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海 ゆくとき  作者: 涼華
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第6章  生きて虜囚の・・

海軍の投降兵達は、海兵隊の収容所に護送され、捕虜生活が始まった。幸いにも指揮官ハミルトン中尉は、捕虜に対し人道的な扱いを命じた。米軍は、彼らに塹壕掘りや道路の整備を行わせたが、三度の食事もきちんと与えられ、傷病兵に対する扱いも十分なものだった。五助達マラリアに罹った兵士にはキニーネが与えられ、快方に向かっている。兵士達は友軍の基地にいるときよりも血色も良く、動作もきびきびとしてきた。


「我々は、どうなるんですか?」ある日、五助が不安げに訪ねた。「ずいぶん、良い待遇です。しかし、後でひどい目に遭わされるんじゃ無いでしょうか?」


「そんなことはあるまい。ジュネーブ条約ってものがある。アメリカさんはそれを守る気だろうよ。問題はその後、日本に帰ってからだ。」一平は言った。


「吉崎特務大尉、日本に帰る日が来るんでしょうか?」五助がまた聞いた。


一平は頷くと、そのまま外のジャングルを見つめた。




日本には帰れるだろう。それもそんなに遠い日ではない。一平は思った。彼らが帰るとき、それは大日本帝国が負けたときに他ならない。勝った国が負けた国にしてきたことを思うと、故国の未来に対し暗澹たる気持ちになるのだった。植民地にされたアジアの国々を、また、アメリカ国内でも黒人やインデアンに対する差別を、五助と違い一平は自分の目で見てきた。それと同じ事を日本に対してもするに違いない。そんな話をまだ若い五助にする気にはなれなかった。なんで、こんな戦争を始めたんだ。勝ち目のない戦争をなぜ。一平の心はこの考えに突き当たると、その周りをぐるぐると回っている。




その日、ハミルトン中尉は、捕虜達を中庭に整列させた。


いつもと違う緊迫した状況に、捕虜達に不安が広がった。いよいよ処刑されるのか。それならば一矢でも報いてやろう。捕虜達の動揺を見透かすように、米軍兵士達が機関銃を構えながらぐるりと周りを取り囲んでいる。


「コレカラ、ジュウダイ、ハッピョウ、ガ、レィディオ、デ、アリ、マス。」たどたどしい日本語でハミルトン中尉が説明した。


捕虜達は、ラジオから聞こえる音声に集中した。ひどく聞こえにくく、とぎれとぎれの音声であった。初めて聞く声であった。




「朕深く・・世界の大勢と・・帝國の現状とに鑑み・・・・・・・堪へ難きを堪へ・・忍ひ難きを忍ひ・・以て万世の爲に太平を開かむと欲す・・・」




一平の心の中の、何かが砕け散った。


「吉崎特務大尉、何と言っているんです。」五助には難解すぎて理解できなかったのだ。


しかし、答えはない。「特務大尉!」


「負けたんだ。」ようやく一平は、つぶやいた。


「え?」


「大日本帝国は負けた。無条件降伏だ。今それを、陛下自ら、我々に述べられたんだ。ラジオから聞こえたのは、陛下のお声だ。」


五助の膝が小刻みに震えた。口の中がからからになるのを感じる。


「うそだ。そんなこと、嘘だ。負けるなんて、負けるなんて、何のために、俺たちは・・・」


五助は叫んだ、と思った。しかし、それはかすれた声にしかならなかった。


負けた。衝撃が捕虜達に広がる。


自暴自棄の攻撃を恐れて、米軍の兵士達は銃を構えた。しかし・・・、


一人、また一人と捕虜達は膝をついた。ある者は顔を土に埋め、ある者は地面を拳でたたいた。何のために戦ってきたのか。何のために、全てを犠牲にしたのか。何のための努力、何のために、何のために多くの者が死んだのか・・・。


捕虜の口から嗚咽が漏れた。一平も肩を震わせ、必死に涙をこらえた。今までの出来事が走馬燈のように浮かんだ。全てが終わった。何もかもが。貧しかった少年時代、入隊し訓練に精進を重ねた日々、戦功を立て昇進する夢、その全てが灰燼に帰したのだ。


ハミルトン中尉たちは、呆然と捕虜の様子を見つめている。無表情な日本兵達が見せる初めての激しい感情に彼らは戸惑った。しかし、信じていたものを全て失った日本兵の痛ましい姿に、米軍兵士達も同情を禁じ得なかった。彼らは既に敵ではなくなった兵士達を、黙って見つめることしかできなかった。




玉音放送を聞いた後、彼らは腑抜けのようになった。反抗的な態度を見せることもなく、従順に仕事をこなしていったが、目から光が消え、顔はいっそう無表情になった。人間というものは、どんなに戦況が厳しくとも、一縷の望みに賭けるものなのだろう。それがついえたとき・・・




戦争は終結したが、戦闘が終結したわけではない。ここF島でも、一平達海軍の部隊は降伏しても、山間部に展開する陸軍は未だに抵抗し続けた。早急に戦闘を終結させ、米軍の犠牲も最小にとどめねばならない。ハミルトン中尉は決断を迫られている。


ある日の夕食時に一平達の前でハミルトン中尉が、演説を始めた。いつもは片言の日本語で短い挨拶をするだけだが、この日は違った。彼は緊張した面差しで、壇上に立ち、英語で切々と何事かを訴え始めた。


「なんて言ってるんだろう?」五助が思わずつぶやいた。


「黙れ。」一平がたしなめる。


『勇敢なる日本の兵士諸君。あなた方はよく戦った。しかし、日本帝国はポツダム宣言を受理し、ここに完全に第二次世界大戦は終結したのです。もはや、あなた方は、我々の敵ではありません。我々と同じ仲間、友人です。同じ仲間としてあなた方にお願いがあるのです。お願いです、私の英語がわかる方、ぜひ協力して頂きたい。ここF島には、まだ、日本陸軍の残存部隊が、山間部に展開し、アメリカ軍に攻撃を仕掛けています。これ以上、彼らに無駄な犠牲を払わせたくないのです。我々は、彼らを全滅させるに十分な重火器も兵力も持っています。現地人の力を借りれば、本拠地をつくことも可能でしょう。しかし、戦争はもう終わったのです。これ以上の戦いは無意味だ。どうか皆さん、皆さんの友人である陸軍の兵士達を投降させる手助けをして下さい。そのためには、私の言葉を通訳する日本の兵士がどうしても必要なのです。どうか、我々にこれ以上、日本の兵隊を殺させないで下さい。』


ハミルトン中尉は、ここまで一気に演説すると、大きく息を吐き、コップの水を半分ほど飲んだ。


「なんていったんです。あの米兵?」五助が再び訪ねた。


「陸さんを降伏させるから、その通訳をして欲しいそうだ。」


「なんだ、楽して勝ちたいだけじゃないか。卑怯者。死ぬのがそんなに怖いのかよ。」五助は不愉快そうだった。


誰だって死にたくはない。そうだ、誰だって。一平はかすかに笑った。


「アメ公に協力するなんて真っ平です。」五助がささやいた。一平は眉をひそめた。


ハミルトン中尉は再び演説を始めた。


『日本軍は、武器弾薬だけでなく食料も医薬品も不足しているはずです。この瞬間にもジャングルの中で命を落としている兵士もいるかも知れません。皆さんの中で、私の通訳ができる方、協力をお願いします。それが、一人でも多くの仲間を救うことになるのです。・・・』


一瞬だが、一平はその若い米軍将校と目があった。一平はゆっくりと立ち上がった。


「特務大尉!」刺すような五助の言葉を背に、壇上に近づいた。


ハミルトン中尉は、近づいてくる捕虜を見つめた。30半ばの、日本人の中では背が高い面長の顔立ちの男だった。男は近づくと、口を開いた。


『ハミルトン中尉、私は海軍特務大尉、イッペイ・ヨシザキです。私でお役に立てることがあれば、喜んでお手伝い致しましょう。』滑らかな英語だった。


『感謝します。イッペイ・ヨシザキ大尉。』ハミルトン中尉は、安堵の笑みを浮かべると差し出された一平の手をしっかりと握った。


次の日から、一平はハミルトン中尉たちと、ジャングルを移動し、陸軍の部隊に、投降を呼びかけた。しかし、はかばかしい結果は得られなかった。何日経っても、一人の投降者も現れない。苛立ちが米軍将校の顔に表れている。


『今日も戦果無し。』副官のサンダース上等兵がため息をついた。二十歳になったばかりだそうだが、そばかすの残る顔は年よりも幼く見えた。


『全く、君たち日本兵の頑固さには呆れるよ。そんなに捕虜になるのがいやなのかね。それも戦争も終わっているのに』ハミルトン中尉の顔にも疲労の色が濃い。


『信じてないのです。大日本帝国が降伏するはずがない。敵の謀略だと。そう思っているのでしょう。』一平は説明した。


『我々には解らない。冷静に分析すれば、投降した方が効率的なはずなのに。』


そのときだった。薄暗い木陰から黒い人影が、バラバラと飛び出し、彼らを取り囲んだ。銃口が突きつけられた。


銃を構える暇もない。「待て、撃つな。」一平が叫ぶ。


「日本語?友軍か?」兵士の一人が叫んだ。


「うろたえるな。日系人だ。敵だ。射殺せよ。」隊長らしい男が低い声で命令した。佐官級の将校だな、軍服から瞬時に一平が判断した。


「待ってくれ。我々は銃を構えることもできない。勝敗の帰趨は明らかだ。最後に少しだけ話をさせてくれないか。」一平が静かに話しかけた。その態度に気勢をそがれたのか、兵士達の殺気が消えた。


「私は、吉崎一平海軍特務大尉である。天皇陛下の詔勅を伝えに来た。」その言葉に、兵士達に動揺が走った。一平は続けた。


「大日本帝国は無条件降伏した。戦争は終わったのだ。もう、これ以上戦うのはやめろ。アメリカ軍に投降し、皆、生きて故国くにに帰ろう。」


「貴様、気は確かか。軍人勅諭を忘れ、鬼畜米英の犬に成り下がったか。貴様それでも帝國軍人か!」怒りに震える声で隊長が言った。それに促されるように、銃口が突きつけられる。ひるまずに一平は続けた。


「陛下はおっしゃられたぞ。皆よく帝國のために戦ってくれた。しかし、戦争は終わった。これからは堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍んで、明日の日本のために、何としても生きて国に還れと、国に還って、日本を復興させる手助けをして欲しいと。日本は武装解除した。もう帝国陸軍も聯合艦隊もないのだ。」


「ごまかされるな。こいつは敵の間諜だ。撃て。」


銃口がハミルトン中尉に突きつけられた。一平は中尉をかばうように飛び出した。


「貴様、やはり米軍の犬だな。裏切り者、恥を知れ。」


「撃つなら私を撃て。この人達は殺させない。この人達を殺したら、お前達が生きて帰れなくなるからな。憎いなら私を撃て。私を撃って、そして、投降してくれ。もう、戦うのはやめよう。お前達にも親兄弟はいるだろう。国に還って親父やお袋のために働いてくれ。弟や妹たちが腹を空かして待っているぞ。お前達を待っている者のために、生きて日本に還れ。」


「撃て!」しかし、その号令に答える者はなかった。




最前列にいた兵士が、ふるえながら言葉を発した。「おっかさん・・・」兵士達は次々と膝をついた。米兵達は彼らを武装解除させていく。枯れ木のようになった腕から銃がはずされた。顔色も悪く、ほおがこけ、目だけがぎらぎらと光っていた。こんな体で良くも戦ったものだ。一平の胸は痛んだ。


ハミルトン中尉は、呆然としている陸軍士官に話しかけた。


『私は、アメリカ海兵隊所属、エドワード・ハミルトン中尉。』


『自分は、F島守備隊隊長、小杉重三中佐です。部下達をよろしくお願いします。』一平より若いその陸軍士官は静かに答えた。




小杉中佐が投降したことで、陸軍兵士の投降もスムーズに行われるようになった。小杉中佐はハミルトン中尉や一平に積極的に協力し、展開する小隊の位置や兵士達の潜んでいそうな場所を教えた。作戦の際には、小杉中佐も自ら拡声器をとり、兵士達に投降を呼びかけた。直属の上官からの投降命令である。兵士達は、ハミルトン中尉が拍子抜けするほど容易に投降した。


『あなたのおかげです。コスギ中佐。あなたがいなかったら、あなた方にも我々にも、もっと戦死者がでていたことでしょう。』


中佐は微かに微笑むと、首を振った。


しかし、その陸軍士官の変容を喜ばない者も多かった。陸軍の兵士達はある者は影で、ある者は公然と彼に対し侮蔑的な態度を取った。それに対し、士官は怒りも動揺も見せず水のように淡々と接していた。


「あいつぁ、口先ばっかりだ。」若い陸軍兵士が、五助に話しかけた。


「何が、生きて虜囚の・・・だよ。結局てめえも命が惜しくなったんだろうさ。死んだ連中は良い面の皮さ。」


「よせよ。そのおかげでお前らも助かったんだろ。」五助は後ろめたい気分になる。自分も最初米軍に協力する一平のことを快く思わなかったことを思い出していた。


「ああ、そうだけど。吉崎特務大尉が来てくれなかったら、みんな飢え死にだったなぁ。大尉こそ命の恩人だぜ。俺たちみんなそう思っている。あの大尉も軍人勅諭だ戦陣訓だって言ってたのかい。」


「いや、一度も言わなかったよ。」


「大したもんだ、やっぱり海軍さんは違うね。」


海軍将校だって、ろくでなしはいたさ。五助は言葉を飲み込んだ。




日本軍の投降作戦も九分通り終了したある日、ハミルトン中尉は、F島の捕虜を帰還させる準備が整ったことを一平達に話した。


『ハミルトン中尉、私はもう少しこちらで、残った部下を投降させたいのですが。』珍しく小杉中佐が意見を述べた。


『コスギ中佐、あなたのご厚意は嬉しいが、残っている兵士達は殆どいないと思われます。ですから、これ以上の作戦遂行は、効率的ではないと考えます。あなた方は一刻も早く占領下の日本に戻り、本来の仕事に就くのがベストと思います。』


『解りました。では、明日もう一日だけ、呼びかけさせて下さい。』


次の日、終日一平と小杉中佐は、ジャングルを歩き続けた。一人の投降者もないまま、帰還したとき、日は既に暮れていた。


「もう、お休み下さい。」憔悴しきった中佐をいたわるように一平は声をかけた。


「感謝する。兵士達がどこにいるか確認したいので、しばらく一人で考えさせてはもらえないだろうか。」


一平はうなずき、ハミルトン中尉を説得した。紙と鉛筆を手渡すと、中佐は一平に微かに頷いたようだった。そして個室にはいり地図をじっと見つめていた。程なく、乾いた音が個室に響いた。


部屋に飛び込んだハミルトン中尉は、息絶えた陸軍将校の姿を見つけた。辞世の言葉が、残されていた。中尉はそれを一平に見せた。


何ノ面目アリテ大君ニ見エン


一平は押し黙ったまま、捕虜達に遺書を見せた。かつて部下だった兵士達は呆然とそれを見つめている。その中に、かつて五助に話しかけた若い兵士も混じっていた。


『ヨシザキ大尉、何と書いてあるんだ。中国文字ばかりでは我々には解らない。』


『陛下に合わす顔がない。』一平はつぶやいた。ハミルトン中尉は、意味が飲み込めないようだった。


『天皇陛下に合わす顔がないと、遺書に書かれたのです。小杉中佐は。』一平は繰り返した。


『エンペラーだと、君たちは、いつも二言目にはエンペラーだ。そして自殺か。軍人だけではない。非戦闘員までもだ。なぜなんだ。ヨシザキ大尉。』


『我々は、生きて虜囚の辱めを受けずと教え込まれているのです。軍人だけではありません。民間人も同じです。』


『バカな、我々は捕虜を虐待したことなど一度もない。まして民間人に自殺を強要するなど、以ての外だ。民間人を守ってこその軍隊だろう。』


『我々は、天皇陛下の軍隊なのです。』


その言葉に、あっけにとられたようにハミルトン中尉は沈黙した。しばらくして、独り言のようにつぶやいた。


『エンペラーの軍隊・・・エンペラーの軍隊。そうか・・帝國軍では無い。エンペラー個人のための軍隊か。そうか。そうなのか。』握りしめた拳が震えている。


『だから、サイパンで民間人を守らなかったわけだ。バンザイ突撃で守備隊が全滅した後、どんな地獄が展開したのか。君は知っているのか。ヨシザキ大尉。』いつもの冷静で穏やかな中尉とは別人のようだった。


『マッピ岬に追いつめられた日本人は、我々の投降の呼びかけにも応じず、目の前で海に飛び込んで死んでいったよ。女子供もだ。我々はどうしてやることもできなかった。泣き叫ぶ子供達を実の親が情け容赦なく投げ込んだんだ。子供を投げ込もうとした父親を、私は思わず射殺してしまった。民間人だったのに・・・父親の遺体に取りすがって泣いていた子供の姿が俺の目に焼き付いて離れない。こんな惨い戦いがあるものか。それを強制したのはエンペラーだろう。そんな人間に・・なぜだ。イッペイ、なぜなんだ。なぜ君たちはそこまで服従するんだ。』


最後の言葉は、一平の心を動かした。激しい怒りが彼を包んだ。彼の感情は空気を通し、そこにいた全ての人々に突き刺さった。一平は、感情を抑えるように、静かに息をするとハミルトン中尉を見据えた。目の中に炎が見える。


『服従ではない。忠誠心だ。』静かな声だった。『ハミルトン中尉、一度でも、あなたは飢えたことがあるのか。土間にわらを敷き、牛や馬と同じように眠ったことがあるか。まともな服一つ無く、汚れた着物を着て裸足で歩き回ったことがあるのか。一番鶏が鳴く前から仕事にでて、夜は星が輝くまで働いたことがあるか。学校にもろくに行けず、読み書きもできず。世間一般からは貧乏人の小倅と軽蔑されたことがあるというのか。』


思いがけない言葉に、ハミルトン中尉は呆然と一平を見つめた。


『いや、あるはずがない、あなたは、白人だ。アングロサクソンなんだろう。最初から日の当たる場所にいる人間だ。そんなあなたに、わしらの気持ちがわかるはずがない。そんな、わしらに、綺麗な着物を着せてくれて、上手いものを食わしてくれたのが軍隊だった。それだけじゃない。読み書きもろくにできないわしらに一人前の教育をつけてくれたのも軍隊だ。軍隊だけが人間として扱ってくれた。軍隊だけがわしらにとって、日の当たる場所だった。貧乏のどん底にあるわしらにとって、軍隊にはいることだけが希望だった。軍隊で手柄を立てれば、故郷に錦が飾れるんだ。その軍隊を指揮されているのが、陛下であられたんだ。陛下のおかげで人間らしく生きられた。そうとも、恩義に感じているとも、わしらを人間扱いしてくれた、そのお方に対し、恩義に感じてどこが悪い。どこが悪いと言うんだ。』


その言葉は、そこにいた兵士達の心に染み通った。若い日本兵達のほおに涙が光っている。彼らだけではない、背の高い黒人兵も浅黒い肌のプエルトリコ系の兵士もまた目を潤ませていた。皆、社会の底辺にあえぐ人々の子弟であった。ハミルトン中尉はつぶやいた。


『ヨシザキ大尉、間違っている。軍隊は日の当たる場所なんかではない。人殺しをする組織なんだ。』


一平は深々と頭を下げた。




中尉は小杉中佐の埋葬を許可した。中尉の厚意により、弔砲を撃つことも許された。陸軍の兵士達が敬礼する中、小杉中佐の遺体はしめやかに荼毘に付された。一平は遺骨と遺品を中佐の部下に託した。




五助達はサンダース上等兵と親しくなったらしかった。言葉は通じなくとも、身振り手振りで何か楽しげに話している。髪や肌の色は違っても通じ合えたはずだ。戦う前にもっと何か方法があったはずだ。違う何かが・・・一平は思う。しかし全ては終わったのだ。


「あの米兵と何を話しているんだ。」ある夜、一平が訪ねた。


「野球の話であります。職業野球の。」なんとも長閑な話だ。一平は笑った。久しぶりの笑顔だった。


「サンダース上等兵は、私がベーブ・ルースやルー・ゲーリックを知っていることを話しますと大変喜び、『スクールボーイ・サワムラ・ヴェリ・ナイス』と、それで、私が『サワムラ、ダイド』と申しますと、悲しそうな顔して、ワタシ、サワムラピッチング、ミタイ、オモイマシタと言ったんです。」


「そうか。」二人はため息をつくと星空を見上げた。




ついに、船が到着した。日本に還れる。二度と故郷の土を踏むことはないと思っていた兵士達にとって、その喜びは筆舌に尽くしがたい。出航する日が間近に迫ったある日、一平は坂口兵曹長の遺骨を掘り出し、骨の一つ一つを洗い清めた。五助達も手伝った。


「一緒に日本に帰ろうな。」一平は物言わぬ部下に声をかけた。頭蓋骨に水を注ぐと眼窩からあふれ出し、あたかも泣いているように見えた。


「うれし泣きしてるみたいだ。兵曹長が。」誰かが言った。遺骨を荼毘に付すと、一平は、兵曹長と同郷の兵士にそれを託し、残った灰を布袋に集めた。


「必ず、会いに行くから。」一平は、遺骨箱にそっと手を置いた。


いよいよ、出航の日が来た。皆足下も軽く乗船していった。一平は列から離れると、ハミルトン中尉に別れの挨拶に戻った。


『お世話になりました。中尉。』


『あなたは立派な軍人でした。ヨシザキ大尉、でも、これからは、イッペイと呼びたい。友人として。また、いつか会いましょう。イッペイ。』


『有り難う。ハミルトン中尉。』


『テッドでいい。』ハミルトン中尉は笑った。


『また会いましょう。テッド。必ず。』『お元気で、イッペイ。』二人はしっかりと抱き合った。




出航の汽笛とともに、船は滑るように桟橋を離れた。F島が次第に遠ざかり、やがて視界から消えていった。海と空だけの青い世界を船は進んでいく。M海の周辺に船がさしかかったとき、吉崎特務大尉は、厳島の乗員達を甲板に整列させ、坂口兵曹長の遺灰を海にまいた。人々が敬礼する中、遺灰は、白いもやのように海面を漂いながら、すぐに波間に消えていった。長く厳島と共にあった準士官に対し、あるいはそれが、一番ふさわしい弔い方であったのかも知れない。


海の色が変わってきた。行く手に懐かしい日本の姿が現れるのは、もう間近だ。その姿を少しでも早く見たい。兵士達は甲板にたっている。


「還ってきたんですね。吉崎特務大尉。夢ではなく。」「そうだ。」


「中村一等水兵。あの遺品は持ってきたか。」


「砂知川一等水兵の手帳でありますか。はい、こちらに。」五助は胸のポケットを押さえた。




収容所の生活


かなり美化しています。実際は、陸軍と海軍は仲が悪くアメリカ兵の見ていないところで、リンチをしたり、泥棒の罪を着せ合ったりしたという話まである。収容所によっては、日本兵を虐待するところもあったらしい。アーロン収容所という本ではそういった描写がある。「シベリア抑留」の収容所ラーゲリのひどさは、「ラーゲリからきた遺書」(漫画もあり)に詳しい。

陸軍将校が自決するシーンは、実際に起これば、ハミルトン中尉は大変な罰を与えられたはずである。日本兵の特に将校の自殺を防ぐため、手錠をかけておいたということまでがあったそうだ。



玉音放送について


南方のF島に届くはずもなく、完全にフィクションです。



サイパン島の戦い


昭和19年5月、米軍がサイパン島に上陸し、戦端が開かれた。6月マリアナ沖海戦に聯合艦隊は大敗し、補給も脱出も不可能になった。そのとき、サイパン島には2万人以上の民間人(多くは沖縄県民)がいた。民間人のことを考えれば、守備隊は米軍に降伏すべきだったのかも知れない。しかし、生きて虜囚の辱めを受けずのもと、司令官の南雲中将・斉藤中将は自決、守備隊の兵士3万は玉砕。民間人達は、サイパン島最北端のマッピ岬から、海に飛び込んで自決した。サイパン島の美しい海が、血で赤く染まったはずである。子供を投げ落とそうとして米兵に射殺された父親の遺体とそばで泣いている子供の写真が残されている。サイパン島の犠牲者は軍民併せて5万5千人以上だといわれています。自決する民間人の多くが天皇陛下バンザイと叫んで死んでいったため、マッピ岬は、バンザイクリフと呼ばれるようになった。

降伏を拒否しての玉砕や自決は、各地で繰り返され、ついに沖縄で軍民あわせて20万以上の死者を出す沖縄の地上戦が展開される。この戦闘での沖縄県民の死者は10万以上、4人に1人が亡くなったことになる。


かつて沖縄に行ったときの、最南端の喜屋武岬の光景が忘れられません。一面に群青色のルリハコベが咲きツバメが飛ぶ、長閑で美しい風景でした。岬の先端にしゃがんで下を覗きました。断崖の遙か下で波が白く砕けていました。断崖に無数の白い御札がささっていました。「こんな綺麗なところでみんな死んだのか。悲しいな。」といった友人の言葉が耳に残っています。

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