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長い、長い記憶への旅路が、終わった。
現在のサシャの研究室。三人の間には、重い沈黙が支配していた。彼らは、つい今しがたまで、仲間と共に、再び、あの長く、輝かしく、そしてあまりにも悲しい旅を追体験していたのだ。
アルベルの「最後の命令」。その言葉の本当の重みが、今、改めて彼らの胸にのしかかる。
沈黙を破ったのは、サシャだった。
彼女は、テーブルの上に広げられた資料――ハンナが持ち帰った「勇者カインの失踪事件」の記録と、自分が魔導院で見つけた「世界の法則に関する論文」を、指でなぞる。
「事実を整理しましょう」
彼女は、感情を排した、学者の口調で語り始めた。
「一つ。勇者カインは、先代魔王を倒した直後、消息を絶った。一つ、魔王ガヴェルは、その直後、ほぼ同じ場所に出現した」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。そして、最も残酷な事実を口にする。
「そして、今。勇者アルベルが、死んだ」
サシャは、仲間たちの顔を一人ひとり、見回した。その瞳には、怜悧な知性と、隠しきれない恐怖の色が浮かんでいる。
「……もし、この符合が、この世界の抗いがたい『法則』なのだとしたら……。今、この世界のどこかで、アルベルの死と引き換えに、『次なる魔王』が産声を上げているのかもしれない、ということよ」
その、あまりにもおぞましい仮説。
ゴードンが、テーブルを強く叩いて、立ち上がった。
「ふざけるな! じゃあ、アルベルのしたことは全部無駄だったってのか!? あいつが命を懸けて平和にしたってのに、また新しい魔王が現れるだけだってのかよ!」
彼の怒声は、悲痛な叫びにも似ていた。
ハンナは、顔を青ざめさせ、震える声で呟く。
「……では、主の与え給うた勇者の力とは、祝福ではなく……次の災厄を呼ぶための、引き金だったと……言うのですか……?」
彼女の信仰が、音を立てて崩れていく。
サシャは、二人の反応を、悲しい目で受け止めた。
「感情で否定しても、現実は変わらないかもしれないわ。……だとしたら、私たちは……」
彼女は、言葉を続ける。
「私たちは、それを止めに行かなくてはならない。アルベルの死を、無駄にしないために」
サシャは、地図を広げ、「嘆きの山脈」の一点を指さした。
「カインが消息を絶ち、ガヴェルが生まれた場所。そして、アルベルが、あの不可解な呪いを受けた場所。あの魔王城に、この呪われた連鎖を断ち切るヒントがあるはずよ」
その言葉に、ゴードンも、ハンナも、顔を上げる。
そうだ。絶望している暇はない。もし、本当に、アルベルの死が新たな災厄を生むのだとしたら、それを止めることこそが、残された自分たちにできる、唯一の、彼への弔いとなる。
彼らの瞳に、絶望の色を塗りつぶすように、新たな決意の光が灯った。
彼らの旅の目的が、「アルベルの死の真相究明」から、「次なる悲劇の阻止」と「世界の謎の解明」へと、明確にシフトした瞬間だった。
◇
数日後。
三人は、新たな旅の準備を整えていた。以前の旅とは違い、その表情には希望ではなく、悲壮な覚悟が浮かんでいる。
彼らは、誰に見送られることもなく、静かに王都を旅立った。
目指すは、北の果て、嘆きの山脈。
全ての始まりであり、全ての終わりである、あの静寂の玉座へ。
友の死に隠された真実と、歴史の闇に葬られた英雄の謎を解き明かすために。
そして、願わくば、この呪われた運命の連鎖に、終止符を打つために。
残された者たちの、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。
◇
かつてアルベルと共に旅した道を、今度は三人で逆に辿っていく。道中、彼らがかつて救った街や村に立ち寄り、平和を取り戻した人々の姿を目にする。その光景が、彼らに「アルベルが遺したもの」を再認識させ、旅の目的をより強固なものにしていった。
そして、彼らは再び、「嘆きの山脈」へと足を踏み入れた。
魔王ガヴェルが倒されたことで、かつてほどの濃密な瘴気は薄れている。しかし、主を失い、より凶暴化した強力な魔物たちが、縄張りを争って跋扈していた。
一体の巨大なグリフォンが、彼らに襲いかかる。
「ハンナ、援護を!」
「ゴードン、右翼から回り込んで!」
サシャの的確な指示が飛ぶ。ゴードンが、かつてアルベルが立っていた位置で、囮となってグリフォンの注意を引きつける。その隙に、サシャが編み上げた極大の氷の槍が、グリフォンの翼を撃ち抜いた。墜落したところに、ハンナの放つ聖なる光が、その動きを封じる。
三人は、もはや言葉を交わすまでもなく、完璧な連携で、強大な魔物を打ち破ってみせた。彼らは、勇者を失ってもなお、大陸屈指の実力者であることに、変わりはなかった。
◇
魔王城に到着した。巨大な城門は破壊されたままで、城内は不気味な静寂に包まれている。
彼らは、アルベルが呪いを受けた、玉座の間へと向かった。そこは、戦いの爪痕が生々しく残り、砕けた玉座だけが、虚しく彼らを出迎える。
ハンナは、この場所でアルベルを襲った悲劇を思い出し、涙ぐんだ。ゴードンは、壁に残る剣の跡を見つめ、唇を噛む。
「感傷に浸るのは後よ。探しましょう」
サシャが、冷静に、しかし、震える声で言った。
彼女の言葉を元に、三人は、玉座の裏や、魔王の私室だった場所で、隠された通路や部屋の探索を始めた。
探索の末、ゴードンが、魔王の寝室の巨大な本棚が、僅かに動くことに気づいた。三人が力を合わせると、本棚が回転し、その後ろに、隠された扉が現れる。
扉の奥にあったのは、魔王城の禍々しい装飾とは全く違う、ごく質素で、小さな書斎だった。そこには、一つの机と椅子、そして粗末なベッドだけが置かれている。
「この部屋……瘴気の匂いがしません」
ハンナが、息を呑む。
「ただ……とても、悲しい気配がします」
机の上。そこに、一冊だけ、ポツンと、分厚い革張りの手記が置かれていた。それは、およそ魔王の持ち物とは思えない、人間的な温かみのある品だった。
三人は、ゴクリと唾を飲む。サシャが、震える指で、そっと手記の表紙を開いた。
そこに、インクが滲んだ、力ない、しかし、懸命に書き残そうとしたであろう、悲痛な文字が綴られていた。
「誰かが、いつかこの手記を読むのなら。……まず、私の妻、エラーラと、娘のニーナの名を、覚えておいてほしい」
それは、彼らが倒した「魔王」のものではない、彼らが知らなかった、もう一人の「勇者」の、魂の叫びから始まっていた。




