誘い
うやむやなまま、その日は暮れた。出会えば、寒い、冷たいとうれしそうに挨拶する人々。雑談をし、自分でもある程度は体験して、皮子の言う通りだとわかる。
寒いことは寒い。めちゃくちゃ寒い。にもかかわらず、たとえ外で眠ったとしても凍死はしない。凍傷はもちろん、しもやけにすらならない。かなり動作や感覚が鈍くなるけどな。
ブルーノと二人、雪掻きに出て、帰ってきたら、ネジェムが倒れていた。閉め切ったままの部屋。熱を放ち続ける七輪。一酸化中毒を連想する。
口で息をしなくても平気。水の中でも呼吸ができるオレたちだけど、酸素か、それに準ずるものが必要であると立証されたわけだ。
「窓を開けろ。風を通せ」
「はい、リュウイチ様」
幸い発見が早く、すぐに気が付くネジェム。
「さむい」
一発殴ってやりたいが、意味がないんだよな。
煙を被れば息苦しい。その経験から、屋内で火を使う時は換気をするよう、口を酸っぱくして言ったのに。何かに夢中になれば忘れてしまう。身の安全に関しては、子供より性質がわるい。
「目を離したオレたちがわるいな」
「そう、ですね」
ため息まじりに肩を落とすと、ブルーノも頭を押さえている。
足の踏み場もないほど、木簡と紙が散乱していて、記録した何かが気になったのか、それとも、まとめようとでもしていたのか。努力の跡と言えないこともない。
とりあえず火事にならなくてよかった。片付けるのはオレと、主にブルーノなんだが。
「突然、目の前が暗くなった。おかげで、思い出したことがある」
うれしそうだな。懲りないな。自分の精神衛生のために、優秀でおバカな脳に最も近い、こめかみを拳固でぐりぐりやっておく。
「あたたたたっ。そんなにしたら、また忘れてしまうではないか」
「お茶を入れますね」
もう、これくらいでは動じないブルーノだ。七輪に乗っていた薬缶の湯に問題がないか、毒見をしてから、すばやくお茶を入れてくれる。あまり人のことは言えないが、ネジェムが何に使ったか、わかったものじゃないからな。
ご飯茶碗を思わせる器に、適量の茶葉を入れてお湯を注ぐだけ。急須は、ない。
散々、口にしておいてなんだが、黒い卵の殻やネジェムの分泌物で、飲食物に直接ふれる物をつくるのは抵抗がある。三層に大きな窯元があるという話だから、たどり着いたら注文しよう。
「で。何を思い出したって?」
お茶の葉と言いつつ、じつは何の葉っぱなのか不明だが、この町の住人は昔から飲んでいるそうだから、害はないはず。味は、半発酵のウーロン茶に近い。
「うむ。誘引の気について。我は弟子と、実験をしたことがあった」
「へぇ」
それはしているだろう。ネジ先生だもんな。
のん気に相槌を打って、直後、オレは茶を吹いた。
「下界の者同士では、子は為せぬのだ」
「ぶっ」
「リュウイチ様、大丈夫ですか。こちらでお拭きください」
ブルーノ、よく平静でいやれるな。いや、もしかして意味がわかってないのか。
訳がわかっていて、動じないネジェム。
「本来、一度産卵をすれば、その後、誘引の気を発することはない。その状態で、無理に事をなしたところで、子は為せぬ。そもそも赤子の状態で、誘引の気を発せられるにもかかわわらす、上界にのぼるのは何故か。自明の理である。ただ、もう一つほかに必要なものがあったはずだが、それがどうしても思い出せぬのだ。とりあえず例外的に、ここでも誘引の気を発するコレがいるのであるから、いま一度試してみるのはどうかと思うのだが」
海に臨む男ばかりの村で、まとめ役をしていた男の顔が脳裏を過ぎる。あの時は、適当に言葉を濁してたけど、そうなのか。そうなんだろうな。
まったく、探求者っていうやつは。
「断る」
「何故に?」
「不可能だからだ。ネジェムの言う通り、でなければ、わざわざ上へのぼる必要はない」
確信を持っているように断言してるが、内心は動揺の嵐。
ない。ない、ない、ない。知識に関しては信頼してるし、その姿勢を尊敬すらしているが、親しい婆様の面倒を見てるような感覚だ。時々親戚の子供か、妹がいたらこんなだろうかと思うこともあるけど。
そういう欲の対象として見たことは一度もないし。そもそも、そういう状態に、まったくならなくなってしまったんだ。
「そうであるか。そうであるな」
残念そうにしないでください。
「そうなのですね」
オレのことを絶対視してるブルーノは、首肯をくり返している。下手に質問されても困るが、本当にわかっているんだろうか。




