誰が為の時間
何も会話が無いまま長野駅に到着した。上着を羽織って、在来線で移動する。行先は聞かず、案内に任せた。その道中、渡された本を読み終えた。
「どう?」
「え……面白かったと思うけど」
「そっか。今からね、それ書いたとこ行くよ」
「この話の舞台?」
「ううん、ママの執筆塔。つーかX県なんて存在しないよ? Xがつくの、テキサスくらいでしょ。お? イニシャルじゃないし、州じゃね?」
ひとりで勝手に納得しながら考え続ける。頭良い人は何を考えているのかわからない。髙橋くんによるとそれが羽熊さんのおもしろさらしいけれど、僕はまだその域を知らない。
下車して駅を出る。途中にあるコンビニで買い出しして、さらに歩くと高い塔に到着した。その塔に隣接する小屋の前で立ち止まる。彼女はリュックから単行本を取りだした……青葉玲『神葬』は、先日も放課後に教室で読んでいた本だ。
「あー、そういえばまだ言ってなかったね。申し訳ないんだけど、おいしいもん食べまくる旅じゃあないよ。すまんな、少年」
それは最初からわかっていた。曖昧にうなづいておくと、、羽熊さんは話を続ける。
「ママの著作さ、どれもページ数が同じくらいなんだよね。本の厚さがほとんど変わらないの。だから、カバー入れ替えられたらどれがどれだかわからなくてさ」
そういいながら、書籍の側面を割る――くりぬかれたところにはアンティーク調の鍵が収められている。「技術の無駄遣いだよね」笑いながら鍵をつかって小屋の扉を開けた。室内へ誘われて、従った。扉を閉めても天窓からの日光のおかげで十分に明るい。
「パパもママも、わたしのことよくわかってんだろうね。新作発売毎に郵便で書籍のやりとりしてるってバレないようにわざわざこんな準備してんだもん」
奥へ進み、本棚に敷き詰められた書籍のうち、6冊を迷いなく押しこんだ。すると、本棚が左右へ動いた。目の前に、2m四方くらいの空間が現れた。正面に、左側に取っ手がある扉があった。
「おー、なるほどね。だから開かなかったんだねぇ」
どこか楽しそうに独り言ちながら押し開けた。相当な重さに見えて、手伝った。ふたり同時に体を滑りこませた。直後、電気がついた。眩しくて、腕で目を庇った。背後で重い扉が閉まる音がする。
「一葵って朱雀、好き?」
「え?」
「知ってるでしょ、四神。麒麟をいれたら5匹いるけどさ」
神様の数えかたって、匹? というか、好きって何がだろう? 彼女は「興味ナッシング?」と言いながら靴を脱ぎ始めていた。土足厳禁なのかな。靴を脱ぎながら「いや、別に」と答えた。
「あ、ちなみに、ここね? 最初の目的地。ママがここで小説を書いてたの。バカ広いよね、書くためだけなのに。推理作家って感じ。おかげでリュウグウノツカイの気分」
「なんでここに」
「途中なんだよねぇ、謎解き。色を足すから、手伝って」
「……絵を描くの?」
「俺の芸術が爆発するぜ?」
よくわからないけれど、違うらしい。決めポーズの手を下ろして続ける。
「50音といろは歌、わかるでしょ? 50音の、あいしたわ。いろは歌に当てはめてみ?」
あ、い、し、た、わ。早い順に並んでいるから探しやすかった。1、2、12、16、46だから、
「イ、ロ……ヲ、タ……セ?」
「そゆこと。パンハラかと早とちりして絶望したんだけどさ、まあ、違ったわけだ。あのまま続けててもたぶん完成しなかった。てか想定されてなかったから無理だよね。そもそも、グレーって表記が2種類あるんだよ。紫だって、パープルかヴァイオレットか、明確には指定されてない。一意性が無いのにやろうとしたってのがバカだったなーって。反省反省」
羽熊さんは軽い口調とともにリュックを床に降ろした。
両手を組むと頭上で伸ばす。教室でもよく見る、彼女が本気を出す前後の儀式だ。
「ノートの背にさ、それぞれシール貼ってあるでしょ? 黒いの全部集めてくれる? それが終わったら、白いやつ。ノート、ここに重ねるからよろしくね」
言われるがまま、床に散乱するノートから黒と白のノートを回収した。黒が13冊、白が17冊だった。色分けして、床に重ねた。すぐに青と赤のシールが貼られたノートが勢いとともに重ねられた。黒、白、青、赤。それらを几帳面にそろえると、羽熊さんはスマホを取りだして床に伏せた。ズボンの裾を引かれて、隣に倣う。
「5分、動かないで。センサーが反応しなくなって電気消えたら暗くなるはずだから。暗くなって10秒は動かないでね」
重ねたノートの目の前で、スマホのカメラを起動したまま待機する。
5分は長い。動かないのと動けないのとはまったく違う。それでも、駐車場の車内で置いて行かれたのを思い出さずにはいられなかった。50年後に後悔させたくない……彼女の言葉に期待しないと言えば嘘になる。しかし、兄さんと姉さんを止められなかった時点で、後悔しないのは無理だ。
「あ、やべっ」
床に話しかけるように「どうしたの?」と、尋ねた。くぐもった声で「動かないでって言っておきながら自分で動いちゃった。ごめん、リセットだからもう5分」申し訳なさそうに返された。なんだ、そういうことか。なんとなく生返事をした。
「ね、一葵。気になるから聞いていい?」
「…………うん」
「どうしておねーさんの場所わかったの?」
「……山荘のこと?」
「夜。あ、そっちも夜か。えーっと、脱走した後だよ。おにーさんのとこまで連れてきたじゃん?」
「……かくれんぼの延長だよ、ただの。別に理由は無いかな、ここかなって、それだけ」
本当は、車内で聞いていた。
どの駅を使って、どこへ行くのか。奪取したものをどこに保管するのか。ふたりの声はすべて聞こえていた。聞こえていたのに誰かが来てくれるまで何もできなかった。このまま何もできなかったら、後悔する。それだけはわかっていた。なのに、どうすれば良いかわからなくて、怖かった。
解放してもらってすぐ最寄りの病院へ連れていかれて、検査を受けた。その間、ずっと考えていた。どうすれば兄さんと姉さんを止められるか……電車で追ってもきっと間に合わない。だから刑事さんや病院の方の目を盗んで病院を抜け出した。
幸い、定期はポケットに入ったままだった。普段から交通系ICカードとしても使えるように定期にはあるていどお金を入れている。高校生になってサッカー部に所属してからは遠征もあるだろうからと多めに入れておくようにと兄さんが教えてくれた。
それで足りるか定かではなかったけれどほかに最善手が思いつかず、タクシーで目的地の最寄りだろう駅まで急いだ。兄さんと羽熊さんの電話で、急がなければ間に合わないと知っていたから。ギリギリ残り3桁で持ちこたえて、駅に駆けこめた。
プラットホームで電車を待つ姿を見つけて、姉さんを呼んだ。振り返ったときの頼りないほど泣きそうな表情。事実、すぐ崩れ落ちるように膝をついて泣き出してしまった。姉さんが泣いているときは大抵、兄さんの行動に納得できないとき……駆け寄って抱き寄せた。兄さんが何をしようとしているのか、察してはいたのかもしれない。察した上で、適えざるを得なかった姉さんの心は押しつぶされかけていたんだ。間に合って良かった。今思うのはそれだけだった。
突然、周囲が暗くなった。
驚きを理性で封じこめる。隣からシャッター音が聞こえて「もう良いよ、オケオケ」羽熊さんが言った。何を撮ったのか尋ねる前に、スマホのスクリーンを眼前につきつけられる。暗闇の中、細かい直線や曲線が舞っている。
「ノートの側面にさ、暗闇で蛍光する塗料で何か書かれてるんだよ」
そう言いながらリュックを漁って、諦めてひっくり返した。携帯用プリンターで、今の写真を1枚出力する。筆箱からはさみを取りだして
「黒と白、何冊だった?」
「えっと……13と17」
羽熊さんは「ういー」と言いながら写真に切れこみを入れた。
「はさみとカッター、どっちが使い慣れてる?」
「え、はさみ……かな」
ふたつの切れこみを、まっすぐ切った。3つのうちひとつを抜き取って
「黒担当ね。これ、たぶん文字になってるから並べ替えて」
「文字?」
「ノートを重ねるとさ、それなりに厚みがある平面だから側面にもちゃんと文字書けるでしょ?どの順番か知らんからさ、並べ替え。まあ、いけるっしょ、パズルだもん」
切られた写真に加えて、ハサミを渡された。彼女は写真の残りのうちひとつにカッターの刃を入れて作業を進める。
何度も5分待って並べ替えていくよりは、写真をならべかえるほうが効率は良い。様子を見るかぎり、ノートの側面それぞれを線で繋げられるように、切り分けてパズルをすればいいらしい。しばらく続けると、横書きにされたカタカナが現れた。
「ハグマアルラ……?」
「うん? なにー?」
並び変えたものを持ち上げるわけにもいかず、隣へ来てもらった。「オッケ、ありがと。じゃー、白いほうも頼んだ。わたし、まだ紫のが途中だから」新たに写真を受けとって同じ作業を進める。
今度のは直線が多くて難航した。数分すると「いけそう?」羽熊さんは隣にしゃがんだ。
「あ、えっと、たぶんホクシンサマだと思うんだけど、何かまではわからない」
「ポラリスだよ、北極星の別名。和名ってやつかな、スピカを真珠星とか。その感覚」
「あ、うん」
手の甲に、油性ボールペンでホクシンサマを加えた。その上にふたつの名前がある。ひとつはハグマアルラ。もうひとつは、
「ウスイナツキ……?」
得意げな笑みを浮かべると、片手に納まらないくらいの、黒い箱を高らかに掲げる。
何度か……いや、かなりの回数、黒い箱の側面を押している。押すのをやめると、耳障りな、高い音が響き渡った。
直後、周囲の壁が、右回りに動き出す。揺れが大きく、バランスを崩した彼女を支えながらその場にしゃがみこんだ。
「ありがと。さ、六腑を手に入れるよー」
「待って、今何をしたの? 動くってわかってたの?」
「確信は無かったけど、何かあるかなとは思ってたよ。だって、龍の声で青写真を捧げたわけだし」
「え? どうして……」
「龍の声だし、龍同士なら聞こえんじゃない?」
ああ、それについては何も思っていないのか。わかることを前提として行動しているんだ。
「今のは、モールス信号で龍に聞こえるように、ハグマアルラってやってみた」
「なんで」
「乙姫に捧げてなかったから。青写真も、六腑も、龍の声も」
「何の話?」
「読んだでしょう? 『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』」
「それは……でも、塔はでてこなかったよ」
「うん、出てないよ。内容よりも題名にフォーカスするんで間違ってないと思うからそうしたの。青写真は設計図、つまり小説のプロットとか構成のことだったんだよ。このノート、ママがカズラウララを名乗っていたときに書いた小説の情報とか推理とかがまとめられてる。んで、黒が13冊、白が17冊、青が7冊、赤が8冊」
動きがおさまり、立ち上がった。反時計回りに、270度くらい床はそのまま、壁と扉だけが回転したんだと思う。僕らが入った扉が若干右側にずれて、白から赤に代わった。黒だったのが白、青だったのが黒、赤が左にずれて青になった。
「扉、等間隔配置じゃないよ。青、黒、白はわたしの歩幅で同じ歩数だからそれぞれ机と直線で結んだら垂直の関係にあるんだろうけど、赤い扉だけ白寄りなんだよ。それが、この仕掛けのポイントだった。たぶん、今、反時計回りに動いたのも」
続いて、羽熊さんは口角を上げると「せっかくだから、一葵にクイズね。ちなみに、わたし分かるまで3日かかった」腕を引かれて、赤い扉の前へ誘われた。扉には鳥と馬が刻まれている。さっき四神の話題が出たから、この鳥は朱雀だろう。馬の背後にいるから、まるで聖書にでてくる有翼の馬に見えた。
「よく見て。大小の点が散らばってるのわかるでしょ?」
言われてみれば。扉の広い範囲に、傷かと思ったけれど、それにしては数が多いし、点の形はどれもきれいだ。意図して刻まれたんだ。でも、どうして
「早くしないと答え言っちゃうよー?」
「え、待って。これが何か表してるってこと?」
「んー、正味そのまま」
なんだろう、何の模様だろう?水玉にしては位置と大きさが不規則に見える。模様ではない?何かの位置を表しているのかな。そのとき、ぱっと頭に浮かんだのは
「ホクシンサマ……?」
さっき、聞いた。北極星の別名だって。
途端、目の前に星空が広がった。
「星座! 扉中央に、北斗七星! 離れた位置に夏の大三角もある」
気づけたのがうれしくて振り向くと、羽熊さんは明らかに不満そうだった。
意図せず、先日のルービックキューブの意趣返しになった。
「イロヲタセっていうのがパンハラじゃなくて、同じ色のシールが貼られたノートを重ねろってことだったんだよ。グレーって、GRAYとGREYって2種類の表記がある時点で使用するアルファベットが一意に定まらない。一意って使いかた違うかもだけど、まあ、そういうことなんだな」
ご機嫌斜めだが説明はしてくれるらしかった。
「この扉は、それぞれ四季を表しているってこと? 赤は朱雀だから、夏だよね?」
「うん。まあ、扉の観察は六腑を回収しながら、追い追い」
そういいながら赤い扉を押し開ける。その先は狭い部屋だった。
中央の台座にはガラスの円盤――ドライフラワーにされた、桃色のカーネーションがガラスに覆われている――が静置されていた。指先で、フラジャイルに触れるような手つきでそっと触れる。
話しかけるのは憚られて、数歩下がった。
そのとき、はじめて扉の隣に羊の絵が壁に埋めこまれていると気がついた。
「ごめん」
「あ、いや……大切なものでしょう?」
「どうだろね、わかんない」
円盤を手に取ると、部屋の中央に座する机の上に乗せた。興味を失ったように青い扉の前へ向かう。僕もそれに倣った。円盤は2㎝くらいの厚さだった。
青は、龍と虎が刻まれている……青龍と虎、あるいは、白虎と龍? あっ、朱雀が赤い扉なら青に青龍、白に白虎、黒に玄武。それなら、春夏秋冬というのを青、赤、白、黒で表現しているのかな。加えて、青い扉にも星座が刻まれている。七斗北星は季節ごとに角度を変えながら北極星のまわりを1年かけて1周する。赤い扉では柄杓の柄が上部にあったように、青い扉では柄杓が下を向いて柄は右側にあった。北斗七星は4つの扉を経て「水汲み」している。
羽熊さんはしばらく青い扉を観察すると、付近の床を強く踏みこんだ。すると、扉の左側に飾られていた兎の絵が回転して竜胆の絵に変わる。絵の額縁のような突起に指をひっかけてスライドさせると、50㎝四方くらいの空間が姿を現した。彼女が手を伸ばして中から取りだしたのは万年筆だった。
左手で万年筆をもてあそぶ彼女に尋ねた。
「黒と白は良いの?」
「ここ、リュウグウジョウだって言ったでしょう。龍がいるから、龍宮城」
「青い扉の龍のこと?」
「あー、ううん。ここじゃあ聞こえないんだよね、龍の鳴き。後で聞かせるから。まあ、龍がいるんだなぁってことでよろしく。あとはー、りんどうって知ってる?」
「うん」
「漢字表記だと?」
「竜の、肝かな」
「そ。さすが一葵! ってことだから、龍の体内を探せば良いの」
「……待って、わからない」
「えー、んー……」
少し考えると絵の扉を閉じて指さした。
「そんじゃあ、ねぇ。これが、竜胆の扉。ほら、これ竜胆。だから、認識としては、ここは龍の中。ここまでは良いよね? ってことで、真後ろ、向いて」
ついて行けないなりに、言われたとおりに体ごと真後ろに向けた。ここからはあまり見えないけれど、きっと白虎が刻まれいる扉だ。
「正面にあるの、白い扉でしょう?」
「うん」
「でも、青い扉の正面は犬の絵なんだな。扉の正面は扉じゃあない」
「うん、そうだね。少しずれてる」
「キネトスコープみたいにさ、外側の壁が内側にそって90度分だけ回転しても、もとの扉とは別の部屋に繋がるの、わかる?」
「あっ、じゃあ、赤い扉だけが垂直じゃないというか、えっと」
「そ。上からみたとき机がこの円柱の中央にあると考えると、白と青を繋いだら直径になる。だけど、黒と赤を繋いでも中心を通らない位置関係」
「白と黒は元の位置と同じだけれど、竜胆の扉と赤い扉は別の位置になるってことだよね?」
「そーゆこと。言うの忘れてたけど、この匣は回転させる前の黒い扉からゲットしたの。ちなみに、青がトイレ、赤が出入口、白は開かなかった。まあ、白は、さっき押し開けたとおり、こっちから見れば引き戸だから無理だったわけだ」
いつの間にか、羽熊さんは器用に、話しながら匣を何度も押していた。
「外側の壁と扉は一緒に動いてるから開けかたは変わらない。青はスライド式だったから、位置がずれても、横に移動したら出入り口を塞げてるって感じかな」
押し終わると、さきほどと同様、耳障りな音が響いて壁が移動する。ただし、今度は内側の壁が半時計回りに30度くらい動いた。扉が見えなくなった代わりに、扉があった場所の先にそれぞれ狭い部屋が現れた。
「赤と白、よろしく」
羽熊さんは青い扉があった場所へ向かう。僕は近いほうだった赤い扉があったところへむかった。中央の台座にはUSBポートが静置されている。続いて、白い扉があった空間の先へ足を踏み入れた。台座には、ケースに収められた壊れた腕時計があった。シルバーを基調とした華奢なデザインだった。
ふたつを持って空間を出ると、羽熊さんが机に腰かけながら手招きしていた。
「これで六腑が揃った」
カーネーションの円盤、万年筆、黒いスイッチ、USBポート、そして
「そっちにも腕時計あったんだ」
「青いとこにあった。一葵は、白いほう?」
「なんでわかったの?」
「シルバーとゴールドなら、正面かなって」
ちょっと意味がわからなかった。確かに、白い扉があった先にシルバーの腕時計があったけれど、それがどうして青いほうにゴールドの腕時計があることと関係していると思ったんだろう?
「もう扉見えなくなっちゃったけどさ、まあ、4つともおおぐま座もとい北斗七星があったわけだ。ここまでいい?」
「え、あ、うん」
「じゃあ、北極星に当たる場所はどこだと思う?」
龍の声を響かせるたびに、壁が動いた。回転したんだ。その中心は
「机……?」
「ご明察」
視線を向けると、羽熊さんはいたずらっ子のように笑っていた。
「玉手箱にはね、時間が封じこめられてる。たどり着ければ、10年ごとき余裕で埋められる」
直後、床が大きく揺れた。
いや、下がって行く。円形の机が。腕を引かれて机の上、羽熊さんの隣に乗った。
「13冊あった黒いノートを重ねたらハグマアルラ、17冊の白いノートを重ねたらホクシンサマ。加えて、ちょうど赤と青を足したら15冊だし、紫だし。実際、ウスイナツキって名前が出てきたから正解だと思うよ。電気がめっちゃ明るいのだって、距離が離れても照らせるようにって設計だからじゃあないかな。壁際にはノートとか書籍を置いていなかったのは移動時に巻きこまれないように」
「待って、ついていけてない。ひとまず、これは大丈夫なの? 落ちてってるけど」
「うん? まあ、どうにかなるんじゃあない?」
「嘘でしょ?」
「ホントだって」
「なんで」
「ひとまず落ち着きなされ。考えてごらんよ。乙姫に捧げるべき青写真は、プロットノートから導かれる、3つの名前を指していた。龍の声ってのは、龍の鳴きじゃなくてこの匣から発される電波のことだったんだよ。道標となる北極星をみつけるためには北斗七星が見つけられないと無理じゃん? だから、ホクシンサマの前にハグマアルラによる龍の声を響かせる必要がある。んで、ふたつの声によって6か所から六腑を集められたから準備完了。最後は、乙姫へ龍の声を捧げる――龍の声で乙姫の名前を呼ぶ――ほら、乙姫のオトって、年下って意味でしょう?」
「そうなの?」
「『白髪爺さん』、知らんのかい?」
「……?」
「違うね、間違えた。『浦島太郎』、ご存じない?」
「それは知ってる」
「じゃあ後はグーグル先生に聞いてくれ」
落下が止まり、机から降りた。スポットライトを浴びているような感覚だ。真上の空間からの光が、ほとんど机の面積範囲でしか降りてきていないんだ。
「ここまでストーリーが繋がるなら、信じても良さそーじゃん?」
羽熊さんは黒いスイッチを握っていた。すると、壁に埋めこまれていた照明が点いて足元や白い壁まで照らされた。カーネーションの円盤、シルバーの腕時計を抱えて、壁際へ戻る。「一葵もおいで」と呼ばれて駆け寄った。
シルバーの腕時計をケースごと壁から飛び出た引出しに乗せて壁へ押しこむと、壁がカーテンのように動いて埋めこまれた本棚が姿を現す。
4段とも、絵本やアルバム、ぬいぐるみが収められている。年季の入ったキャラクターのぬいぐるみは、なんとなく見覚えがある気がした。
続いて羽熊さんの後ろをついて行くと、同様の引出しにカーネーションの円盤をのせて壁へ押しこんだ。先ほどと同じく4段の本棚が現れる。最初の本棚より少し量が多く見えた。ぬいぐるみも収められているけれど、こちらは既製品ではなく手作っぽい印象で星のモチーフがついている。
「ほぅら。やっぱり乙姫様はとんでもない箱を持ってるんだよ。いやー、悪い女だねぇ」
独り言ちながら手に取ったUSBメモリを光にかざしてニヤリと笑った。机のほうへ戻ろうとした彼女の後に続こうとすると
「羽熊家のはおもしろくないよ。てか、見るものだったら一葵のほうが多いんだから」
「僕の?」
「シルバーの腕時計の刻印、見てなかったの?」
見ていない。正直にうなずいた。羽熊さんはUSBメモリをポケットに入れるとゴールドの腕時計をもって戻ってきてくれた。ゴールドの腕時計を僕の目線の高さに掲げて、時計盤の裏を指さした。確かに、筆記体で文字が刻まれている。これは……
「シルバーにNatsuki.Y、ゴールドにMoeka.Yって。Yが名字のイニシャルならナツキさんとモエカさんが姉妹って認識できる。同じようなタイミングで、同じ人から送られた、お揃いの品だったなら」
そこまで言われて、ハッとした。
菜月は母の名前、萌日は伯母の名前。
旧姓は雪本だから、イニシャルはY。
ゴールドの腕時計を受けとり、壁際を注視しながら歩く。引出しを見つけ、腕時計を収めて押しこむと、4段の本棚が現れた。絵本もアルバムもおもちゃも、ぎっしり詰まっていた。
シルバーの腕時計で開けた空間に収められたアルバムや本の数のほうが、ゴールドのほうよりも少なかった――封じこめられた時間が短かったからだ。
目の前の本棚からアルバムを引き抜いて適当に開いた。黄色い帽子と桃色のランドセルを背負った姉さんの隣に、ヘルメット片手に黒いランドセルを背負った兄さんと、手をつないでもらった僕がいる。姉さんが小学1年生になった年の春、それなら今から12年前……同じ場所と時間を共有して、同じ方向を見て、みんな綻ぶような笑顔だった。
「ヒロミくんとセナちゃんと一葵? じゃあ、一葵も1年生のとき黄色い帽子被ってた?」
いつの間にか羽熊さんが隣にしゃがんでアルバムを覗いていた。首肯すると、羽熊さんはひとつ深呼吸をした。
「おにーさんさ、わたしのママに直談判したことあるの。そのとき、ちょうど1年生のとき、会ったことあるんだよ。きっと黄色い帽子で、一葵とわたしが同い年ってわかったのかな」
「なんでそれが」
「事件が起こる蓋然性の補強。あ、名前についてはママの資料に書いてあった。こっちにも」
腕に抱えながら指先でつついているのは学校で使っているタブレット端末だ。充電ポッドに変換プラグをさしこみ、さらに六腑のひとつだったUSBプラグを接続した上で、先ほどのUSBメモリを差している。私服なこと以外は普段どおりに見えるのに、なんだか怖くなった。
「おねーさんの誕生日いつって聞いたじゃん? 改めてさ……今年の6月後半くらいで20歳になる?」
探るような、遠慮するような瞳が向けられる。
何も言えなかった。
怖い。確かに、2004年6月19日生まれだ。なんで、どうやって知ったんだろう? あまり見ないようにしていたけど、ニュースでは、兄さんはもう、香坂昊弥だと本名も報道された。姉さんについては、19歳だとしか、まだ
「あのカフェでさ、当初はひとりで事件を起こすつもりだったって聞いたんだよね。でも、実際は妹を共犯者にしてるわけじゃん? なんでひとりでできるはずだった事件を妹に手伝わせることにしたのか……そうすると決めたとき、何の策も考えてなかったと思う?」
聞きたくないけど、知りたかった。何が起きていたのか。どうしたかったのか。どうすれば良かったのか。誰かに教えてほしかった。「どうして10日だったのか、考えてさ」羽熊さんは続ける。
「2022年に少年法が改正されたってニュース、見たことない? 従来の未成年者のうち、18歳と19歳を特定少年として扱うって。起訴されるまで20歳未満なら、各機関の判断で報道がされないこともある。おにーさんの名前は出てたけど、おねーさんは年齢しか出て無いのは、そういうカラクリだよ」
「関係ある? なんで今だったのかなんて」
「おねーさんが起訴前に20歳になっちゃったら送検手続きをやり直されて何もかもが報道される。それを回避するために今、勢いよく自白してんだよ、あの人。起訴不起訴が決められるまでの……25日間くらいだったっけ? それまでにおねーさんを不起訴にする作戦のひとつじゃあない? 結局思いどおりってわけだ。むかつくよね」
「……言い切れる?」
「確信はない。でも、そうじゃなかったら、おねーさんも一葵みたいに車内に放置して無関係だって言い張れば良いだけだから。そうしなかったのは、理由が必要だったから……おねーさんが仕方なかったんだって納得できる余地を残すためとか……そういうやつかな。心当たり、ある?」
「なんでわかるの……?」
「12歳のとき、勝手にいろいろやらかしたのバレてたんじゃない? だから、今回は最後にはおねーさんも逮捕されるような計画にしてたんじゃあないかなって。仮に、あの日カフェに一葵が連れてこなくても、きっと、おねーさんはしばらくしたら自首したよ。同時逮捕を避けようとしたのは、進んで自白しておねーさんの不起訴を適える下地を整える時間が欲しかったからだろうね。破滅する方法は選べるって、そういうことだと思ってる。逮捕されるのが遅くなると必然的に送検も遅くなるんだろうけどさ。20歳バースデーまでにどうにかするためには、相応に情報をコントロールできる状況にしておくのがおにーさんには最善だったんじゃあないかな」
「……」
「事件が起きたら、どうしても解決が必要なんだよ。もちろん、今回みたいなときは、犯人もね。だから、なるべく誰もが納得できるように、自分の目的は果たせるように、いくつかの安全装置を配置していた。結局すべておにーさんの思惑どおりだって気づいたときはむかついたよ。けどね、一葵がおねーさん連れてきたときは溜飲下がったね。ざまぁ見ろって思った。お前が思うほど妹と弟は薄情じゃねーんだぜ、ってね。でも、まあ、それすらも計画の派生のひとつにされたらもう何も言えないよ。拍手喝采、お見事です。憎い演出、自分のすべてを賭けて妹と弟は守ろうとした……本人の心の内はともかく、この答えに辿り着いたら、それ以上は考えたくなくなった。納得したくなったというか、そうであって欲しくなった。どうしたって信じたいものを信じるんだよ、誰だって。主語大き過ぎる話好きじゃないけどさ、哲学者じゃねーもん」
納得? 何を納得すれば良い? 信じたいこと? じゃあ何を信じればいいんだろう? 羽熊さんの「おにーさん、どんな人?」他意のない問いにさえ、何を、言葉が見つけられない。小さい頃から絵本や対戦形式のボードゲームにも勉強にもよくつき合ってくれた。何でも得意な、優しくて自慢の
「わからない」
羽熊さんは「そっか」とだけ言って、スポーツドリンクのペットボトルを差し出した。髙橋くんがよく飲んでるやつだ。僕もこの前、買った。見上げると
「わたし、借りは返す主義だからさ。あの夜、山荘から逃げ出すとき、おにーさん食い止めてくれたでしょ? ほんとに助かった、ありがと」
床に座ると、缶ココアを飲み始めた。僕はペットボトルを抱える。
「おにーさんとおねーさんが変だなぁって、気づいたんだよね? だから、最終列車でこっちに急いだ。到着してから電話かけるなんてなかなか策士だよね、強かというか。その調子ならあの駿太朗とやりあっていけそうで安心だよ」
「なんでそこまで」
「今日のチケット買うとき調べたの。新宿から富士見駅の最終列車到着が23時過ぎ、そこから霧ヶ峰の山荘まで車なら1時間かからないくらい。見張りが30分くらいで交互だったから、60分くらいならひとりが別荘からいなくなってても気づけなかった。24時くらいになったら人の話し声増えてるっぽく聞こえてたし、それくらいに別荘についたんじゃないかなーって」
別荘についたのは日が変わるころだった。確かにそれは間違っていない。間違ってはいないけれど、どうしてそこまで僕の行動も、兄さんの行動も手に取るようにわかっているんだ? それに、
「恨まないの?」
「何を?」
「全部」
「……」
「全部違ったら、羽熊さんが怖い思いすることなかった」
「一葵も、家族と暮らせてたね?」
「……」
「ごめん、ただのイジワル。いや、そうじゃなくても……本当にごめん」
彼女は缶を置いて頭を下げた。
「今回の事件さ。実は、わたしが完全な被害者とは言い切れるわけではないんだよ。ほら、見ているだけも加害者って言うでしょ?」
「何の話……?」
「まあ、ちょいと聞いてくれ。お願い」
「……」
「ここは執筆のための建物だって話したでしょう? ママの失踪は、もう10年近く前でさ。小説も書いていないとしたらここも使わないわけじゃん? なのに、埃被ってないし、仕掛けもちゃんと作動するし。これだけ大掛かりな仕掛け、使わないのにメンテしてるのも変じゃん? 定期的に、管理してたんだよ。鍵を持つ者なら自由に出入りできるから」
「……」
「わたしの前から消えただけ、父は母と繋がってたんだよ。本当、親の気が知れないよ。娘は捨てたくせに小説は捨てらんないなんてさ」
「でも、羽熊さんがそうしたかったわけじゃ、羽熊さんの責任じゃあ」
「性悪説うんぬんの話はしてないんだよね。おにーさんとおねーさんがこんな大それたことしたの、わたしの両親の行動がはじまりだっつってんの」
声を荒げたわけではないけれど、強い口調だった。怒っているのか寂しいのか悲しいのか、判断がつかない。何を言おうとも、ここまでして自らの非を証明しようとしている彼女の思いを拒絶してしまう。もちろん羽熊さん自身が悪いとは思わない。けれど、否定したくない。できない。
「知識量にはそれなりに自信あるよ、そのために頑張ってきたのもあるし。けどさ、ママが失踪したときに作った暗号ゲームなら、解くために必要な知識を推測したなら、あまりにも正確過ぎている。ほぼ10年のラグだからね。だったらどうしてわたしが解けるレベルなのか……適宜、作り変えていたんだよ……3つの交通事故のこともおにーさんの主張も、忘れ去ってなんかいなかった。窘めるチャンスも計画を止めさせる機会も、この10年のうちに存在していたはず。けど、そうしなかった。わたしも、できることはあったのに何もしなかった」
何も言えずにいると「恨まないの?」と、尋ねられて「何を?」と聞き返した。すると「全部」と返された。答えられないとわかった上で聞いたのか「ほんと、誰も彼も勝手すぎて笑えるよね。言えっての」彼女は自嘲しながら髪を耳にかける。ふたりともしばらく何も言わなかった。
「ね。おねーさんのさ、セナ、って漢字でどう書くの?」
「……石瀬に、夕凪」
「ひろみ、せな、いつき……わたしそういうの、好き。おにーさんが昊弥で太陽、おねーさんが瀬凪で水、そして一葵は花! 花は日光と水が無いと育たない……人と繋がった名前って素敵じゃん?」
「羽熊さんは」
「わたしは自己完結型だよ、あっちこっちいくけど、名字から名前にたどり着くだけ。なんやかんや自分の名前きらいじゃあないけどね」
缶ココアとタブレットを抱えて立ち上がると、
「好きなだけ見てていいよ。わたしも好きに過ごしてる。時の部屋じゃあないから問題ないよ。時間の流れかたは地上と同じだから」
部屋の中央へ戻っていくと、床に座ってタブレットを注視しはじめた。
開いたアルバムに視線を下ろす。他のページも、ほかの思い出も見たくなって、時間は解けるように過ぎていった。




