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海 ゆくとき  作者: 涼華
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第3章  南   方

戦艦・厳島は、太平洋上を南下している。赤道近くになるにつれ、海は次第に凪いできている。熱帯特有の青く澄んだ海が美しい。珊瑚礁の近くは海の色がエメラルドグリーンに変わっている。青く澄んだ海と空を染めながら、今日も水平線に夕日が沈んでいく。この海で戦争が行われているのが信じられないほど、美しく、また長閑な風景である。


しかし、五助の心は晴れなかった。出撃前に聞いた「日本は負ける」という一平の言葉が耳にこびりついている。なぜあのようなことを言ったのか。若い一等水兵には解らなかった。ミッドウェー海戦の惨敗は伏せられていたから、戦況の実態は一兵卒の知るところではなかった。顔色の冴えない五助を心配して、自由時間に砂知川と金田が医務室へ行くよう声をかけた。医務室に行っても治るはずもない。五助が断ると、砂知川がのんびりと言った。


「お医者様でも、草津の湯でもってやつかい?」


砂知川にとって、戦争の行方など本当にどうでも良いことなのかも知れない。全く浮世離れした人だな。五助は呆れてしまう。五助自身も楽天家の所はあった。海で生きる者は、一々細かいことにこだわっては居られないのだ。しかし、一平の言葉は重大で、兵の志気に関わること故、おいそれと口には出せない。それがまた、五助の心を重くしていた。


「何だ。隠し事か。水くさい奴だな。」


金田が言った。彼は、五助の悩みが砂知川のようなのんきなものではないと解っている。


「吉崎特務中尉に、何を言われたんだい?」


五助は黙っている。彼は皮肉な笑いを浮かべた。


「アメリカさんに負けるとでも言ったのかい。特務中尉は。」


五助は仰天して金田の顔を見つめた。しかし、次に聞こえてきた言葉に、彼は一層驚いた。


「なんだ、そんなことか。」


金田だけではない、砂知川も殆ど同時に口に出したのである。


三人は、慌てて周りを見回した。幸いにも兵員室には、三人の他誰もいない。なぜ知っているのかと言いたげな五助に対し、金田は声を潜めると説明し始めた。


いかにも理工系の学生だった金田らしい説明だった。軍艦を作るには鉄、動かすには石油が必要だ。しかし、その二つとも国内にはない。海上補給に頼るとしても、遠方から運んでくるのは効率が悪い。補給路が絶たれればお仕舞いだ。それに対し、米国は2つとも国内で補充できる。経済力も日本よりずっと高い。戦艦や航空機の補充は簡単だ。


「じゃあ、金と油と鉄だって言うのかい。」いかにも物質主義的な金田の説明に、五助はふくれっ面になった。


そんな五助に対し、砂知川のした説明は変わっていた。彼は、米国は金持ちだという。そして、人生を楽しんでいる。そんな人間達には余裕が生まれる。この国の人間は、確かに一生懸命だ。でも、全然余裕が無いじゃないか。余裕のある人間と無い人間が喧嘩したら無い方が負けるだろう。国だって同じだ。


「じゃあ、何でこんな戦争始めたんです。」五助は思わず言った。


「何で始めたんだろうなぁ。」砂知川もため息をついた。


「負けるんだろうか。」五助は不安になった。


否定して欲しい。彼は心の中で思った。しかし二人は何も言わなかった。


「なあ、中村、」金田が尋ねた。


「お前は漁師だろう。海に出て、嵐に巻き込まれたらどうするんだい。」


そんな間抜けな漁師は、日本の、いや、世界のどこを探してもいないだろう。


「どうすることもできないよ。とにかく嵐の前に港に帰ることだけど。もし、巻き込まれたら」五助は考えた。


「運を天に任せて、嵐が過ぎるのを待つだけだなぁ。運が良ければ助かるぐらいかなぁ。」


「俺たちも、大嵐に巻き込まれてるんだ。運が良ければ助かる。それしかないんだろうよ。」金田がため息をついた。




戦艦・厳島の行き先は、R泊地である。ここに集結中の第一航空艦隊と合流し、M海に向け出撃する命令が下っていた。途中、敵潜水艦や、駆逐艦などとの散発的な戦闘はあったが、おおむね順調に寄港することができた。出撃前に、小西大佐は、艦の兵士達に上陸を許可した。カーキー色の作業服ではなく、白地の第二種軍装に着替えての上陸である。兵士達の喜びはひとしおだった。


五助達三人は、停泊地近くの日本兵街に行くことにした。熱帯の青く澄んだ空、まぶしい太陽の光、極彩色の鳥が飛び、街路樹に色とりどりの蘭の花が咲き乱れている。内地とは比べものにならないほど、鮮やかな色彩にあふれている。外地が初めての五助は夢中であたりを見回した。


「カフェに行こう。」砂知川が五助を呼んだ。


そんな洒落たものに入るのも、勿論、初めてだ。街路樹の緑の向こうに、カフェが見えてきた。コロニアル形式に似た二階建てのラウンジで、籐椅子に腰掛け三人は食事を取った。食事をゆったりととれるのは、出征後初めてだった。マンゴーやパパイヤなどの熱帯の果物は舌がとろけそうなほど甘い。給仕にきた若い現地の女性達と、彼らは談笑した。南の島での休日を満喫し、五助は植民地の“偉いさん”になったような気がしている。





一平は艦内を巡回していた。特に、主砲や高角砲等の兵装を念入りに検査した。既に整備が終わっているはずのもので、一平が検査する必要もなかったのであるが、何か気を紛らわさずにはいられなかったのだ。見ると、坂口兵曹長も同じように巡回している。



「吉崎特務中尉、巡回ですか。」


一平は苦笑した。


「坂口兵曹長、街に行って来れば良かったのに。」


「特務中尉こそ。」


二人は最上甲板に出た。主砲を見上げながら、頑張ってくれよと坂口兵曹長は声をかけている。


「今度の海戦は、日米の、文字通り最後の決戦になるだろうな。」一平がつぶやいた。


「どんな作戦なんでしょうね。」


「多分、航空戦力を結集して、向こうさんの機動部隊を叩く気だろうよ。」


「じゃあ、ミッドウェーの雪辱戦ですね。零戦の航続距離は世界一だから、それを利用して、遠方から攻撃して、敵の艦載機を」


「撃墜した後、こちらの戦艦が、砲撃戦を行う。そんなところだろうな。成功すればいいが。」


「きっと成功しますよ。零戦にかなう敵機は、どこにもないじゃないですか。航続距離・旋回性能・飛行速度。格闘戦をやって零戦に勝てる戦闘機は文字通りゼロです。」そう言いながらも、坂口兵曹長の顔色は冴えない。


「大事な作戦前だ。少し休息をとれ。」坂口兵曹長は、敬礼すると上甲板へ降りていった。


休息する気はあるまい。一平は部下の背を見ながら考えた。


虫の知らせというものだろうか。いつもならば戦いの前は気分が高揚するのだが、今回はなぜか気分が晴れなかった。下士官達の様子だけではない、この厳島も何か発する気が違う。そんな気さえした。意気地のないことだ。一平は自身に喝を入れている。制海権を維持するためには、制空権の維持が絶対条件だ。そのためには敵空母を撃沈し、航空戦力にダメージを与えることが一番のはずだ。零戦の航続距離を利用して、射程距離外から攻撃できれば、空母を敵の主砲から守ることができる。兵曹長の考えのとおりなのだ。


だが・・一平はさらに考える。特務士官や下士官風情で考えつくような戦法で果たして、敵機動部隊をたたけるのだろうか。いや、全く思いもつかないような戦法を司令部は考えているのかも知れない。彼はため息をついた。俺も焼きが回ったものだ。下手の考え休むに似たり、もはや戦いは始まっている。あとは、最善を尽くすのみのはずだ。一平は、高角砲を見上げた。


「頑張ってくれよ。」あとは心の中でつぶやいた。敵機来襲の時はお前達が頼りだぞ。




「土産買わなきゃ。」帰り道、五助が二人に言った。


「そうか、郵便船が来ると言ってたな。」金田も答えた。


故郷からの便りが来るという。この戦地で。本当に思いがけないことだった。カフェにほど近い、土産物屋で何か見つけることにした。五助は一抱えもあるバナナを買った。これなら、弟たちも腹一杯食べられることだろう。砂知川は洒落た絵はがきや便箋を求めている。女学生が好みそうなものだった。妹さんへの土産だな。五助はそう思った。金田は地図を買っている。誰への土産だろう。五助は不思議そうにその土産を見ている。


艦に戻ると、既に郵便船がきていた。慰問袋に入った家族からの贈り物を、兵士達は受け取った。懐かしい故郷の風が吹いている。彼らは、残してきた家族のことを思い起こした。兵士達は土産とともに家族への手紙を書かかされた。


「俺、手紙が一番苦手だぁ。何書いて良いか解らないや。」五助がぼやいた。


「何でも思ったとおり書けばいいさ。」金田が平然と言う。


「冗談じゃないよ。書けるわけ無いじゃないか。」


五助が言い返したのも当然で、海兵団以上に班長の検閲は厳しかったのだ。日本は負けると言っていたなどと書けば、どんな罰直(制裁)が下るか解らない。せいぜい、熱帯の島々が美しいことと、お国のために頑張ってますと言ったありきたりのことしか書けないのである。バナナと手紙を渡すと、早速班長にからかわれた。


「食い意地の張った奴だなぁ。お前という奴は。こんなにバナナを買い込みおって・・・」


班の兵士達は、大笑いしている。五助は、バナナを持って各兵員室を巡回させられた。戻ってきた五助を二人は慰めた。


「ひでぇなあ」五助はぼやいている。


「可哀相な目にあったなぁ。気にするなよ。」砂知川が気の毒そうに言った。


「兵曹達も、俺たちに里心がついて、戦意喪失は不味いと思ったんだろうさ。お前を笑い飛ばすことで喝を入れたかったんだろうよ。」そう言うと、金田は五助の肩を叩いた。


次の日、郵便船は去っていった。戦艦・厳島は、その日、最後の整備に追われた。




翌未明、艦長・小西大佐は、最上甲板に総員を整列させた。


「これより、厳島は、第一航空戦隊を護衛し、M海に向かう。ミッドウェーの雪辱を果たすべく、米太平洋艦隊との雌雄を決する時はきた。皇国の興亡を賭けて、この一戦に期待する。健闘を祈る。総員、直ちに戦闘配置につけ。」


第一航空戦隊は、空母を中心とする機動部隊のかなめである。その空母の一つ・翔鶴と併走しながら、戦艦・厳島はR泊地を後にした。目指すは、M海である。


一平は空母を見つめている。聯合艦隊の主力が結集したのだ。勝てるかも知れない。いや、勝つに決まっている。零戦が、敵戦闘機を叩いてくれれば、それに、向こうさんの戦闘機は速力に劣るF4Fだ。大丈夫、きっと勝てる。一平は前日までの不安を打ち消すように頷いている。




翌日未明、聯合艦隊は、M諸島沖、300海里の位置まで迫った。索敵機から敵主力艦隊発見の報を入電。いよいよ作戦開始である。午前7時半、第一次攻撃隊250機が発進した。


「総員見送りの位置に着け」の放送の元、戦艦・厳島の最上甲板でも兵士達が発進する攻撃隊に敬礼をしている。朝日の中、次々と航空機が発進していく。操縦士達は訓練を積んだ勇者達であり、搭乗機は空の王者・零戦である。ミッドウェーの雪辱を果たすときは着た。皆勇躍して、敵戦闘機を打ち落とすことだろう。結果が解るのは五〜六時間後だろうが、その後が我々の出番だ。一平は思う。


幸いにも、電探に敵駆逐艦や潜水艦の姿はない。まだ、我々は発見されていないのだ。一平は安堵した。




その頃、太平洋上に展開するアメリカ海軍駆逐艦から、艦隊司令部にある無電が入っていた。


「日本艦隊空母ヨリ、戦闘機250機発進。西ニ向カイツツアリ。」







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