ハインツという男
寝室におまるがあることに閉口してる。しかたないのか。住人の大半が、薄暗がりで歩行できる程度。ランタンがあっても、おっかなびっくりの奴もいる。
オレは崖を這いのぼる。夜の森は暗すぎて、逆に危険が少ない。地中をネズミくらいの生き物が移動していく。モグラか? 例によってコウモリが寄ってきて、すぐ離れる。皮子は飯中。
プライベートな時間も必要だ。ああ、すっきりした。
崖っぷちに立つ。またもや伏せ。
砂浜に誰かいる。そこから生まれる細かな波動。無理に音にするなら。ピィチュ、ピィチュ。ギュー。そんな感じ。意味はわからない。海からも似たものが返ってくる。
月でもあれば、絵になる光景だろう。沖を行くイルカの群れ。コウモリが付かず離れずしてるオレとは、えらい違いだ。
オレは、ハインツが寝床に戻るまで、その場にとどまった。いい奴なんだけど。用心を忘れさせてくれない。
雨は降らない。雲もない。空気はいつも適度に潤ってる。
石拾いに行こうとしてたら。連れを、漁から帰った連中にとられた。
「毒持ちの魚は、こいつしか捌けないんだ」「触っただけで、味がわかるから」
「それは、すごい」
泳ぎが得意とか。魚群を探知できる奴は多い。水中でにおいを嗅げる、なんてのもいる。風呂で、おならの犯人捜しするのは、どうかと思うが。
「すまん。約束してたのに」
「いいよ。別に急いでないし。オレも、うまいもん食いたい」
代わりに案内してくれたのは、ハインツだ。オレは、頼んでないが。
「わるいな、忙しいのに」
「いいんだよ。一緒に採ってきたいものがあるし。教えておくこともある」
絶妙なタイミング。さりげない気遣い。美形の男は何をやっても胡散臭い、はずなんだけどな。
船倉に通じる横穴。両腕を広げると、指先が岩壁に触れる。
「あ。灯りなくて大丈夫だった?」
「ああ」
試されてるのか? 探検気分もあるけど、いやな記憶も刺激されて。二重三重のドキドキだ。
船倉といっても、舟は見あたらない。なんだ? この段差。水があれば、舟を着けられそうだが。奥から差し込む、日の光。海から見ると、水面よりずっと上の岩壁にぽっかり穴が開いている状態。
貯蔵庫につながる細い通路。それとは別に、ゆったりとした上り坂。
「さっきよりだいぶ広いな」
「こっちは森に続いてる」
ますます嫌な予感。
「森を抜ければ街だ。おつかいに馬車を使うから。リュウイチは、もう少し馬と仲良くならないとね」
目立った凹凸のない。真っ暗な洞窟を十五分ほど歩いた。
「リュウイチが、ベベたちの面倒を上手に見てくれるから、助かるよ」
「それは。ハインツがやってることだろう」
「僕は駄目だよ。年生が離れすぎていて、つい甘くなる」
「いいんじゃないか」
オレも、褒められて伸びるタイプ。なにより、あいつらは理解してる。誰がボスか。
「ハインツは、何年生なんだ?」
「もうすぐ五百年生。そろそろ寿命が尽きるから、村に帰ってきたんだ」
あっさり言うから。オレはすんなり飲み込んでしまった。
「そうか」
慣れてる訳じゃない。十代で事故った同級生。社会人になってからの付き合いをのぞけば。喪服を着たのは二日だけ。その頃と違って、心の守り方は心得てる。
「その前はどうしてた? ずっと村にいたわけじゃないだろ」
「そうだね。三年生まで門番をしてた」
「門番?」
「村の生活全般が、それにあたる。中でも重要なことは。明日にでも手伝ってもらうよ。リュウイチなら大丈夫だろう」
明日わかるなら。明日、新鮮に驚こう。
「わかった」
「リュウイチは、聞き分けがいいね。僕なんか、その頃のまとめ役にわけもなく逆らって。村を出たんだ」
普段、聞き役に徹してる反動か。ハインツは自分の事をよくしゃべった。遺言ってほど重苦しくない。オレが手にするのに丁度いい参考書。
「街に出て。宿屋の下働きをしながら学校に行った」
「学校?」
「わからないことを知るところ。大先生が一人。生徒は増えたり、減ったり。出入りが激しかったけど。常時三十人はいたね」
年生も性別も問わない。特に決まった時間割もない。学校というより、私塾のようだ。
「大先生は教えるより、自分の知りたいことに夢中で。珍しい花のためなら、生徒が崖から落ちてもお構いなし。街の住人、一人残らず質問責めにして、煙たがられたり。雪探しを頼まれて、行き倒れた奴もいた」
生徒は、助手? 下僕? 大先生のための研究機関か。
「僕は、もった方だ。二十年生まで生徒で、百年ほど大先生のかわりに教えてた」
「ハインツ先生か」
いまも、その名残を感じる。
「話して聞かせるだけだよ。元の話は大先生が作っていたし」
あれか。休憩時、皆にせがまれてる。寓話。あれだけの量よく覚えてるな、って感心してたけど。
「その大先生とやらは、何が専門だったんだ?」
「何だろう? 薬を作ったり、人を怪我させたり。突然、二階から飛び下りたり、延々穴を掘らせたり。実はよくわからない」
「はぁ」
「何度も質問すると、うるさがるし。気の向いた時は長々話してくれたけど。その半分も理解できなかった。生徒同士で話し合おうにも、それぞれ記憶がまちまちで喧嘩になるんだ」
もしかして、文字がない? 生まれてこの方、原始寄りの生活で。うっかりしてた。
掛時計! 数字はあるんだな。それでも、かなり不自由だ。丸っと暗記とか、むり。
「僕も最初は、そこで配ってたおやつに引かれただけで。何が目的っていうより、調べる過程が楽しかったんだ」
「それが学問って言や、そうかな」
宇宙の真理、つまり、神様に近付くためだ、って言った奴がいる。
オレは今世も即物的。体質改善したいが。下手を打つと、代償は大きい。もっと、ふつうを装えるようになってからだな。
「時間はたっぷりあるんだし?」
「確かに。上質な暇つぶしだったね」
出口まで、あっという間。ガイドが代われば、ここまで違う。
鉄格子。忘れていた不安が、顔をのぞかせる。察するものがあるのか、ハインツの説明は丁寧だ。
「これは獣除けだから、必ず閉めること。錠が下ろされていたら、こうやって」
うちと外、どちらからでも開けられる。両開きの門扉だった。前の時も、形は違えど、落ち着けば開けられたのか。
「わかった」
「じゃあ、行こう」
渡されたのは、カウベル。それから、手斧。ベルトとホルスターはかっこいい。木でも切らされるのかと思ったが。猛獣対策らしい。どちらにしろ、気が進まない。
崖の上の森に出た。轍から逸れ、あるか無きかの道を行く。それさえ外れると。ハインツが何を目印にしてるのかわからない。
警戒するでもない、虫の羽音。木の洞。見覚えのある形に、ほっとする。
「これが気付けの実。の原料だ」
虎と共にかじった、黄色い団子の正体。
「花と種が同じ色。当然のようだけど、なぜって考えると不思議だよね」
すでに一度、手伝った。種を粉にして、ぬるま湯を加えて練って。丸めるには革手袋が必須。味見の許可を求めて、笑われた。ああ、うん。自分でも物好きだと思う。箸の先でちょっとだけ。おでんとか納豆に添えたいです。ゼラチンでコーティングするのが賢明。
「あ、それは違うよ」
菜の花と同じに見えて。葉の付き方が違う。
「なるほど」
「葉も食べられる。花はまずいっていう奴もいるけど、僕は好きだ」
手早く折り取っていく。そんなことをしたら種を採れなくなるんじゃ? 焦ったが。また、すぐ伸びるらしい。慣れてくると。花はもちろん、若芽や大きくなった葉、枯れた莢が目に留まる。
「リュウイチ、それくらいにしておこう」
声がかろうじて届く距離。もくもくと作業するのって、やばい。
「火打石はこっちだ」
ハインツはついでとばかりに、泉の場所。食用に適した実や、草、根について授業。色鮮やかな花を前に。食えるかどうか。毒か、薬になるのか。
「街へは、さっきの轍をたどれば。歩いて四、五日ってところ」
なんだ、家出のすすめか? オレはまだまだ、出てくつもりはないぞ。理不尽な教師を一人、知ったところで。街でやっていけるはずもない。ほかの土地ならなおのこと。
「それ以外の場所に、行ったことあるか?」
「あるよ。でも、まずは街に行くことだ。そこからでないと、ほかの場所には行けない」
やけに押すな。言ってる意味もよくわからん。それこそ、行って見ないとわからないってことか。
「夢の話を聞きに行かされたのには参った」
「夜見る夢のことか?」
「いや。向こうで起こったこと。僕たちが成長して、帰ってくるまでの話」
指さす先には、枝葉に囲まれた青空。言われてみれば、夢見るみたいにぼんやりしてた。女も動物たちも。満子とすごしたオレ自身も。
「結果はかんばしくなくて。皆、覚えてることが少なすぎるんだ」
「ハインツは覚えてるか? たとえば飯の事とか」
箸がある。誰かが覚えていたんだ。気軽に尋ねて後悔。
「運が良ければ、犬と並んで食べてた」
重い。
「五百年も前のことだし。ぼんやりとした情景だけど。怒鳴られたり、叩かれたりしてた気がする。まあ、うるさくも、痛くも感じないから」
「そんなに酷いのか。ふつうは」
「酷くもないけど。ふつうだから」
きょとんとされると、何も言えん。
「リュウイチは、どうだった?」
満子にしたことを自分がされたように話すしかない。
「なるほど。そういう行動をとるパートナーもいるのか」
「パートナー?」
違和感のある言葉。
「向こうでは、そう言うんじゃなかった? 番う相手のこと」
身も蓋もない言い方も、何か違う。
「リュウイチは、誘引の気がとても強かった、ってことかな」
フェロモンのこと? 満子は、そうだな。どこまでが幻覚で、現実だったのか、いまだわからない。ただ、オレって存在に合致してた。
同じ能力があってもいいはずだけど。オレはめちゃくちゃ引かれる。
「なぜだ」
「うーん。根っこを生やした人間とは、もともと相性いいわけで。そこまで引きつけなくても」
ごめん。何言ってんのか、全然わかんない。
「根っこ?」
「黒いあれだよ」
ハインツが両手で、わっと広がる何かを表す。引っかかるのは黒って色。たとえば卵の殻みたいな?
「ああ」
適当にわかったふり。慣れたものだ。
「それだけ厄介な相手だったのかな。気持ちは、そうそう繋がるものじゃないから」
ハインツが集めた。何万人もの、断片的な記憶。
満子は教えなくても。会話したり、数を数えたり。身繕いしたり。簡単な料理もできた。こっちのふつうを知った後では、それが珍しいことだとわかる。
「名前がないまま、帰ってくる子も多いよ」
だから余計、ベベたちにやさしいのか。あいつらに悪戯されて、声を荒げるのは、オレくらい。
誰が誰の子かなんて気にもしてない。誰とも似てない、異様に整った容姿。
「参考になることが少ないせいか。大先生との関係も微妙になってきて。それでも、二百年くらいは報告に帰ったり。街に行く人に伝言したりしてたんだ。でも、ある時ふっと。知ったから何なんだ、って思って」
「わかる気もする」
生きてることが先。何か目的があって生まれたわけじゃない。これが使命だなんて、そうそう思い込めるもんか。
「むしろ二百年も、よくもったな」
フィールドワークに学生、教師時代を足すと、三百二十年か? 人生、二度目のオレにも、想像がつかない。
「もしかして、褒めてる?」
「褒めてるよ」
それ以上開くと、目玉が落ちるんじゃないか?
「褒められたの、はじめてだよ」
それは。まわりの奴ら、怠慢がすぎる。こんなの、柄じゃないが。五百年だぞ? かわいそすぎるだろ。
「ハインツは、よくやってる。偉いよ」
「あはは。いいもんだね」
本気の照れ笑い。きれいなお姉さんに褒められれば、もっと気分が上がるだろうが。まあ、我慢のしどころってことで。
しっかし、おかしいな。街に行けばいるんだろう? 女。ないのかね? 金さえ払えば、褒め倒してくれるお店。
「こうして見るとわるくないね、僕の一生も。ただ、リュウイチの疑問に、きちんと答えられないのが申し訳ない」
えっ、なに聞いた? オレ。おかしなこと口走ってないよな。
「いや。適当に言ってるだけだし。本当に知りたければ、自分で調べるよ」
「そうか、そうだね。それが勉強だ」
そうそう。気にしない。だいたい凡人が、日常生活でいちいち哲学してられるか。
「そういうのが好きな連中に任せるよ、オレは」
惜しそうにするの、やめて。競争社会で十六年、机に嚙りつけば十分だ。
「で、自由になったハインツ先生は、何を?」
「あとは気ままに旅したり。気に入ったところで定住したり」
「あちこち女がいるんじゃないか?」
「あはは。それは秘密」
話しながらも歩き、採集する。ずだ袋は、いつの間にかいっぱいになっていた。
「今日は楽しかったよ。話聞いてくれてありがとう」
「いや、こっちこそ」
なんとなく。じいちゃんの家に遊びに行って。面倒見てもらったのに、小遣いもらったこと思い出す。
「ハインツ。もう少し、気抜いて暮らしてもいいんじゃないか。ほら、老い先短いんだし」
「そんなことも、はじめて言われた」
青年にしか見えない爺さまは、笑いが止まらないようだ。
「いまでも十分、気楽だけど。ありがとう。それから心配いらない。そんなにすぐ。今日あした死ぬわけじゃないから」
敵わないよな。とくに立派じゃなくても、生き延びた命の強かさは素晴らしい。嘘は言わなくても、わざと話さないこと沢山あるんじゃないか? 聞こえても、聞こえないふりをしたりな。
五百年先輩と張り合う気は、とうに失せてる。