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ぬいぐるみのミミちゃんは、大好きなミカちゃんとずっと一緒にいたかった

作者: 小鳥遊ゆう


日常が、音を立てて崩れ去った。冷え切った家には、常に張り詰めた空気が漂っていた。


ある日、父の暴言と激しい暴力に疲れ果てた母が、ミカを置いて家から逃げ去ってしまったのだ。


ミカの手元に残ったのは、昨年の誕生日に母がプレゼントしてくれた、耳の長いウサギのぬいぐるみ「ミミちゃん」だけだった。


「ミミちゃん、ママ、どこ行っちゃったの?」


幼いミカは、ミミちゃんを抱きしめ、小さな声で何度も問いかけた。母の温もりを求めて、ミミちゃんの柔らかい毛並みに頬を擦りつける。


ミミちゃんは、ミカにとって唯一の話し相手であり、心の拠り所だった。空腹のときも、寒さに震える夜も、ミカはいつもミミちゃんに語りかけた。


「ミミちゃん、おなかすいたね。ママがいたら、美味しいもの作ってくれたかな? あったかいスープとか、甘いケーキとか」


ミミちゃんは何も答えない。

けれど、ミカはまるでミミちゃんが頷いているかのように、ぎゅっと抱きしめ返した。


母が去ってからすぐに、父は新しい女を連れ込んだ。その女は、まるで氷のような冷たい目をしていた。


父もその女も、ミカに愛情を向けることはなかった。代わりに、彼らの日々の不満や苛立ちが、幼いミカに向けられた。


「このクソガキがっ!」


父の怒鳴り声が響き、ミカは突き飛ばされた。床に叩きつけられた衝撃で、ミミちゃんが手から離れ、冷たいフローリングに転がる。ミカは痛む体を起こし、震える手でミミちゃんを拾い上げた。


「ミミちゃん、ごめんね。痛かった?」


(大丈夫……?)


女は、ミカがテレビを見たり、絵本を見ているだけで、それが面白くないと、容赦なくその小さな体を殴りつけた。だからいつも、ミカは部屋の隅でミミちゃんを抱いて、過ごしていた。


「あんたがいると邪魔なのよ! さっさと消えなさい!」


その言葉とともに、熱いお湯がミカの腕に降りかかったこともある。水ぶくれになった腕を、痛みに黙って耐えていた。泣き声を上げれば、うるさいと怒鳴られ、もっと殴られるから。痛みよりも、心が凍りつくような孤独感が、ミカを蝕んでいった。


食事はろくに与えられず、ミカはいつもお腹を空かせていた。台所の隅で、残飯を探すこともあった。それでも見つからなければ、水道の水を大量に飲んで、空腹をごまかした。


幼い体は日に日に痩せ細り、頬はこけて、大きな瞳だけが、その顔に不釣り合いに浮き出ていた。


「ミミちゃん、おなかすいたね……。でも、ミミちゃんがあったかいから、がまんできるよ」


(本当? がまんできる……?)


ミカはミミちゃんを胸に抱き、少しでも温もりを得ようとした。


五歳の冬、その日は雪が降り、とりわけ寒かった。


父の機嫌が悪かった。些細なことで、父はミカを何度も殴り、蹴りつけた。女は冷たい目でそれを見つめ、何も言わない。

痛みで身体が悲鳴を上げる中、ミカはベランダに引きずり出された。真冬の夜空の下、冷たい水を頭から浴びせられ、ベランダの鍵は閉められた。そしてそのまま放置された。


「そこで、少しは反省するんだな」


父の声が遠ざかる。ミカは震える手でミミちゃんを抱きしめ、体を丸めた。冷たさが骨の髄まで染み渡る。


意識が朦朧としてくる中で、ミカの脳裏に、母の顔が鮮明に浮かんだ。温かい手、優しい声、そしてミミちゃんをプレゼントしてくれたあの日の記憶。


「ミミちゃん……ねぇ、ミミちゃん」


ミカは、かすれた声でミミちゃんに語りかけた。


「ミミちゃん、寒いね。大丈夫?」


そう言って、ミミちゃんをギュっと抱きしめた。


「ミミちゃんは、ママの匂いがするね……。ミミちゃん、ねぇ、お願い……」


凍えそうな体で、震えながら、ミカは力を振り絞り、願いを口にした。


「だれかに、ぎゅーって、抱きしめてほしい……。あったかいね、って、言われたい……。


だれかと一緒に美味しいものお腹いっぱい食べて、美味しいねって言いたい……。


学校に行ってみたい……。友達、作りたい……」


(神さまどうか……)


すると不思議なことが起こった。ミカの小さな体を、白く輝く光りが包みこんだ。




ぽかぽかとした気持ちになって、ミカは段々と震えが止まった。そのうち眠くなり、意識を手放した。



※※※



夕闇が迫る王城の一室は、まだほんのりと昼の光を残していた。その薄明かりの中で、艷やかな黒色の長い髪を広げ、雪のような白い肌をした少女がベッドに横たわっていた。


少女の顔立ちは幼く、可愛らしい。四、五歳くらいだろか。大きな瞳が時折、不安げに揺れる。


少女は王城の庭で、倒れているところを発見された。


同時刻、王都全体が、まるで祝福を受けるかのように薄く白い光に包まれた。人々は皆、空を見上げ、その神秘的な光景に息をのんだ。


少女が身につけていたのは、この国の最高級の織物で仕立てられた、見事なドレス。その高価な装いのゆえに、どこかの貴族令嬢であると推測され、王命によって手厚く保護されることになった。


少女の生活は、騎士のアルヴィスとその妻、侍女のレティシアが世話を命じられた。国王や王妃も何度かミカの部屋に足を運び、心配そうに少女を見守った。


当初、王宮の者たちは皆、少女の幼く可愛らしい容姿とは裏腹に、極端に怯える様子に戸惑いを隠せなかった。注意深く見れば、少女の身体にいくつもの痣や古傷が隠されていた。また、栄養状態が悪かったのか、手や足に肉がついておらず、驚くほど細かった。


「これは……まさか、親に虐待を受けていたのだろうか?」


少女を診察した王宮医が沈痛な面持ちで報告すると、国王と王妃、そしてアルヴィスとレティシアの顔に、怒りと悲しみが入り混じった表情が浮かんだ。だが、すぐに別の疑問が持ち上がった。


「もし、本当に親に虐待されていた子なら、なぜこんなにも高価なドレスをまとっているのだろう? そしてどうして、王城に置き去りにしたのだろう?」


虐待された子どもが高貴な装いで王城に現れたという状況に、得体の知れない違和感に襲われる。しかし、それは、少女の純粋な瞳と、怯えきった幼い仕草の前では、すぐに霧散していった。


少女との意思疎通は難しいかった。


彼女は常に、くたびれてはいるものの、丁寧に繕われた耳の長いウサギのぬいぐるみを胸に抱きしめ、片時も手放そうとしなかった。その白い毛並みは所々薄汚れ、片方の目はボタンが取れてしまっていたが、ミカにとってはかけがえのない存在なのだろう。


聞かれたことには返答するが、自分からは何も話さない。分かったのは、少女の名がミカということと、年令が五歳ということ。


父の名を聞けば身体を震わせ、どこから来たのかを聞けば、この国にない地名を答える。また、答えも何を伝えたいのか、意味が分からない言葉も多かった。


ぬいぐるみを離そうとしない、抱きしめる腕の力だけが、彼女の不安の大きさを物語っていた。




侍女の領分を越えて、レティシアは、親身になって少女に寄り添った。


「ミカ、その部屋着、とても似合ってるわ。あなたの髪の色と瞳の色に、本当にぴったりよ」


レティシアは、そう言って微笑んだ。彼女の手にあったのは、淡いピンク色の、柔らかな生地で仕立てられた部屋着。それはレティシアが心を込めて選んだものだった。

初めて王城に来た時、ミカが身につけていたのは、豪華なドレスだった。だが、レティシアは、ミカの幼い体には、もっと温かくて優しいものが相応しいと感じていたのだ。


ミカは、差し出された部屋着を、戸惑いがちに、しかし好奇心に満ちた瞳で見つめた。それまで、ミカが着るものといえば、擦り切れた古着か、父や女が適当に買い与えた、サイズの合わない服ばかりだった。こんなに可愛らしく、そして肌触りの良い服は、初めてだ。


「これ、わたしが着るの……?」


ミカが小さな声で尋ねると、レティシアは優しく頷いた。


「ええ、もちろんよ。さあ、一緒に着替えてみましょうか」


レティシアは、ゆっくりとミカの隣に膝をつき、慣れない手つきでボタンを外そうとするミカの手をそっと取った。そして、ゆっくりと、まるで精巧なガラス細工を扱うかのように丁寧に、ミカの着替えを手伝った。


ミカの細い腕や足に触れるたびに、レティシアの胸は締め付けられるような痛みに襲われた。幼い体に刻まれた、いくつもの生々しい傷跡。栄養失調で驚くほど細い手足。

それでも、レティシアは顔色一つ変えず、ただ優しく、温かい言葉をかけ続けた。


「ふふ、よくお似合いね、ミカ。まるで、おとぎ話のお姫様のようだわ」


ミカは、レティシアの言葉に、鏡に映る自分を見上げた。確かに、見慣れないほどに可愛らしい自分がそこにいた。ほんのり頬が赤くなり、ミカは小さく笑った。レティシアは、その小さな笑顔に、この子の心に温かい光を灯してあげたい、と改めて強く願った。


食卓でのことだった。


王宮での食事は、ミカにとって初めての経験ばかりだった。美しく盛り付けられた料理、銀のカトラリー。特にフォークとナイフの使い方は、ミカにとって大きな壁だった。何度教えても、うまく持てずに落としてしまう。カチャリ、とナイフが皿に当たる音が、静かな食堂に響くたびに、ミカの肩はびくりと震えた。


「ミカ、どうしたの?  大丈夫よ、ゆっくりでいいわ。私が教えてあげるから」


ミカがフォークを落としてしまった時、レティシアはすぐに駆け寄った。その声には、苛立ちの影など微塵もない。むしろ、温かさと、深い慈しみが宿っていた。レティシアは、ミカの小さな顔を覗き込み、その瞳に、かつて見た恐怖の色が浮かんでいるのを見て、胸が締め付けられる思いだった。きっと、何かをこぼしたり、うまくできないたびに、激しく叱られていたのだろう。


「ほら、こうよ。親指と人差し指で、こうやってしっかり持つと、安定するわ」


レティシアは、ミカの手からフォークを取り上げ、そっと自分の手で握らせ、使い方を丁寧に教えてくれた。彼女の指がミカの指に触れると、ミカは一瞬、硬く身をこわばらせたが、レティシアの優しい眼差しに、やがて力を抜いた。


「ね、できたわ。次は、この小さなお芋を食べてみましょうか」


レティシアは、優しく促した。ミカはレティシアを見上げ、レティシアの顔に、叱責や怒りの感情が一切ないことに気づいた。そして、レティシアの言う通りにフォークとナイフを動かし、小さなお芋を食べることができた時、ミカの顔に、とびきりの笑顔が花開いた。


「ありがとう、おねえちゃん!」


その屈託のない笑顔に、レティシアは思わずミカを抱きしめたくなった。貴族の令嬢としては、その5才という年齢を考えても、フォークとナイフの使い方も知らないというのは異例のことだったが、レティシアはミカの純粋さに、かえって心惹かれていた。この子が、ありのままの自分でいられる場所を、きっと見つけよう。レティシアは、強くそう願った。


そして騎士アルヴィス。彼は、ミカのどんな突飛な行動も、全て好ましく受け止めた。


ある日の午後、庭園を散歩していた時のことだ。ミカは、池で泳ぐ錦鯉に向かって大きな声で話しかけ始めた。


「さかなさん、さかなさん、こんにちは! ミミちゃんも一緒だよ! きれいだね!」


アルヴィスはただ優しく微笑んだ。


「ミカは、魚と話せるのかい? 素晴らしいね。彼らはきっと、君の声に耳を傾けているよ。君の純粋な心に、惹かれているんだ」


アルヴィスは、ミカに付き添い、庭の隅々まで散歩し、この世界の美しい自然や、古くから伝わるおとぎ話を聞かせた。彼の声は穏やかで、ミカを包み込むようだった。


またある日、アルヴィスはミカを連れて、王宮の裏庭にある小さな温室を訪れた。そこは、普段は立ち入らない、色とりどりの珍しい花々が咲き誇る秘密の場所だった。ミカは、その美しさに目を奪われ、無邪気に目を輝かせた。


「ミカ、綺麗だね。この花はね、夜になると光るんだ」


アルヴィスはミカの隣に膝をつき、花を手に取り、優しく語りかけた。ミカは、アルヴィスの手の中の花に、そっと自分の小さな手を伸ばそうとした。

その瞬間、ミカの小さな体がビクッと震え、瞳に恐怖の色が浮かんだ。ミカは咄嗟に、触れようとした手を引っ込めた。


アルヴィスは、その反応に胸を締め付けられた。王宮医の報告が脳裏をよぎる。

ミカの体に残された、いくつもの痣や古傷。その小さな体が、どれほどの痛みに耐えてきたのか。大人の手が、どれほど彼女を傷つけてきたのか。


アルヴィスの胸に、深い悲しみと、静かな怒りがこみ上げた。


「ごめん、ミカ。怖がらせてしまったね」


アルヴィスは、ゆっくりと手を引き、ミカに無理に触れようとはしなかった。代わりに、少し離れた場所に座り直し、穏やかな声で語りかけた。


「ミカ……君は、これまで、とてもつらい思いをしてきたんだね。僕の手に触れるのが、怖いんだな」


ミカは、アルヴィスの言葉の意味が理解できないのか、きょとんとした顔で彼を見上げた。その幼い瞳には、まだ過去の影が色濃く残っている。アルヴィスの心は、その瞳の奥に隠された痛みに、深く心を痛めた。


「もう、二度と君が傷つくことはない。僕が、君を守るから。どんな時も、君の隣にいると誓おう」


アルヴィスは、ミカの瞳をまっすぐに見つめ、偽りのない感情を言葉にした。彼の声は、強く、しかし優しかった。ミカは、アルヴィスの言葉に、少しだけ瞳を潤ませた。


「あのね……あったかいの」


ミカの小さな声が、温室に響いた。それは、アルヴィスの言葉が、彼女の凍てついた心に届いた証だった。


その言葉を聞いた瞬間、アルヴィスの心は強く震えた。この小さな子が、どれほど温かさを求めていたのか。どれほど、誰かに守られることを願っていたのか。


ミカは、ゆっくりとアルヴィスに身を寄せると、彼の服の裾を、ぎゅっと掴んだ。それは、ミカがアルヴィスに心を開き始めた、小さな、しかし確かな一歩だった。


アルヴィスは、この純粋な魂を、何があっても守り抜こうと、改めて心に誓った。




王宮にミカが保護されてから数日が経った。日中、ミカがレティシアと共に部屋で穏やかに過ごしている間も、騎士アルヴィスは、王宮の執務室で重苦しい面持ちで腕を組んでいた。

彼の脳裏には、未だに怯えた様子のミカの姿と、王宮医から報告された虐待の痕跡が焼き付いて離れない。どうすれば、この小さな子の心を癒やせるのか。どうすれば、過去の影から解放してあげられるのか。


「アルヴィス様、少しよろしいでしょうか」


扉をノックしたのは、妻である侍女レティシアだった。彼女の顔にも、ミカを案じる深い憂いが浮かんでいる。レティシアは、アルヴィスの向かいのソファに腰を下ろすと、小さくため息をついた。


「ミカは、やはり大人に怯えるようです。今日、私が髪を梳かしてあげようとしたら、一瞬、ビクッと身をこわばらせて……。無理に触れると、またあの恐怖の表情を浮かべてしまうのではないかと、心配でなりません。

それに、ミミちゃんと呼ぶぬいぐるみを片時も手放そうとしないのです。寝る時も、食事の時も、常に抱きしめていて、離れると不安そうな顔をするの」


レティシアの言葉に、アルヴィスは深く頷いた。彼自身も、温室での出来事を思い出し、胸が締め付けられる。


「私もだ。手を差し伸べようとしたら、まるで蛇に睨まれたかのように怯えていた。あの小さな体で、どれほどの苦痛に耐えてきたのか……考えるだけで、心が張り裂けそうだ。ミミちゃんは、きっとミカにとって、唯一の心の拠り所だったのだろう」


アルヴィスは拳を握りしめた。その怒りは、ミカを傷つけた見知らぬ者たちに向けられている。


「ええ。ですが、少しずつですが、ミカは心を開き始めています。私が抱きしめてあげると、最初は戸惑っていましたが、今では自分から服を掴んでくれることもあります。

ミミちゃんを抱きしめながらですが、私の話に耳を傾けてくれるようになりました」


レティシアの言葉に、アルヴィスの表情がわずかに和らいだ。希望の光が見えた気がした。


「そうか……君には感謝しかない、レティシア。君の優しさが、ミカの心を溶かしているのだな」


「いいえ、私もただ、ミカを幸せにしてあげたいだけです。ですが……国王陛下と王妃様には、どのように報告すればよろしいでしょうか。ミカが高価なドレスをまとっていたことと、その体に虐待の痕跡があることの関係が分かりません」


レティシアの問いに、アルヴィスは眉根を寄せた。それは、国王夫妻も抱いているであろう最大の疑問だった。


「正直に報告しよう。そして、我々の推測も伝える。おそらく、ミカは単なる貴族の子女ではない。もしかしたら、この国に存在しない場所から来たのかもしれない。あの光も……」


アルヴィスは、王都を包んだ謎の白い光を思い出した。それは、ミカが発見された時と同時刻に現れた現象だった。


「ええ、私もそう思います。ただ、今は何よりもミカの心のケアを最優先すべきでしょう。無理に過去を問いただすのは、かえって逆効果になるかと」


レティシアの意見に、アルヴィスも同意した。


「その通りだ。まずは、ミカに安心と安全を与え、心から笑える日々を取り戻してやることが先決だ」


アルヴィスは、ふと何かを思いついたように、顔を上げた。


「レティシア、ミカと同年代の子と交流させてみてはどうだろうか。もし、大人に怯えるのだとしたら、同年代の子供なら、もう少し心を開きやすいかもしれない」


レティシアも、その提案に目を輝かせた。


「ええ、素晴らしいお考えですわ、アルヴィス様! それならば……リアム殿下はいかがでしょう? ミカと歳も近く、殿下はとても無邪気で、誰にでも分け隔てなく接してくださいます」


リアムは、国王夫妻の第四王子であり、ミカと同じくらいの歳だった。


「リアム殿下か。確かに、あの子の屈託のない笑顔は、ミカの心を解き放ってくれるかもしれない。国王陛下と王妃様にご相談してみよう」


夫婦は、ミカのために何ができるか、夜遅くまで語り合った。温かい食事、清潔な衣服、そして何よりも、途切れることのない愛情。これまでのミカが経験したことのない、当たり前の「家族」の温かさを、与え続けようと心に誓った。


翌日、アルヴィスとレティシアは、国王と王妃に謁見した。緊張した面持ちの二人を前に、国王は神妙な顔つきでミカの容態を尋ねた。


「ミカの容態はどうか。そして、あの光と、その身につけていたドレスについて、何か分かったことはあるか?」


アルヴィスは、深く頭を下げ、昨晩レティシアと話し合った内容を、一つずつ丁寧に報告した。ミカの体に残された虐待の痕跡、大人への怯え、そして王宮医の所見。そして、ミカが話す、この国にない地名のこと。


「……現状、ミカ嬢がどこから来たのか、なぜそのような高価なドレスを身につけていたのかは不明でございます。ただ、その幼い体には、見るに堪えないほどの傷が残されており、心に深い傷を負っていることは明白でございます。

 特に、大人、とりわけ男性に対して、強い恐怖心を抱いていると推測されます。

 また、ミミちゃんと呼ぶウサギのぬいぐるみを常に抱きしめ、片時も手放そうとせず、それが唯一の心の支えとなっているようです」


アルヴィスの言葉に、王妃の顔が悲しみに歪んだ。国王もまた、眉間に深い皺を刻んだ。


「そうか……あの小さな子が、そのような苦しみを……」


王妃は、目を潤ませながら、レティシアに視線を向けた。


「レティシア、ミカは、私たちに心を開いてくれるだろうか?」


レティシアは、ミカの言葉の断片を、正直に伝えた。


「はい、王妃様。ミカは、食事の際にフォークをうまく使えず、私が教えようとすると、まるで叱られるかのように身をこわばらせました。その際も、ミミちゃんをぎゅっと抱きしめておりました。

 それでも、私に屈託のない笑顔を見せてくれることもございます。過去の経験から、愛情を受けることに戸惑いがあるようですが、少しずつ心を開き始めていると感じております」


王妃は、レティシアの言葉に静かに頷いた。


「そうか……辛い経験をしてきたのだな。レティシア、お前は本当に優しい。その子が、少しでも心安らかに過ごせるよう、精一杯尽くしてやってくれ」


国王も、深く息をついた。そして、アルヴィスに尋ねた。


「アルヴィス、ミカ嬢とリアムを会わせてみたいのだが、どう思う?」


国王の言葉に、アルヴィスは驚きつつも、すぐに深く頭を下げた。


「国王陛下、私からもそのご提案を申し上げようといたしました。ミカ嬢は大人に怯える傾向がございますが、同年代の子供であれば、あるいは心を開きやすいかと。リアム殿下は無邪気で、誰にも臆することなく接してくださいますから、きっとミカ嬢も安心して交流できるかと存じます」


国王は、アルヴィスの言葉に満足そうに頷いた。


「うむ。では、まずはリアムとミカ嬢を会わせてみて、様子を見るように。無理強いはせず、あくまで二人の意思を尊重するのだ」


「承知いたしました、国王陛下。王妃様。必ずや、ミカ嬢が心穏やかに、笑顔で過ごせるよう、夫婦で力を尽くしてまいります」




ミカは、この王宮での日々が、これまでの人生とは全く違うことを肌で感じていた。かつては、食事のたびに飢えに苦しみ、水を飲むことでしか空腹をごまかせなかった。しかしここでは、毎日温かくて美味しい食事が用意され、食べたいだけ食べることができた。


ある日の夜、ミカは激しい悪夢にうなされていた。過去の虐待の記憶が、鮮明な映像となって彼女を襲う。父の怒鳴り声、女の冷たい視線、そして真冬のベランダでの凍えるような痛み。


「いやだ……やめて……!」


ミカの叫び声が、静かな廊下に響き渡った。その声を聞きつけたレティシアが、すぐにミカの部屋に駆け込んできた。レティシアは、顔を真っ青にして震えるミカを、迷うことなく抱きしめた。


「大丈夫よ、ミカ。怖い夢は、もう終わったわ。私がここにいるからね。あなたを傷つけるものは、ここには何もないわ」


レティシアの温かい腕が、ミカの小さな体を包み込む。その体温が、ミカの凍えた心にじんわりと染み渡る。レティシアの優しい声が、ミカの耳元で繰り返し囁かれる。


「ミカ。あなたは、もう一人じゃないわ」


「あったかい……」


ミカは、夢の中で願い続けた言葉が、今、現実のものとなっていることに、驚きと安堵を感じた。レティシアの胸に顔を埋め、ミカは初めて、自分からレティシアの服をぎゅっと掴んだ。かつては、悪夢にうなされても、誰も助けてはくれなかった。しかし、ここでは、いつでも誰かが傍にいてくれる。その事実が、ミカの心に深く安らぎを与えていた。


アルヴィスもまた、ミカの心の変化を感じ取れるようになった。最初は彼の存在に怯えていたミカが、少しずつ彼に近づこうとするようになったのだ。

食事の時、ミカはアルヴィスが座る席の近くを選び、庭を散歩する際には、自らアルヴィスの服の裾を掴むようになった。そして、絵本の読み聞かせをせがむ時、ミカはアルヴィスの隣にそっと座り、ミミちゃんを抱きながら、彼の声に耳を傾けるようになった。


一度、アルヴィスが読み聞かせの途中で、ミカのピンク色の髪に優しく触れた。ミカは、以前のように震えることなく、むしろ気持ちよさそうに目を閉じた。そして、小さな声で呟いた。


「あったかいね……」


その言葉は、アルヴィスの心を震わせた。ミカの心が、少しずつ開かれていることを実感した瞬間だった。


彼らの献身的な愛情は、ミカの心に、ゆっくりと、しかし確実に、温かい光を灯していった。お風呂に入れてもらい、泡いっぱいの湯船で遊ばせてもらい、髪を梳かしてもらい、そして、ただ隣に座ってくれるだけの、何気ない時間。その全てが、ミカの乾いた心に、温かい水が染み渡るように満たされていった。ミカは、初めて「愛される」という感覚を、全身で感じていた。




またある日、王宮の庭で遊んでいたミカは、同じくらいの歳の男の子に出会った。その子は、真っ白な髪に、まるで空の色を映したような青い瞳をしていた。


「ねえ、きみ、だれ?」


男の子は、ミカにまっすぐに尋ねた。ミカは少し戸惑ったが、すぐにミミちゃんをぎゅっと抱きしめ、おずおずと答えた。


「ミカ……です」


「ぼくはリアム! 第四王子だよ! 何処から来たの?」


リアムは、無邪気な笑顔でミカの手を引いた。その小さな手は、温かくて、ミカの心を溶かしていくようだった。


「ねえ、ミカ、これ見て!」


リアムは、庭の隅に隠していた秘密の場所へとミカを案内した。そこには、小さな石ころや、色とりどりの落ち葉、そして拾い集められた鳥の羽が、宝物のように並べられていた。リアムは、ひとつひとつをミカに見せながら、それぞれの石ころにまつわる物語を語って聞かせた。


「この石はね、お星さまが落ちてきたんだって! だからキラキラしてるの!」


リアムの語りは、幼いながらも想像力豊かで、ミカは目を輝かせながら耳を傾けた。そして、ミカも、ミミちゃんに話しかけるように、リアムに語りかけるようになった。


「ミミちゃんも、これ、きれいって言ってる!」


リアムは、ミミちゃんを不思議そうに見て、ミカの言葉に頷いた。


「そっか! ミミちゃんも嬉しいね!」


その日から、ミカとリアムは、毎日庭で遊ぶようになった。リアムは、ミカがまだうまく話せない言葉も、辛抱強く耳を傾け、時には身振り手振りでミカの伝えたいことを理解しようとした。ミカが水たまりで飛び跳ねて遊んだり、泥だらけになったりしても、リアムは笑って一緒に泥んこになった。そして、彼らが遊んでいる姿を、アルヴィスとレティシアは、温かい眼差しで見守っていた。リアムの無邪気さが、ミカの心の氷をゆっくりと溶かしているのを感じたのだ。


またある日の午後、アルヴィスとレティシアがミカの部屋を訪れた。ミカは珍しく、絵本ではなく、色鉛筆で紙に何かを描いていた。そこには、小さな校舎と、楽しそうに笑い合う子どもたちの姿が描かれていた。


「ミカ、これは?」


レティシアが優しく尋ねた。ミカは、少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。


「あのね、これ、学校……。私、学校に行ったことないの。だから、行ってみたいなって……。お友達も、作ってみたいの」


ミカの言葉に、アルヴィスとレティシアは顔を見合わせた。ミカが死の直前に口にした願い。それは、まさしくこの王宮で叶えられるべき「愛」の一つの形だった。


「わかったわ、ミカ。学校へ行きましょう」


レティシアがにこやかに答えた。


「えっ……? でも、私、マナーとか、お勉強とか……」


不安げにミカが尋ねる。


「大丈夫だよ、ミカ。心配いらない。君は、ありのままで素晴らしいんだ」


アルヴィスが、ミカの頭を優しく撫でた。


数日後、ミカはアルヴィスとレティシアに連れられて、王都にある貴族の子女が通う学園へ向かった。門をくぐると、広大な敷地に美しい校舎が建ち並び、多くの生徒たちが楽しそうに談笑している。ミカの瞳は、好奇心でいっぱいに輝いた。


「わあ……! すごい……!」


アルヴィスとレティシアは、ミカを伴って教室へと入った。すると、ざわついていた教室が一瞬にして静まり返った。多くの生徒たちが、見た目は麗しい少女だが、ミミちゃんを抱え、どこか幼い雰囲気のミカに、好奇の目を向けた。


「皆、紹介しよう。こちらは、このたび特別に我が学園に入学することになった、ミカ嬢だ」


アルヴィスが穏やかな声で紹介すると、生徒たちは困惑の表情を見せた。学園に入学するにしては、あまりにも幼すぎる少女。しかし、そこにレティシアが続いた。


「ミカは、少しだけ、人見知りなところがあるの。でも、とても心が優しい子よ。皆、仲良くしてあげてちょうだいね」


レティシアの言葉に、何人かの女子生徒が興味深そうにミカを見た。すると、一人の快活そうな少女が、ミカに駆け寄ってきた。彼女は侯爵令嬢のセシリアだった。


「あら、ミカ様! 私、セシリアと申しますわ。まぁ、可愛いぬいぐるみですこと! 私も、ちょっと前まで、よくぬいぐるみを抱きしめていたわ」


セシリアは、ミカの持っていたミミちゃんを見て目を輝かせた。その純粋な反応に、ミカは警戒心を少しだけ緩めた。


午後の実技の時間、ミカは魔法の授業に参加した。しかし、魔力をうまく制御できず、小さな火花しか出せない。周囲の生徒たちは、ミカのことを「頑張って」と応援した。その時、魔法の先生がミカの隣に立ち、優しく語りかけた。


「ミカ、焦らなくていいんだ。魔法は、心が大切なんだ。君の優しい心を、そのまま魔力に乗せてごらん」


先生の言葉に、ミカは彼の顔を見上げた。彼の瞳には、失敗を責める色など一切ない。むしろ、温かい励ましが宿っていた。ミカは深呼吸をし、先生の言葉を信じて、もう一度杖を構えた。そして、心の中で「あったかい」という気持ちを込めた。すると、小さな、しかし温かい光が、ミカの杖の先から放たれた。それは、他の生徒たちの派手な魔法とは全く違う、優しく、柔らかい光だった。


「わあ……!」


その光に、生徒たちは思わず見とれた。先生は、満足そうに頷いた。


「素晴らしいよ、ミカ。君の魔法は、君の心そのものだ」


昼食の時間、ミカは一人、窓際の席に座っていた。すると、セシリアが何人かの友人と一緒に、ミカの席にやってきた。


「ミカ様、もしよろしければ、私たちとご一緒しませんか? お一人では寂しいでしょう?」


セシリアの誘いに、ミカは戸惑った。今まで、友達と呼べる存在はいなかったからだ。しかし、彼女たちの笑顔は、とても温かかった。


「うん……!」


ミカは、小さな声で頷いた。その日から、ミカの周りには、セシリアをはじめとする友人たちが集まるようになった。彼らは、ミカの幼い言動や、時折見せる奇妙な行動を、誰一人として笑うことはなかった。むしろ、「ミカ様は純粋で可愛らしい方ね」「ミカ様の発想は面白いわ」と、その個性を愛おしんだ。


学園の男の子たちも、ミカの存在に注目し始めていた。ある日、図書館で本を読んでいたミカの隣に、高学年の、秀才と名高いエリオットが静かに座った。彼は普段、誰にも興味を示さないことで有名だったが、ミカが手にしていた絵本をちらりと見て、微かに口元を緩めた。


「その絵本、面白いかい?」


エリオットが声をかけると、ミカは驚いて顔を上げた。彼は普段、冷徹な雰囲気を纏っていたが、ミカの幼い瞳には、その奥に隠された優しさが見えたようだった。ミカは、絵本をエリオットに見せながら、興奮した様子で物語を語り始めた。彼は、その幼い語りに、ただ静かに耳を傾けていた。


また別の日には、運動が得意で、奔放な性格のレオナルドが、ミカの元にやってきた。彼はいつも、学園の女の子たちに囲まれていたが、ミカの前ではどこかぎこちない。


「おい、お前! 今日は何か面白いことあったか?」


レオナルドは、乱暴な言葉遣いをしながらも、ミカの周りをうろうろと徘徊した。ミカは、彼を怖がるどころか、彼の周りを飛び跳ねるようにして、今日の学園での出来事を話して聞かせた。レオナルドは、そんなミカの姿を、どこか照れたように見つめていた。


ミカは、まるで学園のアイドルになったかのように、低学年から高学年まで、多くの生徒たちに囲まれるようになった。彼女の周りには、いつも笑顔と優しい言葉が溢れていた。ミカの幼い言動は、彼らにとって、飾らない純粋さの象徴であり、それが彼らの心を惹きつける魅力となっていたのだ。


王宮に戻ると、ミカはアルヴィスとレティシアに、学園での出来事を興奮して語った。


「アルヴィス様! レティシアお姉様! 私、お友達がたくさんできたの! みんな、優しかったの! セシリア様も、エリオット様も、レオナルド様! みんなみんな、仲良くしてくれるの!」


ミカは、レティシアの胸に飛び込み、喜びを爆発させた。その満面の笑みに、アルヴィスとレティシアの心は、温かい光で満たされた。彼らは、ミカが「学校に行ってみたい」「友達を作りたい」という願いを、全身で叶えている姿を見ることができたのだ。




ミカが日々、新しい世界で喜びを吸収していく中でー。

ミミは静かに、自身の存在が希薄になっていくのを感じていた。ミミは、ミカの魂の叫びから生まれた存在だった。ミカが愛されたいと願う心が、ミミの存在を形作った。そして、ミカから愛されることで、ミミは心を持つ奇跡を得た。いわば、ミカの愛が、ミミのご飯なのだ。


ミカがアルヴィスやレティシア、国王や王妃、そして学園の友人たちに囲まれるほど、ミカの心は満たされていく。それは、ミミが最も望んだことだった。だが、ミカが満たされるにつれ、ミミの存在は薄れていった。ミカがミミちゃんを抱きしめる時間は減り、話しかけることもなくなっていく。


ミミは、ミカの傍らで、彼女が笑顔で学園での出来事を語るのを聞いていた。


「ねぇ、レティシアお姉ちゃん、今日ね、セシリアがお花をくれたの! とっても綺麗なのよ!」


ミカはそう言って、ミミちゃんを振り返ることなく、レティシアに語り続ける。ミミは、そのミカの輝く瞳を見て、胸の奥が締め付けられるような痛みを感じた。喜びと、寂しさが入り混じった複雑な感情だった。それは、今までは、ミミの役割だったから。


夜、ミカがぐっすりと眠りについた後、ミミはベッドの隅で、ぼんやりと自分の手を見つめた。透明になりかけている、小さな手。このままでは、自分が消えてしまう。ミミは、ミカの唯一の理解者であり、心の支えだった。ミカの全てを受け止め、寄り添ってきた。


(このまま、消えてしまうのかな……。でも、ミカが幸せなら、それでいい……。ミカが、あの冷たいベランダで一人、震えていた時、ただ願ったのは、ミカの幸せだったから……)


ミミは、自問自答を繰り返した。ミカが今、この世界で得ることが出来た幸せを奪うことなど、ミミにはできない。たとえ自分が消え去ろうとも、たとえ自分が忘れ去られようとも、ミカが愛に満ちた日々を過ごせるのなら、それ以上の喜びはない。しかし、やはり、ミカの傍からいなくなるのは、寂しかった。


翌日、ミカが学園から戻り、部屋着に着替えると、ミミちゃんを抱きしめることはせず、そのまま部屋を飛び出し、今日の出来事をアルヴィスやレティシアに話しに行く。ミミは、朝から、ベッドの端に転がったままだった。


その夜、ミミは自分の存在が、ほとんど透明になりかけていることに気づいた。このままでは、朝には完全に消えてしまうかもしれない。ミミは、そっとミカの寝顔を見つめた。穏やかで、幸せそうな寝顔。


(ミカ……)


ミミは、消え入りそうな声で、ミカの名前を呼んだ。ミカは、寝返りを打つだけで、目を覚ますことはない。


ミミは知っていた。ミカが自分を忘れていくことは、自然なことなのだと。父と母のようなレティシアとアルヴィスができて、友達ができ、愛される喜びを知ったミカにとって、過去の辛い記憶と結びついたミミは、もう必要ないのかもしれない。


ミミの心に、わずかな後悔がよぎった。もっと、ミカの傍にいたかった。もっと、ミカの笑顔を見たかった。しかし、その願いは、ミカの幸せの前には、あまりにも小さく、そして儚いものだった。


ミミは、最後にミカに触れたかった。だから残りの力を振り絞って、ミカの額にそっと触れた。触れたはずなのに、まるで空気に触れるかのように、何の感触もない。


(ミカ……幸せに、なってね……。ずっと、ずっと、幸せに……)


ミミの体は、朝日に照らされて、ゆっくりと、しかし確実に、光の粒子となって消えていった。




ミミが消滅したその瞬間、王城を包んでいた柔らかな光が、一瞬にして揺らめいた。


王宮の人々の間に、微かなざわめきが起こる。


レティシアは、なぜか見慣れない小さな子供服が自分の引き出しにあることに首を傾げたが、すぐにその疑問は日々の忙しさに紛れていった。アルヴィスは、胸の奥に漠然とした喪失感に襲われたが、それが何に起因するのかは分からなかった。


リアム王子は、庭園で遊ぶ時、ふと何か大切なものを忘れているような気がして、空を見上げた。しかし、その答えは見つからない。


学園の生徒たちも、時折、誰かの温かい笑顔を思い出そうとするが、その顔は霞んで思い出せない。セシリアは、昼食の時間、誰かが足りない気がした。エリオットは図書館の片隅で、なぜか絵本を手にして、胸がざわつくような感覚を覚えた。レオナルドは、いつもより活気のない学園の廊下に、少しだけ退屈さを感じていた。


ミカという少女の存在は、彼らの記憶から、まるで最初からいなかったかのように、きれいに消え去った。王宮の文書から、ミカに関する記述が消え、庭の噴水から、ミカが話しかけた魚たちの記憶だけが抜け落ちた。


確かに存在したはずの、わずか数週間の出来事も、温かい思い出も、全てが曖昧な「違和感」として残るだけだった。


※※※


その頃、遠く離れた日本の、ひっそりとしたアパートの一室。


冷え切った真冬のベランダで、小さな少女が倒れていた。凍え切った体には、薄汚れた薄手の服しか身につけていない。顔色は青白く、唇は紫に変色していた。その小さな胸は、もう上下に動くことはない。


朝、隣人がふとベランダに出た時、そこに横たわる少女の姿を発見した。


「きゃあああああ!」


けたたましい悲鳴が、アパートの静寂を破った。すぐに警察と救急隊が駆けつけ、物々しい雰囲気に包まれる。少女の小さな遺体は、慎重に毛布で包まれ、救急隊員の手によって運び出されていく。


「……五歳くらいか? ひどいな」


「虐待の痕跡もある。すぐに捜査を開始だ」


警察官たちの声が、冷たい風に乗って響く。


ベランダの片隅には、少女が最後に抱きしめていたのであろう、耳の長いウサギのぬいぐるみが、泥と雪にまみれて、ただ転がっていた。


その目には、何も映っていなかった。


ベランダに降り積もる雪が、ぬいぐるみを優しく覆い隠していく。


雪は、まるでミミの存在を、この世界から完全に消し去ろうとしているかのようだった。




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