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 魔王城、その玉座の間の巨大な扉の前で、四つの人影が足を止めた。

 扉の隙間から漏れ出すのは、凝縮された悪意そのものだった。空気を鉛のように重くし、魂を直接凍てつかせるような、禍々しい気配。数百年もの間、この大陸に君臨してきた絶対悪の魔力が、決戦の時を待っていた。


「……準備はいいか」


 パーティーの盾である剣士ゴードンが、低く、しかし確かな声で仲間たちを見回した。


「ええ、いつでも」


 賢者サシャが、眼鏡の位置を直しながら冷静に頷く。その瞳には、恐怖よりも知的な好奇心の色が濃い。


「主よ、我らが希望の光に、勝利の祝福を……」


 聖女ハンナが、胸の前で固く組み合わせた両手に、祈りを込める。

 三人の視線が、最後の男に集まる。

 勇者アルベル。彼は、仲間たちの顔を一人ひとり見渡し、静かに、しかし力強く言った。


「行こう。俺たちの手で、この長い戦いを終わらせる」


 アルベルが扉に手をかける。永い戦いの、これが最後の戦いだ。


 



 アルベルが重い扉を押し開けると、玉座の間の空気が、まるで質量を持った悪意となって四人に襲いかかった。

 広間の最奥。崩れかけた玉座に、魔王ガヴェルは鎮座していた。人間のおよそ倍はある巨躯。禍々しい装飾の施された漆黒の鎧を身にまとい、その顔貌は深い兜の影に隠れて窺い知れない。だが、その影の奥から覗く二つの紅い光だけが、明確な侮蔑と嘲笑をたたえて、侵入者たちを見下ろしていた。


「――来たか、蟲螻蛄どもよ」


 その声は、地獄の底から響くような、重く、そして冷たい響きを持っていた。


「また来たのだな、同じような顔をした勇者が。これまで何人、貴様のような奴の顔を絶望に染めてきたことか、覚えてもいまい」

「戯言を!」


 ゴードンが、大盾を構え、一歩前に出る。


「お前の帝国は、ここで終わりだ、ガヴェル!」


 アルベルもまた聖剣を抜き放ち、その切っ先を魔王へと向けた。

 だが、魔王は玉座から立ち上がろうともしない。ただ、指を一本、ゆっくりと持ち上げただけだった。


「まず、ひざまずけ」


 瞬間、四人の体を、見えない巨人の手に押さえつけられたかのような、凄まじい圧力が襲った。闇の重力魔法。あまりの重圧に、ゴードンの膝が音を立てて床にめり込み、ハンナとサシャが苦悶の声を上げる。


「くっ……! なんて魔力だ……!」

「祈りが……! 聖なる力が、阻害されます……!」

「私の魔法障壁も、長くはもたないわ……!」


 アルベルだけが、聖剣から放たれる聖なる力でかろうじてその場に立っていたが、一歩も動くことができない。

 ガヴェルは、そんな彼らの姿を、心底楽しそうに眺めていた。


「くっくっく……か弱い。なんともか弱い存在だ。祈るだけの聖女に、鉄くずに身を隠すだけの剣士。小賢しいだけの魔術師に……。それに守られる、膝を震わせ立っているのもやっとの勇者」

 

 その嘲りは、彼らの絆そのものを汚す、邪悪な響きを持っていた。

 次の瞬間、ガヴェルの周囲に、無数の闇の槍が出現する。


「終わりだ」


 その一言と共に、闇の豪雨がパーティーへと降り注いだ。


「ゴードン! お願い!」


 サシャが攻撃を予測して、すんでのところで叫ぶ。

 

「させるかあっ!」


 ゴードンが最後の力を振り絞り、大盾を構える。凄まじい轟音と共に、何本もの槍が盾に突き刺さり、ついにその誇りであった大盾は、甲高い音を立てて砕け散った。防ぎきれなかった数本が、ゴードンの体を貫く。致命傷ではないが、大きな痛手だ。


「させないわ!」


 サシャが残る魔力の全てを防御に注ぎ込み、辛うじて第二射を防ぐ。だが、その魔法障壁にも、蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。

 絶体絶命。誰もがそう思った、その時だった。


「――今!」


 サシャが、血反吐を吐きながら叫んだ。


「魔王の魔力の鎧に、一瞬、綻びが! 広範囲魔法の直後、ほんの刹那だけ!」

「ハンナ!」


 アルベルが叫ぶ。ハンナは、即座にその意図を理解した。


「アルベル様に、聖なる力を!」


 彼女の最後の祈りが、加速と祝福の光となってアルベルを包む。

 ゴードンは、己の体を盾にするように、最後の壁となって魔王の視線を引きつけた。

 全てが、一瞬だった。

 サシャが見出した、百万分の一の好機。ゴードンとハンナが命を懸けて繋いだ、希望の道。

 その全てを乗せ、アルベルは光の矢と化して駆けた。


「オオオオオオオッ!」


 狙うは、幾重にも張られた闇の障壁の、ほんの一瞬の隙間の奥にある心臓。

 

 そして――聖剣は、寸分違わず、魔王の心臓を貫いた。


 ガヴェルの巨体が、玉座から崩れ落ちる。凄まじい断末魔の叫びが、城全体を揺るがした。


 


 

「……ハァッ、……ハァ……!」


 勇者アルベルは、聖剣を杖代わりにし、かろうじてその身を支えていた。全身を焼くような痛みと、骨の軋む音を聞きながら、彼はゆっくりと顔を上げる。

 視線の先には、かつて魔王ガヴェルが鎮座していた玉座の残骸。

 そして、その主の、塵となって消えゆく最後の姿があった。


「アルベル、今よ! 魔王の魔力、完全に消失!」


 声の主は賢者サシャ。彼女の知的で涼やかな貌は煤と血で汚れ、叡智の象徴たるローブは引き裂かれていたが、その瞳の輝きだけは失われていない。


「これで……終わりだ……」


 大剣を地に突き立て、肩で息をしていたのは剣士ゴードンだ。彼の誇りであった大盾はとうに砕け散り、パーティーの盾としてあらゆる攻撃を受け止めてきた彼の鋼の肉体は、無数の傷に覆われ、自慢の全身鎧は無惨に歪んでいる。


「ああ……主よ……我らの祈り、聞き届けられ……」


 後方で膝をついていた聖女ハンナは、両手を組み合わせたまま、天を仰いで涙を流していた。彼女の流した涙と祈りこそが、この絶望的な戦況において、彼らを何度も死の淵から引き戻した生命線だった。

 アルベルは、三人の仲間を見渡し、そして再び正面の虚空を見据える。一人では、決して立てなかった場所。この四人であったからこそ、人類の悲願を成し遂げることができたのだ。


「魔王――ガヴェル……!」


 その名を、絞り出す。それは勝利の宣言であると同時に、長きにわたる戦いへの訣別の言葉でもあった。

 だが、完全に滅びる寸前、塵と化していた魔王の残滓が、最後の憎悪を灯して凝縮した。


「……見事、だ。勇者、アルベル……よ」


 空間に直接響くような、か細く、しかし怨念に満ちた声。


「だが、この我が滅びるとも、ただでは滅びん。貴様の未来諸共だ……! その身に刻むがいい、我が最後の絶望を!」


 ガヴェルが最後の力を振り絞る。それはもはや魔法の詠唱ではなく、自らの魂を呪詛に変える、禁忌の儀式。


「させないわ!」


 サシャの放った光の矢が、呪詛の核を砕かんとする。しかし、光が届くよりも早く、それは成ってしまった。


「禁術の33――〈零刻の邪痕(ラヴェエル・ヴォルム)〉」


 紫黒色の禍々しい閃光。音もなく、それはアルベルの胸へと吸い込まれ、一瞬、心臓を氷の鷲掴みにされたかのような悪寒が彼の全身を貫いた。


「アルベル!?」

「勇者様!?」


 ゴードンとハンナの悲鳴が、崩れゆく広間にこだまする。

 アルベルは一瞬よろめき、膝をつきそうになるのを、聖剣に体重を預けてこらえた。胸の悪寒は消えている。体に異常はない。


「……何ともない」


 彼は仲間を安心させるように、そう言った。

 そして、完全に消滅し、虚無へと帰した玉座の跡地を、静かに見つめる。

 長かった戦いが、今、終わったのだ。その事実だけが、確かな重みを持っていた。


 魔王が完全に消滅し、世界を覆っていた禍々しい魔力が霧散した。後に残ったのは、崩れかけた玉座の間と、四人の荒い息遣いだけ。極度の緊張から解放されたゴードンが、その場にへたり込んだ。静寂の中、ハンナの堰を切ったような泣き声が響く。彼女は両手で顔を覆い、ただ、しゃくり上げていた。

 アルベルは、仲間たちの無事を確認し、心の底から安堵のため息をつく。


「……終わったんだな、本当に」


 実感のこもったその言葉に、ゴードンが顔を上げ、ニヤリと歯を見せて笑った。

 

「ああ、俺たちの勝ちだ」

 

 その一言が、彼らの長すぎた戦いの終わりを、確かに告げていた。


 

 


 魔王城を後にしてから、三日が過ぎた。

 王都までの道のりは、まだ遠い。だが、彼らの心は、旅の始まりの頃とは比べ物にならないほど、晴れやかだった。道中の村々で、魔王が倒されたという報せを聞いた人々から、感謝と歓迎を受けたことも、彼らの心を温めていた。

 その夜も、彼らは野営の準備をしていた。ゴードンが仕留めた兎を、サシャが起こした火で焼いていく。


「それにしても、最後の魔王の攻撃、やばかったぜ。一瞬、マジで死んだかと思った」


 ゴードンが、傷だらけの腕をさすりながら言う。


「あれは私の予測がなければ防ぎきれなかったわね。少しは感謝なさい」


 サシャが澄ました顔で返す軽口に、ゴードンは「へいへい」と肩をすくめた。

 ハンナは、そんなやり取りを微笑ましげに眺めている。


「でも、皆さんがご無事で、本当によかったです」


 その心からの言葉に、皆が頷いた。彼らがくぐり抜けてきた死線の過酷さを、誰もが実感していた。


「あとは、アルベル様の身体になにもないといいのですけれど……」

「大丈夫だって、今のところなんともないし。それに、俺たちならなにがあっても解決できる。これまでだって、そうだっただろう?」

「そう……ですね……」 


 少しの沈黙の後、ゴードンが未来に目を向けるように言った。

 

「王都に帰ったら、死ぬほど美味い酒と肉を腹に詰め込んでやる! いっそ、俺が故郷に帰って、でっけえ酒場でも開くかな!」

「私は、戦争で親を亡くした子供たちのための、孤児院を建てたいです」

「私は王立魔導院に戻って、今回の戦いの記録を整理するつもりよ」

「俺は……そうだな。どこか静かな場所で、畑でも耕して、のんびり暮らしたいかな」


 仲間たちが語る、それぞれの夢。アルベルは、その光景を、ただ幸せな気持ちで眺めていた。


 

 


 王都への凱旋は、歴史的な一日として、後世まで語り継がれることになった。

 天を舞う色とりどりの花びら。鳴り響く教会の鐘。そして、道の両脇を埋め尽くした民衆の、地鳴りのような歓声。人々は勇者たちの名を呼び、涙を流して感謝し、平和の訪れを祝った。

 王城の玉座の間で、老王は自ら壇上を降り、傷だらけの英雄たちを一人ずつ抱きしめた。


「よくぞ、成し遂げてくれた。勇者アルベル、そしてその仲間たちよ。そなたたちの名は、この国の歴史と共に、永遠に語り継がれるであろう」


 王は、アルベルに尋ねた。

 

「勇者アルベルよ。そなたの望みを申すがよい。望むだけの金銀財宝、地位、名誉、何を与えても、そなたの功績には足りぬであろう」

 

 その言葉に、アルベルは静かに首を振った。

 

「陛下。私の望みは、ただ一つ。この平和が、一日でも長く続くことです。それ以上の褒美は、私には必要ありません」

 

 その謙虚な言葉に、王も、居並ぶ貴族たちも、深く感銘を受けた様子だった。

 姫君は、その美しい瞳を潤ませながら、四人に気高い百合の花輪を捧げた。アルベルは、ゴードンは、サシャは、ハンナは、生涯で最も輝かしい瞬間の只中にいた。


 その夜に催された祝宴は、国中を挙げての盛大なものだった。

 最高級の料理、美酒、楽団の奏でる陽気な音楽。アルベルたちは、次々と訪れる貴族や騎士たちの賞賛の言葉に、笑顔で応対していた。喧騒の合間、四人はそっとグラスを合わせる。


「長かったな」


 ゴードンが言うと、サシャが「ええ、本当に」と微笑む。ハンナは「すべて、主の導きです」と目に涙を浮かべ、アルベルはただ黙って頷いて、仲間たちの顔を見渡した。この顔ぶれで、この場所にいられる。それ以上の幸福はなかった。


 だが、祝宴が終わり、王城から与えられた豪華な一室で一人になると、昼間の喧騒が嘘のように、深い静寂がアルベルを包んだ。

 天蓋付きの広すぎるベッド、肌を滑る絹のシーツ、窓の外には平和を取り戻した王都の穏やかな夜景が広がっている。その全てが、昨日までの旅路では考えられなかった、まさしく「褒美」と呼ぶにふさわしいものだった。

 

 しかし、アルベルの心は、奇妙に落ち着かなかった。戦いの興奮が冷め、祝宴の高揚感が過ぎ去った今、空っぽになった心に、ふと、あの最後の光景が過る。

 

 魔王ガヴェルが放った、紫黒色の光。

 胸に吸い込まれた瞬間の、魂を直接掴まれたかのような、あの悪寒。

 アルベルは、無意識に自らの胸に手を当てた。痛みも、違和感もない。ただの気のせいだ、戦いの疲れが今になって出てきたのだろう。そう自分に言い聞かせようとする。だが、一度生まれた染みは、心を蝕むように、じわりと広がっていく。勝利という純白のカンバスに落とされた、拭うことのできない、たった一つの小さな黒い点のように。

 その夜、彼はなかなか寝付けなかった。


 翌朝、四人は王城の賓客用の食堂で、朝食を共にしていた。

 テーブルには、昨日とはまた違う、温かな料理が並んでいる。


「いやー、食った食った! 生まれて初めてあんな美味い肉食ったぜ!」


 ゴードンは、昨夜の祝宴の思い出に浸り、上機嫌でパンを頬張っている。だが、ほとんどアルベルの食が進んでいないことに、ハンナが気づいた。


「アルベル様、どうかなさいましたか? 顔色が優れませんが……。まだお疲れが残っていらっしゃるのですか?」


 心配そうに覗き込むハンナに、アルベルは曖昧に笑った。この平和な朝の空気を、自分の不安で壊したくはなかった。


「いや……大したことじゃないんだが……」


 彼が口ごもった、その時だった。

 紅茶のカップを静かに置き、サシャが、まるで彼の心を見透かしたかのように言った。


「〈零刻の邪痕(ラヴェエル・ヴォルム)〉のことね」


 その言葉に、アルベルだけでなく、ゴードンもハンナもはっと息を呑む。


「……ああ」


 とアルベルが頷くと、サシャは続けた。


「私も、ずっと気になっていたわ。魔王が、その命と引き換えに放った禁術。それが何の痕跡も残さず、ただの威嚇で終わるなんて、都合が良すぎる。論理的じゃないわ」


 サシャの冷静な分析が、アルベルの胸の内で燻っていた漠然とした不安に、明確な輪郭を与えた。ゴードンも、もう軽口を叩くような雰囲気ではない。


「……確かに、そう言われると気味が悪いな」

「何か、調べてみるべきですわ。万が一ということもありますから。きっとなにかいい解決法が見つかるはずです」


 ハンナが真剣な表情で言う。四人の意見は一致した。

 サシャが、思案するように顎に手を当てる。


「王立大図書館の禁書庫なら、何か記録が残っているかもしれないわ。王の許可を得て、調べてみましょう」


 こうして、彼らは玉座の間へと向かった。王に事情を話し、禁書庫への立ち入りの許可を得るために。

 昨日までの祝祭の空気は、もうどこにもなかった。彼らの旅は、まだ終わっていなかったのだ。

 



 

 大図書館は、静寂と叡智の聖域だった。高い天井まで届く本棚が迷路のように続き、古紙とインクの匂いが厳かな空気を醸し出している。禁術や古代魔法に関する区画は、特に人の気配がなく、ひんやりとしていた。


 サシャがその驚異的な記憶力と知識を駆使し、該当しそうな魔導書を次々と紐解いていく。ゴードンとハンナは、そんな彼女の邪魔にならないよう、固唾を飲んで見守っていた。アルベルには、なぜかページをめくる音の一つ一つが、やけに大きく聞こえた。

 探索は難航した。数時間が経過しても、それらしい記述は一向に見つからない。


「見つからねえな……。やっぱり、大した呪いじゃなかったのかもな」


 ゴードンがそう言って、大きく伸びをした、その時だった。

 サシャが、「……待って」と、か細い声で呟いた。

 彼女の視線は、書庫の最も奥、埃をかぶった棚の隅にあった一冊の、表紙も朽ちかけた魔導書に注がれていた。何かに引かれるように、彼女はその本を手に取る。

 そして、ページをめくる彼女の手が、ぴたりと止まった。

 彼女の顔から、急速に血の気が引いていくのが、誰の目にも見て取れた。


「……あったわ」


 その声は、祝宴での華やいだ声とは似ても似つかないほど、低く、硬かった。

 三人は、彼女の周りに集まる。そこに記されていたのは、おぞましい紋様と、血をすするようにインクが滲んだ、震えるような文字だった。


『禁術三十三番――〈零刻の邪痕〉。術者の全生命力と引き換えに、対象者の〝時〟を奪う大呪法なり。呪いを受けし者は、いかなる治癒魔法、聖なる儀式もその効果を虚とし、その身は不可逆に衰弱・老化を続け、やがて生命活動を停止するに至る。肉体に宿る魂そのものを、零へと還す呪いなればなり。古来、この呪いを解き、あるいはその進行を止めたという記録は、一切、存在しない』


「これは……確かなのか……?」

「ええ、この本に書かれていることはまず、間違いないわ……。大賢者アルレリウスの書籍だもの。法律よりも確かなものよ。……私も、否定できればどれだけよかったかとは思うけれど……」

「そう……か……」

 

 誰も、何も言えなかった。昨日までの歓声が嘘のように、図書館の静寂が、墓場のように重くのしかかる。

 最初にその沈黙を破ったのは、ハンナの喉から漏れた、引き攣るような嗚咽だった。彼女はその場にへたり込み、両手で顔を覆って泣きじゃくる。

 その信仰の根幹を揺るガされたような、絶望的な泣き声だった。ゴードンは、「クソッ!」と獣のような声で唸ると、近くの本棚を力任せに殴りつけた。分厚い本が数冊、床に落ちて、彼の怒りと無力を示すように、乾いた音を立てた。


 アルベルは、ただその記述から目が離せなかった。一文字一文字が、彼の未来に死刑宣告を突きつけている。足元から、急速に血の気が引いていくのがわかった。


「……まあ、すぐには死なないみたいだしな」


 自分の口から出たのが、そんな空々しい軽口だったことに、アルベル自身が驚いた。仲間たちの、絶望に染まった顔を、とても正視できなかった。

 

 昨日、永遠の英雄になったはずの青年は、今日、ただ緩やかに死を待つだけの存在になっていた。


 

 

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