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あの日と龍宮城の謎解き

 小学1年生のあの日も、歩き続けてた。目的もなく。ただ、離れたかった。


 授業は簡単だったし、何より教室にいたくなかった。公園に留まっていたら大人に注意されて、お巡りさんや両親を呼ばれる大事になったことがある。ごめんなさいとは謝ったけれど、問題の本質は学校に行きたくないこと、それが改善されないかぎり素直に登校するつもりは毛頭なかった。


 目的地もなく歩いていると雨が降って来た。目についた公園の大型遊具の下で雨宿りをした。知らない場所かと思って歩いていたけれど、見たことあるような景色だった。理由は周囲を眺めているうちにわかった。母の執筆塔の近くだったから。ひとりで行くことは無かったから道や景色を意識して覚えようとしていなかったけれど、サブリミナル効果は相応だったらしい。


 遊具の下できょろきょろしていると、公園に新参者が現れた。濡れているのも気にせずリュックサックをベンチに叩きつける。それなりに大きな音がして、彼の動向を観察してしまう。 中高生くらいの彼は座面につっぷせたまま拳で殴りつけた。何かに怒っているのはよくわかった。しばらくそのまま動かなくなった反面、こちらはなんだか落ち着かなくなった。


 不意に、彼は座面に座りなおして空を仰いだ。何が見えるのか、同じように空を見上げた。どんよりとした雨雲だ。再び彼を観察しようと視線を下げると、目が合ってしまった。立ち去らなければ。咄嗟の判断で近くに放置していた黄色の帽子を被りランドセルを背負い、彼とは遠い出口を目指そうと遊具の下をくぐった。


「何してんの?」


 が、その先で待ち受けられていた。質問は変声期前の少年の声だった。自分が悪いことをしている自覚はあった。でも、それほど素直でもない。「……休んでた」とだけ言った。


「なんで?」


「疲れた」


「傘は?」


「……無い」


 彼はリュックを遊具の下に放り、雨の中どこか行った。数分すると缶のココアを両手に戻って来た。こちらへひとつ放り投げられたが、驚いて避けてしまった。少年を見ると「ああ、ごめん」彼はプルトップを開けたココアをわたしに持たせる。さきほど投げたココアを自分で拾って、遊具の柱に背を預けた。わたしはその隣にランドセルを置いてしゃがみ「お兄さんは?」と尋ねた。


「休みたかった」


「なんで?」


「疲れたから」


「怒ってたよ?」


「怒って、疲れたから」


「大丈夫?」


「ある程度は。それで、君は?」


「なあに?」


「学校サボって、なんでここにいるのかってこと。嫌なことでも?」


「……名前、変って言われた」


「変なんだ?」


  強くかぶりを振った。それだけは否定したかった。


「じゃあ気にしなくていいだろ」


「わたしも言っちゃった」


「何を?」


「……」


「何を言った?」


 責める口調ではなかった。純粋に、何があったのか知ろうとしているのはわかった。だから、正直に白状した。


「わたしの名前、変だって……わたしも、言った」


 途端に体が熱くなって、ズボンが濡れていった。


 繰り返し言われ続けて、やめてほしかっただけ。嫌だというだけでは何も変わらなかった。変えられなかった。だから、一緒に笑った。そうしたら、興味を失くしたらしく、言われる回数は減っていった。それがどうしようもなく悔しくて悲しくて、わからなかった。


 手から缶が抜き取られて脇に置かれた。袖口でどれだけ涙を拭っても止まってくれない。落ち着くまで、彼は何も言わなかった。やがて「友達は?」静かに尋ねられる。わたしは「いない」即答した。


「ひとりくらいいるだろ」


「……」


「これから作りな」


「イジワルする子だったら?」


「しない子と友達になればいい」


「いないよ。みんなイジワル」


「クラスの子みんなと話した?」


「……」


「じゃあもう少し頑張れるよ。名前変だって言ってきたの、3人くらいだろ?」


「19人」


「……。その子たち以外とは話せないの?」


「嫌だ。学校行きたくない。言ってない子たちだって、何考えてるかわかるわけじゃあないもん」


「わからなくても、良い名前だって言ってくれる子と仲良くなれたらいいね」


「いるの?」


「どっかになら」


「どこ?」


「僕と同じくらいの年齢になったら、ひとりは見つかるよ。たくさんの人と知り合うようになるから」


「絶対?」首を傾げた。


「いや、君の名前知らないし」


 答えの代わりに、そばに置いていたココアを差し出してくれた。機嫌はすっかりなおって、缶を傾ける。彼が隣で呷るココアの缶は、凹んでいた。



 

 *******

 



 その数分後。母が傘を持って公園の入り口へ現れた。

 今思うと、もう1本の傘はこの少年に渡すために持っていたらしい。受け取ってはくれなかったけどね。


 母にはなくてわたしが持っているものを使ったらいいと思って長野県を導いたけれど、それって本当に必要な思考だったのかな。


 偶然に近いヘリウムって感じ。ああ、やめよう。疲れた脳で考えても泥沼に陥るだけだ。

 希ガスとは異なり、わたしの思考は不安定だと自覚した。



 

 *******

 



 アスファルトが右へ曲がり、そちらへ。しばらく歩くと、暗闇に人工照明。ああ愛しのコンビニ。ようやくみつけた。5000円札しかないから無駄遣いはできない。気合とともに店内へ入った。


 目に入った白い布手袋、10秒チャージ3つ、板チョコひとつ、ココア、カフェオレを1本ずつ。抱えるのはダルいから袋も買った。公共交通機関じゃないとお金が足りなくなりそう。タクシーは使えない。そもそも見つかる気がしない。会計とともに、店員さんに最寄り駅とその方角を聞いた。


「スワ駅、あっちのほうにあります」


「スワって……諏訪湖の、近くですか? え、ここ、何県ですか?」


  眉を顰めながら「長野」だと答えてくれた。いや、不機嫌というよりも、何言ってんだこいつって感じか。カンガルーだね。店内の時計も腕時計も同じ時間――3時25分――を示している。


 日の出まで1時間くらい。


 おつりをポケットに突っこんで、コンビニを出る。星空を見上げ、周囲を見渡した。

 ここからなら、おおよその地理関係がわかる。方角もわかる。体も覚えてる。少し駆け足気味でアスファルトを蹴った。 10分くらいで、見覚えのある木が見つかった。カリンの木だ。日の光のもとで見れば淡いピンク色の花だろうけど、今は白っぽいことだけがわかる。この木の、すぐ近く。花の、マンホールのような円盤。覚えているとおりに回転させて模様を合わせる。カチリと軽い金属音が聞こえた。記憶のとおりに指先をひっかけてスライドさせる。地下へ梯子が続いている。暗い穴に体を落とす。ふたを閉めると頭上で勝手に円盤が回転する音がした。防犯は作動しているらしい。緊張したまま暗闇の中を進むと、一番下、足が平面についた。ここからは壁を伝って進むだけ。小さいころ、何度も通った。暗いのは少し怖いけど、進める。つきあたりにある段差は、階段のはじまり。当時は高いと思っていたけれど、今ではそうでもない。順当に上った。二重螺旋階段を採用した塔では、階段を上りきった踊り場まで立ち入り自由。その先は、母の執筆部屋。立ち入ることが許されない聖域は、内側から鍵の掛かる扉で閉ざされ続けていた。


 この踊り場の中央で手を叩くと……反響は、神秘を帯びる……龍の声が聞こえる。


 東は日光。西は京都相国寺。北は、焼失したけど、青森竜泉寺。南は信州妙見寺。日本四方鳴竜と類似する設計をとったこの塔も、鳴き竜が体験できる。この音は、真下にある母の執筆部屋にも聞こえていただろう。この音が聞こえたとき、階段を上って鍵を開けると顔を見せてくれた。


 今は、もう誰もいない。内側から鍵が掛けられているはずがない。信じきれない確信。コンビニで買った布手袋を装着して扉の握りを引いてみる。ひんやりとした拒絶のくせにあっけなく開いた。


 暗闇に視界が慣れてきてはいたが、この先は真っ暗で何も見えない。手を壁に触れさせて重心を外した右足だけを滑らせる。が、段差がない。その代わり、傾いている。斜め。スロープらしい。ああ、階段を上るよりもこのスロープを下るほうがずっと怖かった。


 下りきると、急に視界が白くなった。いや、違う。電気がついたんだ。眩しくて、何度か瞬きした。電気は問題なく通っているらしい。センサーが反応して自動で照明がついたんだ。


 ここが、母の執筆を支えた部屋……なんだろう、感慨深いってやつかな。ローマやギリシャの古代建築を目の当りにしたら同じ感覚になる自信がある。実際、円柱がそびえたつようなドーム型の空間からはそういった建築を連想できる。部屋の中央に重厚そうな机と椅子だけ。他には、家具がひとつも無い。本棚すらなく、情報整理のためのノートや資料書籍が床に平積みにされている。本当に、執筆のためだけに建てられた塔だ。


 スロープ終わりにローファーを脱ぎ捨てて机へと歩み寄った。真上を見上げる。ここが天井から最遠だ。期待とともに手袋を外して、手を叩いた。何度か叩いたが、龍の声は聞こえなかった。この上の空間では、音は反響しないらしい。


「『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』……青写真、六腑、龍の声」


 3つを乙姫に捧げれば、何かが起こるはず。起こらなかったら知らんよ。手袋をつけなおしながら知っていることを整理したい。まず、龍の声。ここではないが、所定の位置で手を叩けばいつでも聞ける。おそらく、この塔そのものを指している。次に予想がつくのは、青写真。英語では意味を一意にできないから日本語として扱うべきだし、歳時記では冬の季語だけど今は関係ないと思う。物質じゃあないから捧げられるものじゃないし、それ以上に考えようが無いから。おそらく、ただの青い写真のことでもなくて、設計図のほうを指しているのだろう。作中では、事故で目覚めない恋人と描いた叶わぬ未来の計画を指していた。けれど、わたしは母の描いていた将来は知らないし、聞かされた覚えもない。「あるらになら解ける」ならば、物質として存在する物、つまり設計図が該当していて欲しい。該当している保証は無いけどね。そうなると、やはり最大の問題は六腑。内臓はあるけど、捧げられない。死ぬじゃん。意味違いとかなのかな。6つの腑、みたいな。いや、腑って何? もとの意味では漢方でいうところの大腸、小腸、胆、胃、三焦、膀胱のことだけど。腑がつく言葉……臓腑、心腑、腑分け……臓器に関するものが多い。そもそもこの文字だけでハラワタって意味だし。熟語でなければ……腑に落ちる、腑甲斐ない、腑抜け……考えかたって意味もあるんだ。じゃあ、6つの考えかたが必要ってこと? おー、腑に落ちる気がしなくもない。この路線で考えてみるか。


 さて。何を考えましょうか?……の前に。コンビニの袋から全部取りだした。板チョコと10秒チャージをふたつ完食した。口に残った微妙な甘さをココアの甘ったるさで胃に流しこんで準備完了。


 最初に、その場で壁際を360度見渡した。


 入り口には、扉は無いが弧にそって赤枠だけがある。そこをアナログ時計の12だとしたら、11に兎の浮彫モチーフ、9に牛の絵、8には青い扉、6に白い犬の絵、5には黒い扉、3に羊の絵、2には白い扉がある。3つの扉には、それぞれ同じ色の枠がある。靴下越しに床の冷たさを感じつつ、本やノートの間を縫うように壁際へ移動し、それぞれを観察しながら1周した。幸い、壁際には物が置かれておらず、歩きやすかった。足を止めたのは赤い枠の隣、兎のモチーフを前にした。兎の真上には満月もある。そこから壁に沿って反時計回りに13歩進むと、青い扉。龍と虎が浅く彫られてて、今にも戦いだしそう。他方、刻まれているのはそれだけでは無い。斑点のように、いくつか、いや、10以上の凹凸がある。点字にしては範囲が広いしサイズが統一されていない……どこかで見たことあるような、つい最近見かけたような配置……なんだ、これ。保留。扉の隣にある牛の絵は、墨汁で描かれていた。わたしの目線より若干下にある。誰が描いたんだろう。サイン無いからわからん。


 再び壁に沿って反時計回りに、今度は11歩進んで黒い扉の前にたどり着いた。イノシシと……何だろう。さっきの青い扉の龍が青龍だとすると、同じ四神のうち、玄武だろうか。亀と蛇のキメラみたいなやつ。イノシシは左下へ突進するように、玄武は悠然と右上を眺めているようなデザイン。加えて、この扉にも凹凸が存在する。範囲やサイズはさっきと同じくらいだが、配置は90度くらい時計回りに回転している。右側に上半身を傾ければ、青い扉の凹凸と重ならなくもない気が……やばい、骨折れかねん音したんだけど。左側に傾けると同じ音がした。おー、左右対称。また、白い犬の絵は足元付近に、壁に埋めこまれている。あいにく、動物とは縁遠い人生だ。身近な子でなければ、有名なわんこ? ハチ公、クドリャフカ、西郷隆盛の隣の、ほら、あの子……白い犬だった?……うーん、わからんな。壁に沿って白い扉のもとへ。こちらも11歩だった。扉には、虎と猿がいらっしゃる。んあ? さっきも虎いたよね。真後ろには青い扉の青龍と虎がいる。青龍、玄武、ときたら白虎かな。じゃあ、虎、イノシシ、猿……子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥……干支か。生物ヲタクかな。


 よく見ると、ほかの扉との共通点として、やはり白虎と申の浅彫りのなかに凹凸がある。青い扉と点対称、黒い扉のとは時計回りに90度くらい回転した配置だった。ここから赤枠まで、9歩。


 資料は学術書や書評などさまざまなジャンルが不規則に重ねられていた。ともに点在するノートの背に張られたシールは、黒、白、青、赤の4色。目測だと、白と黒は同じくらいの冊数、青と赤は合わせれば同じくらいの冊数になる。あとで布手袋を外したら内容を確認しよう。改めて壁際から離れて中心にある濃茶の木製の机へ向かう。唯一ちゃんと整理されている場所だ。この机の上に立って見渡した。全体を見たかった。今、扉は3つある。高さ2.0m幅0.8mといったところか。引きこみ戸らしく、それぞれ枠から3㎝ほど陥没していた。ノック音から察するにどれも木製だった。取っ手も指をひっかけられる箇所も無いため開閉方法はわからない。あるいは、ただの装飾であって出入りの用途ではないのか? わかるのは、赤い扉がどこかに存在すること。朱雀と、あとは巳かな。いや、黒い扉の真正面では無いから辰あるいは午か。虎と寅がいるし、龍と辰も有りか。あれ? おかしくないか? 牛から時計回りに扉の彫刻、壁のモチーフや絵を確認する……丑、卯、申、未、亥、戌、寅……干支を知ってるのに順番を知らない? 重複してないのに気持ち悪い。 気持ち悪いから保留。


 じゃあ、次に距離かな、知りたいのは。


 身長から計算すると、わたしの歩幅が72㎝くらい。13歩、11歩、11歩、9歩。合計44歩で1周できたから……45×72=90×36……円周は3168㎝くらい。つまり、机を中心として直径10mくらいの、円柱状の空間だ。それだけ広ければ、相応に仕掛けを施せるだろうね。自分の城には強いこだわりがある。推理小説家はそういう生き物だ。同種の生命体ならSNSで見たことある。あれは家じゃなかった。浪漫の具現だった。労力の割きかたは狂っていてもそういったものは存在するだろう。ひとまず、扉は開けるために在る。3つとも開けてみよう。開けかたがわかれば閉めかたもわかる。入り口を閉められれば赤い扉を見つけられる。ってことで、まずは青い扉。かかってこい。いや、つっかかるのは、わたし。かかってこいの対義語……さっきはよくわかっていなかったけど、円が大きいのと浅彫りのせいでわかりにくいだけで、若干湾曲している。平面ではないし引きこみ戸だから、左右どちらかにスライドできそう。浅彫りに指をひっかけて左右に揺すった。右へスライドしたのでそのまま力をこめる。トイレだ。すぐに閉めた。気を取り直して。次は黒い扉。左右どちらにも動きそうにない。開けかたが一致しないのかな。引いてダメなら押してみろって言うよね。両手を扉について体を傾けた。少し揺れた気がしてさらに体重を掛けた。が、動かない。押してダメならどうしろってんだい? それとも押す場所がいけないのか? テキトーに扉を押していると


「わっ⁈」


 扉の右側に体重を掛けた途端、バランスを崩した。突然現れた窪みに体が吸いこまれた。湾曲した壁に手をつく。すぐ右の蛇と目が合ってビビったら背後に頭をぶつけた。この蛇許すまじ。いや、君は玄武の一部か? いずれにしろ、少なくとも先に回転すると言ってくれ。


 体を起こすと、窪み部分が回転扉のための空間だとわかった。湾曲をノックしてみると軽い音がしたが、押しても動かない。一歩引いて、回転扉の隠れていたほうを確認する。黒い鳥と光の輪のモチーフが現れた。真後ろをふり返ってみると、卯と月のモチーフ。古来より月にはウサギがいると言われている。金烏玉兎。それを考慮すると、これは烏、そうヤタガラス。光の輪があらわすのは太陽。じゃあ、隣の犬は? 視線を向けると、いつの間にか茶色の狐が現れていた。ジャンプで犬を飛び越えている。ゆっくり扉を左右交互に押してみると、キツネが現れる瞬間がわかる。扉と連動しているのだ。狐の周辺をよく観察すると細い切れ目があった。せっかくだから烏と卯を向きあわせた。ヤタガラスの3本の脚に小包が括りつけられていた。それを手に卯へ向かった。床の資料たちのせいで突っ切れず、半円を描くように移動した。何か蹴ったが、今は兎と月のモチーフが優先だ。正面のモチーフと扉が連動して動くならこちらも同様であるかもしれない。扉を開けたら烏と太陽のモチーフが現れたなら、その正面は、扉が開いているから卯と月のモチーフがすでに現れているのではないか。酉の右隣には戌がいる。干支の順番に則れば、卯の隣には辰がいてほしい。周辺に2匹目の龍もとい辰を探した。すると、右足が何かを踏んでわずかに凹んだ。直後、赤い扉が空間を閉じた。足元をよく見てみると、壁に星型の花が……竜胆が咲いていた……手の庇で影を作ると、わずかに紫色だとわかった。照明が強すぎて、扉くらい鮮やかでないと色がわかりにくいのか。


 再び同じ場所を踏んでみると赤い扉は同じ色の枠の奥へ開いた。閉じこめられてはたまったものじゃない。誘拐事件だけで結構。


 幸い、赤い扉は素直に動いて消えると、もとのスロープ終わりが現れた。ローファーも脱いだときのまま。安心して、同じ操作で赤い扉を出現させた。朱雀と、午だ。ユニコーンだっけ、違うな、ペガサス。羽の生えた馬のように見える構図の浅彫りだ。加えて、黒と青と白と同様に、凹凸がある。黒い扉のやつをさかさまにした配置ではなかろうか。あ。待って、白い扉まだ開けてない。さっき蹴ったのは推理小説評論書籍の山だった。ごめんなさいと思いながらなおした。その頂上にヤタガラスからもらった小包を乗せた。一旦、手ぶらになりたかった。白い扉は、引いても押しても開かない。足元を観察したり細かい歩幅で歩いてみたりしても何も起こらない。引いても押してもだめだったらどうするか。壊してみる? いや、それは器物損壊だなぁ。これも保留か。ともあれ、これで扉は4つある。黒、青、白、赤。ノートに張られたシールと同じく4つだ。何も意味はない? ただそう見えているだけ? いやぁ、推理作家がわざわざ建てた執筆のための塔だ。扉と絵の不一致にも意味がありそう。四神は勢ぞろい。干支は、竜胆が辰だとすると、丑寅卯辰午未申酉戌亥がいらっしゃる。じゃあ、狐は? 黒い扉開けたら戌の上ジャンプしたけど。茶色の狐が白い犬飛び越えるってのはThe quick brown fox jumps over lazy white dogだけだよ? なんで急にパングラム登場するのさ。急に言われても、いろは歌くらいしか思いつかないって。まあ、いろは歌くらい覚えてるか。メモ帳の新しいページを開いて、書いてみた。不安なのは、「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」はどっちがどっちだったか。どうだったっけ? あー、スマホ。Aに取られたままじゃん。現代人なのに。あのときは探すタイミングも見つける時間もなかったから仕方ないんだけどさ。もはやコンピュータになりたい。来たれ、ユビキタス社会。わたしがコンピュータになる……こういう世界観のSFあるよね、たぶん。推理小説とも相性良いからいくつか読んだことあるけど、徹底した論理であくまでも技術で想像を実現した世界が描かれていた。文字によって、その世界が描かれて……机の上には何もない。ノートも書籍も、パソコンすらも。あの人は、母は、どうやって小説書いてたんだろう。まさか原稿用紙に直筆? そんな文豪みたいなことするか? 書籍はそれなりの厚さ、つまり相応の文字数が費やされている。現代人、そこまでして腱鞘炎とともに生きるか? ノートパソコンとかタブレット端末とか、何らかのデバイスは使ってたんじゃあないか? 机を使わないなら用意する必要は無い。ノートも書籍も乗っていないならほかの用途があったはず。たとえば、執筆のため。机は重厚そうなデザインと質感。椅子を中心とした円形状。引き出しはないが、それぞれのパーツは厚く丈夫そうだ。また、机の端にコンセントプラグが接続できるようになっている。この机で電子機器の使用は想定されていた。ならば、その機器はどこに在る? なぜ今はここには無いの?


「……」


 疲れていると、どうしても良案と思えないものばかり浮かんでくる。気に入ったものでは無いからすぐ思考の渦に沈んでいく。これも保留。あ、そうだ。いろは歌といえばモールス信号。英語の符合と途中まで一致するんでねえかい? ほら、「O」と「レ」が一致するから、そうだよね。日本語は50文字だから富豪が、ちがう、符号。足りない文字については符号の数を増やして対応してる。27文字目の「こ」以降はなんか、んえー、って。うまい具合にね。モールス信号だったら、「ゐ」「ゑ」はどちらも長い。じゃあ、後ろのほうだ。日本語ってなんで50文字もあるんだろう。互換性、低過ぎ。


 


 あいうえおかきくけこさし すせそたちつてとなにぬ


 ねのはひふへほまみむめも や〇ゆ〇よらりるれろわを(ん)


 


 瞬間。


「互換性?」


 


 イロハニホヘトチリヌルヲ ワカヨタレソツネナラム


 ウヰノオクヤマケフコヱテ アサキユメミシエヒモセス


 


 脳内で50音が変な句切れかたをした。


 いろは歌も、カナで浮かんだ。


 いや、変じゃない。50音、いろは歌、同じ句切れかた。英語でもドイツ語でも、ほかのあらゆる言語でもアルファベットは30文字を超えない。50文字もあるのは日本語だけ。

 それに、色がついているのは……


「あい、し、た、わ」


 いろは歌だったら?


「イロ、ヲ、タ、セ……色を足せ」


 色。色って?


 扉とノートは4色。黒白赤青。四神もそれに一致する。動物は……青い寅、モノクロの丑、竜胆を見つけたなら卯は白い、赤い午、白い申、白い未、黒い亥、白い戌、茶色のfox……


「ふふっ、茶色のフォックス」


 自分の考えたことにセルフで笑いがこみ上げてきた。やばい、だいぶ疲れてるんだろうね、わたし。あー、さっきの補給も消耗したしアドレナリンも仕事飽きてるわ、これ。両手を首筋に当てながら題名を声に出した。発声に伴って首が震える。うん、引き際は心得ている。もう少し荒らしたら戦利品盗んでお暇だね。腕時計をつけてるのを思い出して確認する――4時32分だった。この季節、もうすぐ日の出だろう。うん、日の出目指して盗賊ごっこだ。寝ないようにするためにも壁際をぐるぐる回ろうね。目が回ったり徒歩で乗り物酔いしたりしちゃったらやめようね。


 よし。


 その場にいる生き物の色を六腑とするなら、竜胆も含めれば、10色。待って、わたしも生き物。2008年生まれの子年じゃん? ねずみ色って灰色だ。じゃあ、11色? あー、待って。被ってるんだよ色が。黒、茶、赤、青、紫、灰、白。無意識にこの順番にしちゃったらもう抵抗器のカラーコード鹿。鹿鹿。だめだ、ちょっと待って。真面目に考えよう。鹿じゃないんだよ、いないんだよ鹿は。


 まあ、カラーコードだから何だい? って話だよね。他にカラフルなものと言えば、乙姫に引っ張られて浦島子伝説のカラフルな亀が思い浮かぶ。島子の亀、ちゃんと扉と同じ4色はあるけれど黄色も入ってるんだよな。この塔に黄色のものある? わたしの思考回路はさっきからイエローカード出されてるけどさ。そういうことではないんだよな、残念ながら。


「ん……?」


 とてつもなく嫌な予感がする。カラーコードにおける紫は、青紫。竜胆も、青紫。つまり、パープルじゃなくて、ヴァイオレットで一致している。黒BLACK 茶BROWN 赤RED 青BLUE 紫VIOLET 灰GRAY 白WHITEから、色を足すと……AABBBCDEEEEGHIIIKLLLNOORRRTTVWWY……いろは歌もジャンプしてる狐も、この30文字のアルファベットでパングラムづくりを強要してる。もはやハラスメント。パングラム作りによるハラスメントだから、パンハラ。


 動揺して資料に躓いた。直後、足元に攻撃を受けた。白い扉の、申の足元から引き出しが飛び出してきたらしい。パンハラのほうが重要度高くて驚けなかった。ごめんな、申。


 引き出しにはノートが3冊入っていた。シールは張られていないが、他のノートと種類は同じだった。なんだっけ、このサイズ。学校で使っているのを横でふたつ並べたくらい。なんか、おっきめ。


 とりあえず、ありがとな申。撫でようと腕を伸ばしたら前方にバランスを崩して頭部を壁にのめりこませてしまった。そしたら引き出しが戻った。申の頭を何度かめりこませたが、何も起こらない。引き出しは、資料に躓いたから出てきて、めりこませたから戻ったらしい。


 パンハラ回避できないかとノートを検めた。3冊とも、ぱっと見でそういうもんじゃないと理解した。しばらく思考とともに体が硬直する。


 どれくらい経過したのか、急に照明が消えた。驚いて立ち上がると、数秒のラグがあって、再び照明が点いた。ノートをすべて腕に抱える。あとでちゃんと時間をかけなければならない。


 ほかに何をすればいい? もともと何しに来たんだっけか。たまて箱だ。ちょうど、他の資料の山の頂上に乗せた黒い箱が視界に入った。ヤタガラスからもらったやつ。これが、たまて箱? 想定していたのは、なんか、宝箱みたいなやつ。他方、これも直方体だから箱ではあるんだな。というか、匣? 中に手のひらサイズの何かが入っているサイズ感だ。


「は? 乙姫いなくね?」


 初歩的すぎて忘れてた。たまて箱は乙姫からもらうんだよ。これは烏からもらった匣なんだな。


 んで、龍はいるのに乙姫がいない。どうなってんだい?


「亀。亀亀亀亀亀亀」


 浦島太郎を誘った亀の正体が乙姫だったはず。


「オトヒメ……?」


 嫌な予感。浮かんできた予感に従って、トイレを確認したくなった。青い扉をスライドさせて開けた。中を念入りに確認する。良かった、トイレにいらっしゃったら謎解き投げ出して警察呼んでたわ。危ない危ない。


 よーし、続きを……いや――4時43分――もう潮時だ。わたしの脳が。色を足したパングラムは時間を掛けたらきっとできるだろうから移動しながら作ってみるとして。申がくれた3冊のノート。たまて箱では無いんだろうけど、この匣。そこら辺にあったものとともにコンビニ袋へ放りこんだ。


 赤い扉の脇に咲く竜胆の目の前の床を踏むと、赤が枠に溶けた。ローファーにつま先をひっかけて、スロープを上る。足の限界が近いのを自覚する。少なくとも、最寄り駅までは動いてもらわないと困る。こけそうになりながら階段を下って、龍宮城を出た。ちょうど日の出まもなく――4時48分――腕時計の短針を日光へ向けた。このとき、2と3の中間の方角が南。ふだんの出入り口は、龍宮城の東側らしかった。建物を回りこんで日の出を視界に入れた。ちょうど諏訪湖、富士山、日の出が同じ方角に見える。が、あまりにも眩しかった。龍宮城に隣接する小屋の影に隠れた。膝が小さく笑い始めた。立っているのもギリギリだと自覚する。駅へ向かう途中、一度だけ塔を見上げた。記憶の中よりも心なしか龍宮城は小さかった。最後にここへ来たときは7歳くらいだった。同学年のうち背は高いほうだったが、それでも120なかった。今は160くらいだから、40㎝くらい目線は高いんだ。


「そりゃそっか」


  歩きながら自覚した。わたし疲れるとよくしゃべるっぽいね。寝るよりは良いか。いや、良くないよ。寝たいよ。電車乗ったら寝るよ。3000と硬貨じゃらじゃら。どこまで行けるんだろう。都内だったら余裕だったのに。

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