天敵のいる森
思い出したのは、老舗の料理屋の看板。一枚板の木地が風化し、墨で書かれた文字が、自然に浮き出る形になっていた。
確か、上等な墨は油煙で作ってたよな。
それが正しいかはわからない。油が多い木って言ったら、松か。素人考えに従ってうろうろ。屋敷の周りは広葉樹ばかり。北へ北へと移動して、宿舎らしき長屋の横を通過。急に視界がひらけた。
前方に、ひょっこり頭だけ覗かせているのは、赤松か? 手前にある木々も、ずいぶんと大きい。立派な姿が想像できるが、どうやら立ち枯れている。オレにとっては好都合。さて、あれを切り出すにはどうしたらよいだろう。
西側から続く渓谷は。三分の二ほど町に入り込んだ所で、絶壁の顎を閉じ、水の流れを地中へと潜り込ませる。そのため、北の森とは地続きになっていて。一キロメートル四方の草地を、見張る必要があるらしい。等間隔に組まれた櫓は三基。見張りの目は、森へと向いている。驚かせるつもりはない。支柱を叩いて気を引いてから、梯子を上る。並んで立つのは無理そうだ。数段下につかまって会話。ショートパンツ履いててくれてよかった。
「あそこに見える、枯れた木が欲しいんだが、切り出してもかまわないか?」
「いいよ」
あっさり。
「印の付いてる他の木も、ついでに切ってくれたら助かるんだけどな」
森の見通しをよくする計画はあるのだが、熊が出るので、なかなか伐採できないんだとか。真顔で言われて、腰が引ける。
「冗談、冗談。欲しいのだけ、とってくるといいよ。熊が出るのは本当だけど」
幸い彼女は、熊の意志がわかるらしい。一・五キロメートルほどの距離なら感じ取れるから、来たら知らせてくれるって。ありがたいけど、それ、ここからの距離だよな? 森のとば口から、二百メートルは向こうだ。あの松が生えてるの。
とにかく合図が聞こえたら、何を置いてもこちらに避難するように念を押された。
「間違っても木に登ってやり過ごそうなんて、馬鹿なこと考えないでね。走るのは本来ご法度だけど、草原にさえ逃げて来れば、あとは私たちが弓矢で追い払うから」
実際、そのためだけの見張り台なんだそうだ。
なかなか親切な女なので、気になっていたことを尋ねてみる。行く先の木々。猫ちぐらが掛かっているようにしか見えない。
「あなた、目がいいね」
かなり期待したのだが、答えは養蜂箱だった。言われてみれば、出入り口がかなり小さい。
そのくせ、蜂は一匹もいない。女の口調も、どことなく寂しそう。突っ込んだらいけないことなのか。迷っていると。別のことを言われた。
「あなたのお陰で、新しい収入減ができそう。皆、よろこんでる」
帽子を取って胸に当てる。ああ、なるほど。
「こっちこそ、格好いいの作ってもらって。過ごしやすいよ」
女は、真剣に帽子を見比べる。
「やっぱり、大隊長が作ったのは格好がいいね」
え? ポーカーフェイス、保ててよかった。
見張りの最中とはいえ、見晴らしのいい場所で。彼女は見ずとも、熊の位置がわかる。退屈してたのか。話し出したら止まらない。
ブルーノを介して、税は免除って言われてたな。給与とかどうなってるのか、聞いてみる。もらう前に税が引かれて。
「つまり、ゼロ?」
「住むところも、着るものも支給されてるから、文句は言えないけど。ご飯は三食、好きなだけ食べられるし」
保安隊は、他の四つの町から、年間契約で資金を得ているが。食費と装備費に消えてしまう。そこでずいぶん昔から、養蜂をやっていたらしい。
「いや。蜂飼いが保安隊をはじめたんだったっけ?」
まあ、とにかくいい収入源だったと。
「なのに、あのおバカさんたちが」
只今絶賛収容中の男たちの大半は、三年前に移住してきた新参者らしい。訓練も畑仕事もしない、酒造りだけに熱心で、当初から女たちの批判を浴びていた。売れば高価な蜂蜜の大半を、酒造に回して、失敗続きだったのだから当たり前だ。なぜ、そこまで勝手ができたのか不思議だが。
「あの小隊長、前は理論武装した嫌な奴だったんだ。いまは、単なるおバカだけど」
もしかしたら、学校の卒業生なのかもな。
梯子に絡めた腕が、少々くたびれてきたが。こんな興味深い話、途切らせるのはもったいない。
「腰巾着の祈祷師も味方してたしね」
そして、とうとう事件は起きた。
身勝手な連中だが、見張りくらいはできるだろう。保安隊の仕事が立て込んで、女性陣は皆、町を出ていた。
「熊を狩ることはしないのか?」
「うーん。難しいところなんだけど」
そうすると、蜂は森のあちこちに巣を作り、けっきょく他の動物に先を越されてしまう。
「熊とか、他の動物から守るからって、巣箱に巣を作らせてたんだ。なのに」
やっとミードを造り上げた男たちは、上機嫌で酒盛りをはじめてしまう。当然、見張りなんてしない。熊の侵入を許し、養蜂箱は壊滅。
もともとは、花畑のあちこちにあったそう。蜜蜂たちとの信頼関係が壊れたいま。何とか戻ってもらおうと、森の入口に猫ちぐらもどきが掛けてある。
大隊長であるアルキンパサよりも、町長が激怒した、あの日。
仕事から帰ってみれば、男たちは酔いつぶれており。熊が、闊歩していたのだ。強弓を持ち出し、やる気で射掛けようとするのを、必死で止めた。
「あの時は、怖かったぁ。怒らせちゃいけない人って、いるよね」
うん、うん。
もともと異性が苦手だったところ。怒りで霞んだ目には、胸毛や脛毛を披露している男たちが、熊に見えたらしい。それでも理性が働いたのか。鏑矢を射掛けるのを、もう誰も止められなかった。
青痣だらけの男たちは、ほとんど使われたことのない留置所に入れられた。
「先々週かな、やっと出されたんだけど」
名誉挽回となるはずのお仕事。農村の町の森でやらかした。
「あれは、私たちだってどうしようもなかった。話を聞けばわかる。だけど仮にも、他の町の人たちを安心させるための保安隊が、裸で街道を激走したんだよ? 大隊長の顏見て、自分たちで牢屋に入って、そのまんま」
納得の結果だ。
「話してくれてありがとう」
「ううん、こっちこそ。木、切りに行くんだったんだよね。愚痴っちゃってごめんね」
すっきりした顔で、いってらっしゃいと送り出される。
はぁ、男が皆こうならな。聞いた背中がむず痒い。




