英雄だった。この世界は、英雄を生贄として弄ぶ、残酷なシステムの上になりたっている。
あまりにも、救いのない真実。
しかし。
絶望の底で、ゴードンが、血の滲む拳を、さらに強く握りしめた。彼の顔を上げていく。その瞳には、もはや悲しみではなく、燃えるような、静かな怒りの炎が宿っていた。
ハンナもまた、涙を拭い、握りしめていた聖印を、そっと首から外した。彼女の信仰は、もはや、天の主ではない。目の前にいる仲間たちと、そして、志半ばで倒れていった、二人の英雄へと向けられていた。
サシャが、立ち上がる。彼女の目には、この世界の残酷な「システム」そのものへの、明確な敵意が浮かんでいた。
「……もう、誰も、あんな思いをさせてたまるか」
ゴードンが、静かに言った。
「アルベルも、カインとかいう、前の勇者もだ。この、呪われた連鎖は……」
ハンナが、その言葉を継ぐ。
「私たちが、断ち切らなくてはなりません。アルベル様と、カインさんの、魂のために」
最後に、サシャが、三人の決意を、一つの言葉にした。
「ええ。アルベルが、そしてカインが、命を懸けて遺してくれた、この『真実』を無駄にしないために。……私たちの戦いは、まだ終わっていない。いいえ」
彼女は、ゴードンとハンナの顔を、強く、見据えた。
「今、ここから、本当の戦いが始まるのよ」
三人の心が、初めて、完全に一つになった。
目的は「魔王を倒す」ことではない。
この世界の「運命そのものに、反逆する」ことだ。




