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監禁場所と誘拐犯と脱出RTA

 電子音、そして重い金属音。


 頭頂部のからひんやりと冷たい空気がにじり寄って来た。車の扉が開けられたらしい。さっきのは、停車してすぐの音と同じだった。あのときも扉が開けられたということを指しているはずだけれど、今回のようには寒くなかった。

 腕を引かれて体を起こされ、羽交い絞めの状態で車外に引きずり出された。急いで地面を見つけて両足を平面に乗せた。横になっている時間が長すぎたからか、おかえり重力って感じがする。


 直後、すぐに足元の重力が消えて腹部に圧迫を感じた。太い鉄棒で逆上がりをした瞬間の、その感覚が継続しながら、背に誰かの手が触れて支えられている。

 真面目なクラスメイトたちを逆恨みしながら数学の宿題を職員室へ提出しに行ったときに30冊前後あるノートを机へ落としたときのような音が響き、動き出した。


 方向はわからないが、移動中なのはわかる。等積変形するときの頂点の気分で後ろ歩きしているっぽい感覚。うん、リズムは徒歩だ、セグウェイとかスケボーではない。車移動が終わって歩いているなら、もうすぐ目的地もとい犯人のアジトに到着するのだろう。


 視界を塞がれていてもなんとなく周囲が暗いのはわかる。正確な経過時間はわからない。とはいえ、図書館を出た時点で18時を過ぎていたし、もうすっかり夜の時分だろう。

 実際、今は何時何分だろう。スマホ見れないのがもどかしい。

 さきほどから身体にまとわりつくのは冷気だ。5月も半ばなのに。夜だからか? 日中は晴れていたのに、あまりにも温度が下がるのが早い気がする。冷房ついてる? 外なのに? 正確な温度はわからないけれど、夏が近づくにつれて暖かくなってくる感覚は物心ついてからは認識できている。雨でも降らないかぎりこうも下がらないだろう。

 湿った雰囲気というか、朱寿の御令嬢らしい文学観いわく「雨降りの香り」もといペトリコールやゲオスミンは嗅ぎ取れない。わたしの嗅粘膜が仕事サボってるだけ? いや、さすがにそれくらいわかるよ。花粉症じゃないし。


 階段かな、歩調が遅くなって特有のリズムが腹部に伝わってくる。5段上ると、足元から温かい空気を感じた。すぐに体全体が包まれる。弱い風を感じ、直後、ふたつの別種の金属音が続いた。

 扉を閉めたらしい。さすが室内、温かい。

 しばらくそのまま平行移動すると、立ち止まった先で30度くらい右回転して、さらに体が傾いた。ジェットコースターが落ちる直前の、あの意味わからん角度に近い。拘束が邪魔すぎて何もできない……のが、幸いしたかもしれない。椅子に降ろされただけだった。


 先に何か言えよ。黙ってるけど起きてるっての。


 椅子に体を預けてため息をついた。布手袋が背後で何かしていると認識してすぐ、ジジジ音とともに手首が椅子の背に引き寄せられた。手足の拘束時に聞こえた音と同じだから、結束バンドで椅子と手首の拘束を固定されたのだろう。手首の結束バンドを2連にしたほうが椅子の背と拘束がより近接して結局は腕の可動域が狭くなる。これを見越してたのかな、計画的で何より。


 顔に巻かれていたタオルがふたつとも外される。急に視界が明るくなって、眩しかった。悪あがきで体を縮こまらせて影を得る。瞬きするたびに白さが和らいでいった。


「やあ、お嬢さん。手荒な方法で悪いね」


 用意していた言葉らしく、鷹揚とした口調だ。この声は、車内で聞いたものと似ていた。同じ人物から発された声にも思えるが、若干高く聞こえた。目隠しのせいで耳もタオルに覆われていたからか? いずれにしろすぐに別人だと疑うほどの差異ではないか。足音に視線が誘導される。背後から右側へと歩いて行く相手の足元が見えた。黒いスニーカーに濃紺のジーンズ。過剰に怯えているようには見えないよう、相手を刺激しないよう、ゆっくり顔を上げた。


 足音は止まっていた。そっと様子を伺うと、締めきったカーテン脇の階段を背にしてスマホをいじりはじめていた。20歳前後の、若い男性だ。駿太朗と同じくらいの身長だが、彼よりも肩幅はある。ピカピカの高校1年生と比較してそうなら、この人はきっと成長期は経たんだろうね。黒い帽子を浅く被っていて、これに加えてサングラスとマスクをつけていたら小学生が習う不審者像そのものだ。


 図書館近くのときは顔全体を覆う白い仮面をつけていたのだろうけれど、今は少しも隠すつもりが無いらしい。おかげで、数少ない知り合いを思い出しながらじっくり似ている顔を探せた。特徴が無いわけではないし、覚えにくい顔立ちとも言えない。癖毛の短髪から見える耳は、別にね、うん。福耳とか餃子耳とかになっててよ、こっちはそんなに種類知らないんだからさ。もー……とりあえず、見覚えは無さそうか。駿太朗とは体格とか髪質とか似てるといわれれば似てるけど、顔は雰囲気すら全然違う。

 じゃあ知らない人だ。

 犯人像の推定は外れた。少数派の、知らないほうの誘拐犯らしい。


 あれ、もうひとりは? わたしが車に乗せられてすぐに車が発進したから少なくとも誘拐犯はふたりいるはず。この男性と、おそらく女性。

 どこかで降りた? それなら、タイミングは……10分くらい停車した、あのときだけじゃあないかな。信号待ちっぽいのはいくつかあったけれど、つまりそれは近くに歩道があるということ。車を降りるとき、必ず扉を開閉する必要があるから車内を見られる可能性が捨てきれない。ってか、そもそも車の扉の開閉を聞いたのは3回だけ。車に連れこまれるときに1回、その10分のときに2回。前者は自明、後者はわたしに水分補給させるための往復分のためだろう。

 じゃあ、もうひとりは、いつ、どこに消えた?

 直後、左背後から金属音が聞こえて咄嗟に顔ごと視線が向いた。扉が開けられた音だった。サングラス越しに目が合ったとわかった。


 もうおひとり、普通にいらっしゃった。黒パーカーに濃紺ジーンズ、サングラスとマスク。しっかりと不審者だ。体格を見るに、パーカーがオーバーサイズでわかりにくいが、女性だ。うん、ちゃんといらっしゃった。駆け足で背後を通り過ぎる。その手には、わたしの鞄があった。


 男性は声も顔も出しているのに、女性は体格すらも隠そうとしている……解放か、殺害か……彼らはどちらを選択するだろう。 なるべく自分を見せようとしない女性はともかく、声も顔も隠さない男性のほうは何をするか判然としない。目的が果たされるなら殺害をも厭わないかもしれない。もちろん、断言はできない。しかし違うとも言い切れない。

 車内での底知れない目を思い出して足先から頭頂部に向かってぶるりと震えた。

 改めて、これは誘拐事件だと認識しなおした。車内ではさんざん時間をかけてどうすべきか考えなければならないと自覚する。犯人の動機や目的が不明瞭な段階では可能なかぎり早期に状況を改善すること、ひいては、犯人の監視下から逃れることこそ生存を保証する唯一の道……できるだけ早く脱出しなければならないと信じる。


 ゆえに、わたしがすべきは、脱出RTAである。


 そのために、まずは敵を――犯人たちの言動、この建物の構造など――必要な情報を集めねばならない。幸運の女神には前髪しかないけれど準備不足が許されるわけではない。髪の毛掴まれたら普通は抵抗する。人間っぽさで有名なギリシャ神話の住民なんだからきっとそうする。

 さて。この場において、ほとんどの情報を握っているのは犯人だ。

 最優先課題は、彼らから情報を引き出すこと。それはわかりきっている。けど未だこちらから犯人に接触を図る気にはなれない。急がば回れっていうし、まずはできるところから。


 かなり閑静な場所に建てられた建物らしい。口を塞いでいたタオルもはずしたということは、騒がれたときのリスクを気にしなかったということか。じゃあ、ここアネクメーネ? いや、わたしもこの人たちも生きてるわ。ノンだよ、ノン。ノンアネクメーネ。ただ、周辺に建物が無い地域かもしれない。しばらく車で移動したから可能性はあるのではなかろうか。自宅周辺の地理さえ危ういから予想は「日本国内」にしておこう。

 広さといえば、この部屋はどれくらいだろう? そういえば室内が未観察だった。


 よし、今やろう。

 わたしが座っている椅子は部屋の中央付近、パノプティコン反転バージョンかな。周囲を見渡して、この部屋の広さの目算を試みた。が、普段やらないから要領がわからない。とりあえず長方形で、学校の教室よりは広い気がする。今重要なのは数字よりも内容とか家具の配置とか、そっちだ。そっちならできる。建物自体は2階建て、吹き抜けになっていて視線を上げれば柵越しに扉がふたつ見える。階段は右側から……17段、その先は狭い廊下になってる。それなりの高さの木製の柵のおかげで廊下が狭くても安全性は保障されるのかな。2階から細めの柱が、わたしの目の前と吹き抜けの左端のほうに刺さっている。1階では、その間にも扉がひとつある。背後はほとんど黒いカーテンに覆われていて、若干の冷気も感じるからかなり大きな窓があるんだろう。その右側には階段、左側には扉。男性はあいかわらず階段を背にスマホをいじっていて、女性のほうはその隣のソファーにわたしの鞄を乗せて、中身をひとつずつ出していた。


 高校生の財布に高望みしてるのか? 無駄だぜ?


 相応に計画的犯行だろうからその程度のこと知ってるんだろうけど。それとも、何か探してるのかな? だとしてもさ。入れてるのは、教科書、ノート、iPad、本、財布、定期、ポーチ、あとは筆箱くらいでしょ? 無いよ? ほんとに、何にも。朱寿ならよくわからないものたくさん入れてるからおもしろいのに。ルービックキューブだって、今週の月曜日に急に持ってきて「トップ総取りサバイバル! ちなみに、最下位は人権無し」と言いだしたときは「世の争いってこうやって起きるんだね」って返しちゃったよね。ところで、なんでこれ思い出したんだろうね? 朱寿のバグった発想は他にもたくさん……ああ、今ここでは人権無くすわけにいかないからか。


 そうだ。誘拐されたと実感しているのに、思考ではわかっているのに、どうしても本質的には死とは結びついていない。だからこそ、犯人たちにまで同じような感覚でいられたらたまらない。相手は人間で、殺したら死ぬんだと忘れさせてはいけない。


 犯人の男女、人質のわたし……ここにいるのは計3人。


 連れこまれてすぐに車は走り出したから複数犯なのは間違いない。あのときは車内を観察できるほど余裕はなかったから人数は断定できないけれど、ここにいるのがふたりだけなら実行犯はふたりだと仮定して問題無いと思う。実行役が男性、運転役が女性。

 実行役=男性=A

 運転役=女性=B

 うん、このほうが考えるの楽だ。女性、男性って、いちいちめんどくさい。


 この建物の部屋は少なくとも扉の数くらいあるんだろうけど、わざわざわたしから姿を隠したいならそもそも目隠しを外さなければよかっただけだ。外したのは、外すべきだったというよりもどっちでも良かったからなんとなく外したというほうが意味合いは強いだろう。

 仮にこのふたりを操る黒幕がいるとしても、ここにいなければ直接手を下せない。

 存在しないものにおびえるのはさすがにバカ。可能性を考慮しつつ、目の前にあるものを相手として考察を進めれば良い。

 あくまでも脱出のためにわたしが気をつけるべきなのは、今ここにいるふたりの言動や動機、それからこの建物の所在や構造だ。だいぶ興奮と緊張が安定してきたおかげで思考も落ち着いてできるようになっている。怖くない……のは嘘だけど、大丈夫。問題ない。

 これらを前提として計画を練ろう。


 SNSに満足いったのか、Aがソファーに腰かけた。「さて、と」つぶやきながら両足に肘を乗せると前屈みの体勢になった。口角を上げてみせると、


「疲れてるとこ悪いけどさ、名前、教えてくれる?」


「羽熊です」


「ああ、それは知ってる。間違えた、名前の由来」


 由来? 1/2成人式でも扱わないよ、そんな質問。


 この奇妙な質問の出所はどこだろう。名前は知っている、由来を知りたいなら……さっき車内で考えた、奇特な名前ゆえの誘拐説が的中した?……そんなふざけた話あってたまるか。却下だ、却下。頼むから他の案を採用させてくれ。

 名前を知るタイミングは限られている……同じイベントに参加したとき、何らかのメディアに本名で取り上げられたとき、犯人とわたしの共通する交友関係があるか、SNSアカウントの文字列か……これくらいかな。まず、前者ふたつは除ける。経験無いから。基本的に名字呼びだし。唯一の名前呼びをしてる翼沙とはまだ一緒に出かけたことない。本名が晒されるのはテスト結果が廊下に掲示されたときだけ。あくまでも校内の扱いだ。わざわざ校外で名前を出されるほど交友関係広くないし仲良くないのは自覚してる。ゆえに、外部の人間がわたしの名前を知る由は無い。


 したがって精査すべき可能性は後者ふたつ……犯人とわたしの共通する交友関係があるか、SNSアカウントの文字列か……いずれにせよ、計画立案の段階で把握は可能。やはり人違いや気まぐれの線は完全に消える。

 交友関係については、本当に、ね。あの5人ですよ。豊永先生、朱寿、駿太朗、翼沙、一葵。さっきも考えたけれどやっぱり恨まれるほどの心当たりはない。

 塾には5分くらい遅刻したことは何度かあるけれど豊永先生は聖女だから、まず心配が先行する。そういう性格だから同僚にも頼られやすいんだと思う。

 朱寿たちについては、わたしが何かやらかしてたとしても自販機の飲み物とかコンビニのお菓子を捧げて謝ればチャラにできる程度のものばかり。

 学校のほかの人とは話したことはあるけれど、それほど親しくしてない。話せるけど、別に友達ってほどではないくらいの関係性だと思う。帰宅部だから委員会くらいしか関わる機会がない。

 営利、政治、怨恨のいずれの動機を採用するのは不適だろうし、こんなことで犯罪に走るなんてことあるかい? 暇人過ぎでしょ。

 むろん、両親が関わってくるなら話は別。把握してるわけがない。わかるわけがない。無理。

 SNSアカウントのほうはhagumaやaluraだったりbearとかasterismとか入れてみたり、そういった文字列を入れているってだけ。時間をかければ名前の音なら推定できるかもしれない。

 やはり動機がわからないのがボトルネック。目的が掴めない。それに、今は穏やかだけれど、地雷を踏み抜……ああ、そうだ。なんか言わないと。忘れてた。反抗じゃないです、忘れてただけです。


「様式美ですか?」


「ん?」


「第三者が知り得ないことを聞いておくのって、生存確認のためでは?」


「だったら、君は怖がるべきだよね?」


「おっしゃるとおりですね」


 ふざけた受け答えも許容してくれる。この調子なら会話の中で情報を集めていける。背に腹は代えられない。引き際を見誤らないように、それだけは留意する。

 結局のところ、地雷か情報はトレードオフだ。お、これ二律背反だよね? 使いかたあってますよね? 面目躍如じゃん。やったねぇ。


「名字からシロクマになって、そこからおおぐま座になります。それで、おおぐま座を構成する星の固有名をとって、名前です。あ、名前はもう外国の方の当て字レベルの字面です」


「名字からシロクマって、何?」


「父へ連絡しているなら、それで通じるはずです。論理飛躍が大きすぎるの、そこなので」


 Aは体を起こして「飛躍ねえ」と独り言ちる。視線が右に流れ、それを追った。布張りソファーの上に、わたしの通学鞄の中身がすっかり引っ張りだされていた。その傍らにいたBが、慣れた手つきで生徒手帳をめくって内容を検める。彼女はAに向かって、ひとつ首肯した。


「羽に熊、有る流れ……羅生門だったかな。これで、羽熊有流羅?」Aは諳んじた。肯定すると「ハグマがシロクマって、どういうこと?」質問が重ねられる。これでSNSの可能性を除ける。漢字まで晒したことはない。つまり、間接的な交友関係の範囲に犯人はいる。ならば、きっと動機も近くに隠れているんだ。隠れているとは限らないか、見えてないだけかも。


 若干、視線は泳いだかもしれないが受け答えは意地を張って平然を見せた。


「音の共通点です。幕末の、倒幕の、新政府軍の指揮官が識別用でかぶっていた目印のひとつが白い熊と書いてハグマと言うんです」


「なるほど。羽から白の熊で、シロクマってわけだ」


「はい」


「それで? どうやったらシロクマがおおぐま座になる?」


「シロクマ。つまりホッキョクグマのことなんですけど、世界最大の熊でしょう?」


「世界最大、大きいってことか」


「はい、大きい熊なので、おおぐま座です」


「論理飛躍でいえばこっちもなかなかだな」


「知名度を考慮すれば許容範囲ですよ、名字からシロクマまでの道のりがムリゲーです」


「確かにな。指揮官判別の冠物だっけ? 初耳だよ」


「だから、交渉相手への生存確認を満たせます」


 この質問を電話口で思いついたのは、おそらく父だ。警察に通報していて体勢を整えた上で、連絡を待っているとしても。

 創作物でも誘拐事件が扱われることはよくある。それを参考にすると、生存確認のために犯人へ何らかの要求をするように入れ知恵する頭脳があっても、警察には誘拐被害者の名前の由来を聞く発想までは無いだろう。声を聞かせるよう要求したかもしれないが、そもそも犯人が応じる保証は無い。わたしのような人質を電話に出して余計なことを発言されては困るだろうし。

 交渉相手からの、本人しか知り得ない質問に対して人質に確認したうえで代理解答するほうが安全だ。実際、声を聞かせる要求に応じる気が無いからこそ父からの絶妙な質問の答えを用意することにしたんだろう。


「父親と母親、どっちが心配してると思う?」


「……わかりません。ちなみに、おおぐま座のニュー星とクシー星が、それぞれアルラ・ボレアリス、アルラ・アウストラリスって名前がつけられているんです」


「北と南ね。その共通部分から音をとって、漢字を当てた?」


「そういうことです」


「だいぶキラキラしてるね」


「……」


「嫌い?」


「いえ。可もなく不可もなく、です」


「誰がつけたの? 父親? 母親?」


「ふたりで考えたんじゃあないですか。そこまでは知りません」


 Aは「ふーん」と言いながらあくびをかみ殺した。再びスマホをいじる程度には緊張感が無いらしい。わたしも大概だけど。ゆっくり深呼吸しながら椅子に体を預けた。


 キラキラ。

 キラキラネームのことを指しているんだろうね。推量ですらないな、ほぼ確信か。一般的でも伝統的でもないことくらい、幼稚園児のころには気づいていた。自分の名前が奇特なことには気づいてもおかしいとは思っていなかったし嫌いになる要素すらわからなかった。自分の名前だし、両親が考えてくれたものだと感覚的にはわかっていた。このころは、名前を呼ばれるのが嬉しかった。

 小学1年生の、入学したばかりのころ。幼い子どもの無邪気さが残酷だと気づかされた。

 出る杭は打たれやすい。春のうちに学校に行くのは憂鬱になった。公園で隠れて時間の経過を待とうとしたこともあったし、教室ではなく保健室へ直行したこともあった。これを両親に言うのは負けた気がしたから避けていた。

 総合的に、当時、我慢はできたけれどそれなりに嫌だった。

 そうだ、誰だって嫌な環境に身を置き続けたいわけがない。今と同じ状況だ。


 依然としてAは穏やかな対応をしている。帽子はかぶっているけれど、それだけだ。髪型がわからなくても顔がわかってしまっている。向き合っていなくても、やはりその目には底知れない恐ろしさが宿っている気がする。わたしが余計なことをしなくても目的を果たせば……人質が不要になれば、きっと……可能性を捨てきるにはあまりにも切迫した内容であり慢心を呼びかねない。だったら、ずっと考慮しておいたほうが良い。


 あいかわらずBのほうはわたしに顔を見られないようにしている。覚えられたくないのだろう。事件化したとき、逮捕されないようにしたいのか? それとも、罪悪感? 後者だったら大歓迎だけど。懐柔できれば拘束を解いて逃がしてくれるかもしれないし。


 無理か、わたし人を懐柔できるほど心理とかワビサビとかわかんないし。まあ、そううまくはいかないよね、人生って。悲観するのも良くないし楽観するのも良くない。難しいね、人間って。


 ふたりはスマホのスクリーンを見せ合ったり文字を打ったりなど、双方か第三者か、何らかのやりとりしている。車内でもこうやってやり取りしてたのかな? いや、運転中は危ないね。違うか。

 ひとまず、わたしとの会話はオシマイらしい。


 今の会話を振り返っておこう。復習は覚えてるうちにってね。

 名前については、そう、わたしの交友関係から間接的にきいたのだろうと予想がついた。交友関係の狭さには自負がある。悲しいことにね。

 朱寿、駿太朗、翼沙、一葵、豊永先生。5人を疑いたくないからこそ車内で精査したけれど、結局、完全に候補から除外できるほどの成果は得られなかった。推理というには前提条件が曖昧だから断言は避けているだけかもしれないが、可能性は決して低くないのはわかってる。考えるのをやめるつもりは無い。いろいろ判明してから1回くらい殴らせてもらえればそれでいい。


 あとは、そうだね。Aは、わたしの父と母を気にしていた。いや、父のことを出したのはわたしだったけど、向こうは母をわざわざ話題に出した。母を気にしていたのだろうか。あるいは、過去に母に関わったことがある?……誘拐事件のほとんどは身内や知り合いの犯行。彼らの背後に……待って、飛躍しすぎ。営利、怨恨、政治ではないっていうのは満たす可能性があるけれど、それだけだ。


 なぜ今日あるいは自らが姿を消して9年後に決行するに至ったのか。別の問題が浮上する。彼らが母とつながりがあるとしても、背後にいるとは言い切れない。落ち着いて考えよう。まずは事実としてわかることから。

 よし。

 母はわたしが生まれる5年くらい前から失踪するまでの12年間、推理作家「(かずら)うらら」として活動していた。学生時代から横溝正史、松本清張の作品を好んでいたこともあり、作風も類似性が高かった。本格派や社会派と呼ばれるような、史実を基に作品を執筆することが多かった。わたしは当時を知らないが、ある事件を題材にした作品が犯人逮捕へ導いたことで地位を確固たるものにしたらしい。処女作からリアリティや社会性を武器にしていたとはいえ、それが決定的に一線を画する作品と出来事だったのは想像に易し……お? 犯人はふたりとも、そう、AもBも若い。Aは容姿や体格から考えておそらく20歳前後、Bの陶器のような手から推察するに彼女も同じくらいだろう。

 母が失踪したのは引っ越した直後、わたしが小学2年生になる前、7歳の誕生日から半年も経っていなかった。それが9年前。彼らもまだ義務教育を受けているころだったはず。少なくとも、当時、今のわたしよりも幼いくらいの年頃。

 それなら、いつ、なぜ、どのようにして母と知り合ったのだろうか?

 いや、考えるまでもない。母が子どもと関わるとしたら、それは事件関係者しかいない。取材の段階なら未成年者だろうと相手が拒否しなければ話を聞く機会を得られただろう。


 記憶の中の母は、ほとんど人生を創作に費やしていた。アナログノートに必要な情報と推理をまとめ終えると、あとは自らの執筆塔で創作に取り組んでいるイメージだ。わたしだけではなく、父すらも、その塔における執筆空間には入れなかった。残りのわずかな余裕は家族にも割いてくれていたのだろうけれど、優先順位では執筆が他の追随を許していなかった。失踪前も母は塔にこもる時間が長かった。そうだ、おそらく小説を書いていたんだ。作風から考えて、その小説も実際の事件をもとにした内容だった可能性はある。しかし、母が失踪してから出版された『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』は、架空のX県警が連続猟奇殺人犯を追い詰める話だ。母が参考にしたと思われる猟奇殺人は国内外で発生していないことは、中学に上がってから徹底的に調べて確認した。

 不意に。

 およそ12年の活動期間における藤うらら作品全6作を、脳内で列挙して内容を思い出した。


 


『瓦礫と真夜中の機織り機』

 山奥で孤独死した老人とその人間関係を調べ上げて殺人事件の可能性を同僚に示唆した記者が間もなくして事故死した。その直前に送られてきた機織り機の写真。同僚は友人の死を悼み、ひとり調べなおす。ついに機織り機にこめられた意図から真相にたどりつく。

 山形県で発生した連続殺人事件を参考に、独自の解釈がなされていたが冗長な箇所が散見。読みにくいところもあった。まあ、大学卒業から間もないし処女作だから及第点。


 


『ひとり、ウラルの道を歩まん』

 特殊設定ミステリ。通り魔に刺された女子高校生が、見ず知らずの地(異世界と仮定していた)にて洞察力や推理力を武器に活躍しながら元の世界に戻る方法を探る連作短編集だ。カスパー・ハウザーやジョン・ブラッドモアなど歴史の謎や未解決事件をいくつか取り上げつつ、本筋として異世界に引き寄せられた謎について紐解いていく。

 特に、当時、正確な考証とSF視点から推理を語るのが大衆小説として受け入れられたらしい。


 


『見知らぬ土地の街灯にて』

 ある男女の心中から4年後、事件そのものが忘れられたころ。執念でたったひとり調査を続けていた警察の情報屋が、馴染みの刑事の協力を得て過去を振りかえる構図だ。実際に神奈川県で発見されたある心中遺体から殺人の可能性を推察したらしく、その推理をそのまま探偵役に語らせた。詳細は知らないけれど、これが捜査本部へ届いたことを契機として犯人が逮捕された。ゆえに、本作が藤うららの推理小説家としての地位を確立した。また、この本の初版から3週間後にわたしが生まれた。


 


『カサブランカの最終定理』

 ある富豪によって建てられた白い邸宅・通称〝カサブランカ邸〟は、呪われている……連続殺人事件により関係者が死ぬたびに、庭の白いカサブランカに墨が掛けられ、黒い花として手向けられる。最終的には、第三者が断ち切らないかぎり復讐の連鎖は続けられる、みたいな感じ。九州の、どこだったか忘れたけど街ぐるみの殺人事件が題材。

 わ、すごいネタバレしてる。ヤバすぎ。いや、他の誰にもしてないな。大丈夫。


 


『夜空と秘宝と最善の悪手』

 チェス対戦用AIとの試合に臨む希代のグランドマスターが、会場となるホテルで服毒自殺した。その1週間後に開催されたチャリティイベントでは、件のAI開発の中心人物だったシステムエンジニアと、自殺したグランドマスターの姉が、同じ事故に巻きこまれてそれぞれ重傷を負った。海外の事件だったけれど、現役プレイヤーとAIの対戦は注目されていたから、日本でも広く報道されて騒がれた。事件の疑問点は解消されているけれど、一応、現実では未解決扱いされたまま。


 


『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』

 身体の一部が失われた遺体が連続して発見された事件について、殺人および死体損壊などの罪である医師が逮捕された。犯行方法や動機については丁寧に供述するが、奪った遺体の一部の在処は黙秘を続けた。事件から20年後、被害者のひとりの息子が、龍の声=ある手記を頼りに乙姫を探しはじめる。

 

 おもしろかったというか、まあ、おもしろかったけれど変だ。


 そうだ。


 最後の作品だけ、『青写真』だけは参考にしたと思われる事件が見当たらなかった。そもそも、医療関係者による猟奇連続殺人事件の数が多くない。海外のも探した。捕まったなら事件化されて記録されているはずだし、事件として扱われていなくても猟奇の牙にかかった遺体は目立つ。それがある地域に集中しているなら、存在する事案なら探せる……それでも見つからなかった。所詮はアマチュア学生だからわからなかったのだと思って、力をつけてから改めて挑戦しようと決めた。けれど、仮に、この作品だけ史実の事件を根底としていないのだとしたら? それは、なぜか……母の失踪と時期が重なるし、この作品が犯人の動機に関しても鍵を握るのならば……情報が足りない。


 こちらにもう少し主導権を分けてもらわないと。


 今のところわたしは、騒いでないし暴れてないし逆らっていない。おとなしくしている。

 相手を人間だと認識している限り乱雑な扱いをするには良心が邪魔をする。善意に悪意を返すのは難しい。返報性や性善説の存在がその証左だ。疑いすぎて視界を狭めるのは悪手、少しくらいなら気楽に。あからさまでなければきっとどうにかできる。

 よし、行こう。


「あの、おにいさん」


 呼びかけるとAは肩を震わせた。想定外の接触だったとしても、過剰な反応。あえて明言すれば動揺に見えた。おじさんと呼ばれなかっただけよかったと思ってほしいのだが?


「すみません、名前、存じ上げないので。ちょっといいですか?」


 Aはスマホをポケットに滑りこませると、目を合わせてくれた。

 さあ、犯人よ。抱け、罪悪感。寄越せ、情報。ついでに名乗れ。


「ここって、どこなんですか?」


「どこだと思う?」


「車、あまり乗らないので感覚はわかりませんが……」


 困った。

 朱寿の家に遊びに行ったときか、中学の修学旅行で乗ったバスくらいしか参考にならないんだなぁ。そのときは注意して距離とか時間とか考えて無いから正確な保証は無いし。もはや小学生のころ速さの計算問題を参考にしたほうが良いかもしれない。

 ああ、そうだよ、早さも時間もわからないのに距離なんか出せるわけない。途中で停車していた時間もあるんだから。

 いや、待て。わたしの感覚で計算する必要は無いんだ。

 わたしの知るかぎり車移動が多いのは朱寿だ。御令嬢っていったらあの子怒るけど、実際、姫だから。

 去年の母の日、朱寿はどこに行った? 何と愚痴っていたか……アジトだ、ムーミンのアジト! 埼玉県の、お寺とかあるところ。

 車で、1時間30分。確か、そう言っていた。朱寿の家は東京、わたしが車に乗せられたのも東京。埼玉県は東京都に隣接している。

 埼玉県は3800㎢くらい、東京は2200㎢くらいだったはず。


 60×60=3600

 61……いや、62でいこう。

 62×62=3844


 それと、うん、4.5=9/2使おう。それで、4.5の2乗が20.25だから……47?

 ってことは、47×47=2209かな。

 うわ、47って素数じゃん。計算やだな、正方形から長方形にしないといけないのに。まあ、いっか。あくまでも概算だし46にしよう。そしたら、


 前者を31×124

 後者を23×92

 それぞれを長方形と見立てて、短い辺同士が縦になるように重ねる。


 どんな道でも直線距離を進めるような交通網ではないから、まあ、朱寿の家からムーミンのアジトまでの移動距離はふたつ重ねた長方形における、縦の長さ~対角線の長さ、これに収まると仮定してみても大きな間違いではないだろう。

 埼玉と東京の位置関係的に逆鏡餅みたいになっているから、対角も何もあったもんじゃあないけど無視無視。


 縦が23+31=54

 横がぁ……23÷2=11.5……11.5だと? 四捨五入じゃい、12だよ、12!

 ってことで、62+12=74 かな。

 え、ルートの計算えぐくない?

 54×54+74×74の、平方根でしょ? マジっすか?

 でも、ここまで来たらもう戻れないよね、よし、やろう。

 引き算でなければ、足し算なら頑張れる。

 うん、50+4ならできそう。


 50×50+200×2+16=2716


 できたできた。

 こっちは、75から1引こう。


 25×3の2乗だから625×9=5625だね。

 んで、75×2を引いて、1を足すと……5476だ。

 そうなると、2716+5476=8192


 お?

 9×9って81だよね?

 9+9+9+9+9+9+9+9+9=81だよね? あってるよね?

 じゃあ、8192の平方根は90くらいだ。90になって欲しい。90にしよう……ってことは?


 1時間30分で移動できるのが54㎞~90㎞の範囲ってことだ。わたしの計算だと。

 で、どれくらい車で走っていたんだい?


「あの、今何時ですか?」


「ん? 23時くらい?」


 スマホの画面を確認すると、視線を戻された。わたしが図書館を出たのが18時15分くらいだったから、4時間45分のドライブだったわけだ。

 あ、でも、なんか20分……も経過してないか。10分くらいは停車していた時間があった。

 じゃあ、4時間30分の移動だね。うん。


 1時間30分=90分


 4時間30分=270分。


 お、3倍チャンス!

 じゃあ、誘拐ドライブで162㎞~270㎞を移動したってことにしよう。

 続いて、日本地図を思い浮かべる。


 最西端は東経122.55度の与那国島。最東端は東経153.59度の南鳥島。

 緯度は……覚えてる地名や名所が少ない。

 北緯40度が秋田の八郎潟。

 あとは……43度! あのコールドケースって舞台どこだった? 伏尾さん、どこ? 北海道なのはわかるけど、それだけじゃあ広すぎる! だめだ、わからん。


 中国の地理も、ちょっとなぁ。三国志ならわかるのに。ああ、近代も勉強しとけばよかった。そうすれば世界地図まで考えなくてよかったのに。

 ああ、グローバル……文句言ってられないか。よし、ヨーロッパかアメリカから逆輸入しよう。ミシガン湖とかでしょ? あとは、コルシカ島かな。


 ん? 北海道だったら、札幌辺りじゃね?


 40度が秋田、43度が札幌なら……――最西端も最東端も北緯は24度~25度か……まあ、それくらいだね。

 赤道がおよそ4万㎞だから経度1度につき111㎞。緯度を考慮して100㎞でいいや。

 与那国島と南鳥島の経度の差が31.04なら、およそ3000㎞の距離かな。

 じゃあ……ん? なんだっけ。ああ、そう。車で移動したのは162㎞~270㎞だ。

 3000㎞の……5.4%~9.0%だね。

 もうちょっと長いと思ってた。意外と短いねぇ。そうなると……


「関東は出たけれど、でも、そう遠くないくらい……ですか?」


「どうだろうね」


「……」


 は? 嘘でしょ、なんで聞き返したのこの人。え? え、ダル過ぎ。どこだと思うっつったじゃん。合ってるかどうかはともかく、近いかどうかくらい言ってよ。Oh,myブドウ糖!

 エネルギー無駄遣いしたわ。あー、無理。


 んー、時間はわかったからいいか。いや、誤認させようとしてる?

 とはいえ確認しようにも比較できる時計が無いんだよな。腹時計も睡魔時計も役立たない。腹時計の精度の低さは嗅覚と同レベルだし、23時が本当だとしたら睡魔時計狂いきってる。

 まったく眠くないのは交感神経とかアドレナリンが元気いっぱいだからだろうね。脱出前に軽く仮眠取りたいんだけどなぁ。

 やる気喪失していると、Bは歩み寄ってAに耳打ちする。何か話しているのはわかるが、内容までは聞き取れなかった。するとAは納得したように「あー」と零しながらわたしの目の前の扉から部屋を出た。

 どこ行ったんだろう?


 視界の端でBが立ち去ろうとした。


「あの、おねえさん」


 Aの反応とは異なり、Bはその場で立ち止まっただけ。振り向いてもくれない。終始、あまり関わろうとしてこない。

 あ。待って、何を話すか考えてなかった。そもそもBに言うことある? Aとの話はぜんぶ聞いてるじゃん。


「ありがとうございます」


 それでもBは立ち去らない。聞く意思くらいならあるらしい。

 それなら良かった。

 さーて、何のお礼ってことにしようかな。Bがわたしにしたこと、してくれたことは? 無さそ?

 ほとんどの世話担当がAだったからねー。あっ、


「あの、車で。お水。喉、乾いてたので」


 あれは女性の手だった。それなら、Aではない。Bだ。

 この推測は正確性にそれなりの自信があった。だいぶ落ち着いてからの出来事だったから。なにか反応してもらいたかったけど、Bはそのまま隣の部屋へ行ってしまった。少なくとも不快感は与えていないはず。お礼言われてイラっとするのは、煽られたときだけ。わたしは煽ってないから大丈夫。


 すれちがうようにAが同じ扉から戻ってきた。携えたコンビニの袋から、ソファーに商品が並べられる。メロンパン、サンドウィッチ、蒸しパン、スポーツ飲料、水。

 ココアも10秒チャージも無いんかい。売ってるでしょ、普通、どこにでも。


「どれがいい?」


「別に、どれでも」


「アレルギーは?」


「退屈アレルギーです」


「じゃあ問題ないね」


 そう言いながらAはメロンパンの袋を開けると、目の前に差し出してきた。わたしは肩をすくめるように腕を持ち上げようとしながら提案した。


「これ、外していただければ自分で食べます」


「誘拐されてる自覚、ある?」


「おとなしくしていれば危害は加えられないと伺ったので」


「必要以上のことはしてない」


「監視された状態で逃げようとするほど無謀ではありません」


「言うのは自由だな」


 おっしゃるとおり。

 実際、脱出RTA実行中だし、何も言い返せない。

 おとなしくメロンパンを頬張った。朱寿が好きそうな、しっとりタイプだった。今度、何かやらかしたときに捧げようかな。ローテーブルに置かれた袋にプリントされているのは、学校近くにもあるコンビニ名だった。

 ところで。

 メロンパン、サンドウィッチ、蒸しパン、スポーツ飲料、水……食べ合わせ考えてないでしょ、これ。生活する上で必要最低限の3つにも、人間の三大欲求にも数えられてるのに。食事ナメ過ぎ。

 ふと、水に視線が留まった。ペットボトル上部の、曲線部分の半ばまで水面が下がっている。


「車の中でくれた水って、あれですか?」


「うん。飲む?」


「いえ、聞いただけです」


 軽くかぶりを振ると、前髪の長さに気づいた。絶妙にウザい。帰ったら切る。首を振って目にかからないようにしてから再びメロンパンを頬張った。

 しばらくそれを繰り返して、認識を改めた。おしゃべりかと思ったけれど、Aは別に進んで会話をしたがっているわけではないらしい。Bがまったく話したがらないから、相対的に会話が多いだけだ。求める情報がなければ、わたしが話題を振らなければ、Aは話そうとしていない。

 何も音がなくなって、ひとりではないのにひとりでいるときみたいな感覚だった。でも、ひとりでいるときのようには落ち着けない。さっさと食べ終わって会話を再開したかった。


 不意に、寝起きの地を這うような音が聞こえてきた。


 音源は、Bが消えていった隣室からだ…… ― ― ― ……モールス信号の「レ」あるいは「O」のように、3回だけ繰り返された。バイブレーションの音か?

 すると、急に掛けられ始めたどこかの放送局のラジオが邪魔してBの声をかき消す。おかげで、その内容まではわからない。かかってきた電話に出たのはわかったが、それ以上はわからない。

 いや、誘拐犯は電話をかける側でしょ。私用の電話? 犯罪実行中に?

 そうなると、アラームのほうがあり得るか。わたしも図書館でそういう設定するし。

 となると、今、このタイミングが重要なのかな。Aが23時くらいだって教えてくれたばかりだし、覚えておけば警察に情報提供できる。仮に23時くらいでなくても、この状況に置かれてからの経過時間ならわかるから十分でしょ。とりあえず、不要不急かもしれないけど、正確な情報は多いほうが助かる……いや、早計だ。じゃあ、ラジオとわずかに聞こえてくるBの話し声は何だって疑問が生じるよね……覚えておくだけ覚えておこう。きっと考える時間はあるから。そのうち良い感じの解釈思いつくよ。たぶん。




 *******




 不変の真理見つけた……メロンパンにはココアが合う。というか、ココアが飲みたい……確信を得て食事を終えた。わたしが食事を終えるまでAは無言でメロンパンを持ち続けていた。

 不意にスマホをいじっていたAと視線がかち合った。「ずいぶん落ち着いているね」呆れるような、戸惑いにも近い口調だった。


「可愛げが無いんですよ。母にも、あいしたわ、って捨てられるくらいには」


「愛したわ?」


「過去形でしょう?」


 自嘲するように言った。

 実際、自分を嘲った。突然犯罪に巻きこまれた15歳の女の子らしく怖がったり泣いたりできない。

 もう少しくらい相応の言動ができれば、何かが違ったかもしれないのにね。

 途端にAの表情がこわばった。

 わたしの言葉か、スマホのスクリーンに映る内容か、どちらが原因かまでは判然としない。が、まあ、タイミングからして前者だろう。スマホは先ほどから時折いじっていたから。

 いつのまにか隣室から顔を覗かせていたBとうなづき合う。

 努めて表情を緩めるとAは「おやすみの時間にしよう」演技がかった様子で、立ち上がり言った。

 後ろに回りこむと、手首の拘束を椅子に固定していた結束バンドをハサミで切断した。腕を引かれて立ったが、また座るように促された。足首の拘束を切断、また腕を引かれ、今度は右へと歩き出す。階段を上っていく。それほど急ではない17段を上りきり、下階を拝んでみた。思ったよりも床が遠い。わずかに腰が引けるのを自覚した。ジェットコースターみたいに問答無用ならたぶん大丈夫な高さだけれど、バンジージャンプみたいに自分から行かなければならない状況ならキツい気がする。

 そうも言ってられない事態なら、飛び降りるのは可能ではあるだろう。ただ、この建物から脱出する直前に足を怪我して動けなくなるわけにはいかない。痛いし、連れ戻されかねない。スピードだけではなく安全も多少は考えないと脱出は成功しない。それを考えての2階移動か? 計画的で何より。


 いや、だったらなんで最初から2階へ連れてこなかったんだろう。人を担ぎながら階段上るの危ないからか? それなら今みたいに足の拘束だけ外して歩かせればいいじゃん。このタイミングじゃなくちゃいけなかったのかな。

 Aの表情がこわばった直後に?

 だったら、わたしの言葉じゃなくてスマホの内容が怪しい。

 ジャストタイミングだったんだろうね。

 見せてくれないかな? 無理だよね、知ってる。

 私の部屋の本棚が高さ180㎝だから、たぶん、それの半分くらいの高さの柵。それに守られた狭い廊下を進んだ、最も奥の部屋。1階で座っていたとき左側に位置していた柱の近くの部屋だ。一瞬だけ体を傾けて、柵の隙間からこのフロアと階下を繋ぐ柱との距離感を把握しておこうとした。あまり見えなかったけれど、思いっきりジャンプすれば届く気がした。

 失敗して怪我したらおとなしく諦めよう。


 直後、部屋に引き入れられた。放課後、翼沙についていった先で入れてもらった理科準備室くらいの広さだった。目の前には閉じられたカーテン、机と椅子の背後にはベッドが配置されていた。


 Aは机から椅子を抜き取ると、腕を引いてその前にわたしを誘導した。座るように促されて従うつもりだった。いまさら抵抗する気はなかった。

 なのにこの男、わざわざ椅子で膝カックンしてきやがった。高級レストランでウェイター修行してから出直してこい。バーカ。

 心の中で悪態をついていると、先ほど同様、手首の拘束と椅子が結束バンドで固定された。さらに、両足首も椅子の脚に結束バンドでそれぞれ固定される。面倒なことはせず、1本だけによる固定だ。


 拘束の具合を確認して満足したらしく、Aは出ていって扉を閉めた。

 扉のほんのわずかな隙間から光が入ってくるが、室内は暗闇に包まれていた。ジェットコースターに乗せられた恨みを晴らそうと朱寿を引きずりこんで泣かせたお化け屋敷よりも暗い。暗所恐怖症だったらイチコロだね。

 正直なところ、1階での逆パノプティコンより随分と心安らいだ。

 外の様子はあいかわらず見せてもらえないけど、ひとり経過時間だけちゃんとカウントを続けていれば問題ないだろう。暗いほうがほかの余計なものが見えないから集中を継続しやすいし、ずっと知らない人に見張られ続けているよりはこっちのほうが気持ちは軽くなる。


 ひとつ深呼吸をして思考を再開した。

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