海の見える村
3
「海だぁ」
がらりと変わった植生。磯のかおり。予感はあった。
前方すべて水平線。達成感がこみ上げる。
直後、草むらに伏せ。崖っぷちから下をのぞく。米粒大に見える人。男だ。集中すると細部までわかる。
いくつかの小屋。放し飼いにされた犬。
海藻干したり。網をつくろったり。上半身裸の男が八人ほど。
浜辺の小さな村。半円状に、この崖が守ってる。道らしきものは見あたらない。
這い下りる。絶壁に手足がくっつくような感覚。
ずっと下に組まれた足場へ。中腹から跳んで、着地。よもぎ湯のにおい? アパートの通路みたいに、木のドアが並んでる。ここも穴ぐら生活か。
手摺に掛かる渋茶色の布。乾いたのを選んで拝借。パレオの巻き方。動画見ててよかった。下の空き地で、男が一人。大鍋で何か煮て、
「おっ?」
すぐ脇のドアが開いた。逃げられない。ニュースで見た、動物園から脱走したサル。たいていは囲まれて。追い詰められて。
いや。オレ、人間だった。こちらから挨拶。
「どうも」
驚いてたのは、はじめだけ。笑顔だ。大丈夫か? うん、大丈夫そう。
「新顔だね。ようこそ。僕はハインツ」
いかにもハインツって感じ。敬礼したい容姿。いまのオレと同年代で。衣服も同じなのにな。
わるい奴じゃなさそうだけど。なんか、違和感。なんだ?
「オレは、リュウイチ。よろしく」
握手しつつ。はっ、と腹を押さえる。へそだ。オレにはある。ハインツにはない。
「どうかした?」
「や、ちょっと。さっきから腹具合が」
「それは大変だ」
急いで案内してくれる。傾斜のゆるい長梯子を、階段のように下りる。畑に植わってるのは葱か。向かう先に掘立て小屋。閉じ込められたりしないよな?
「何か温かいもの用意しておくから。ごゆっくり」
隅に積まれた枯草。板を渡しただけの穴。大きな柄杓と甕があるから、いちおう水洗? 意外に臭くない。皮子が興奮してる。微生物でも飼ってるのか。
「もう十分、食ってるだろ」
問題はへそだ。これが女たちに怖がられた理由かも。とりあえず隠す。女だけの村と違って、揃いの格好。一人だけハイウエストは不自然か。
噛んでた松ヤニをくぼみに詰める。皮子で蓋。よくよく見ると違和感。でも、男の腹だし。
「皮子。そこでぐるぐるしてられるか?」
ラジャ! 威勢はいい。無理なら、適宜はり直そう。
オレ、こっちから来たよな? どっちに行けばいいんだ。お、馬がいる。
うろうろしてたら。若い男たちに囲まれた。干物を抱えてる。浜で仕事してた連中か。こいつらも、へそないな。
「さっき、ハインツに聞いた。気付かんで、すまん」「迎え。間に合わなくて、わるかったな」「自力で上がってくるなんて、なかなかないぞ」「もしかして、あれ。全部食っちまったのか?」「すげぇ」
言葉の意味はわかる。問題は、オレの知識不足。オレがどっから来て、なに食ったって? 聞けない。ここにオレがいること自体は、おかしなことじゃないようだ。彼らの頭の中では、ハインツがオレに服を渡してた。
「あ、裸足だ」「あいつ、できる奴なんだが」「たまに抜けてんだよな」「ちょっと待ってろ」
うち一人が、走っていく。真新しいサンダルを持ってきた。
「そのために用意してあるんだから」「これから、よろしくな」
騙すのは心苦しい。オレには好都合。なんか、鼻水垂れてきた。
広い海。くり返される波の音。わからんことはわからん。そんな空気。
「なんで水平線がまっすぐなんだ」
「それは水平線だから」
「そっかぁ」
まとめ役のハインツに勧められて。木陰で一服。その間、次々人がくる。さっき会ったのとは別口。やっぱり、へそがない。新入りを見に来たのかと思いきや。それぞれ本気で訴えてる。誰それがこわい。何々がいじめる。挙句、口をそろえて。
「ハインツが教えてよ」
年齢は、オレやハインツと変わらないように見える。言動が幼い。ハインツは一人一人なだめて、送り出してる。オレならキレてるな。
「忙しなくて、ごめんよ」
「いや。こっちこそ手間かけさせた。ごちそうさま」
薬茶? 腹痛に効くらしい。うまくはないが。温度がしみる。
「さて。これからのことなんだけど」
ひやっとした。追われる危険を冒すより。とにかく落ち着いて暮らしたい。
ハインツを呼ぶ声。また一人、男が駆けてくる。助けて? 殺される?
物騒だな。ハインツが肩に手を置く。文句はトーンダウン。
「ベベ。口」
ハインツは、しかつめらしく口元を指す。しぶしぶ口を開く、巻き毛の男。
「ベベは、おふろ、きらい」
でかい子供だ。それより風呂だ。声に出さないで通じるとか。いまさら驚くか。
「風呂があるのか?」
「あるけど」
「行こう! 連れてってくれ、早く」
あっけにとられるハインツを急かす。子供? しかたないだろ。だって、風呂だ。
ベベが付いてくる。誰にも構われないのが嫌なんだな。
海側から、急な階段を上って、入る岩屋。
「おおっ」
洞窟温泉だ。十数人いっぺんに入れる広さ。石鹸まで置いてある。
「入っていいか?」
「あ、ああ。どうぞ」
ざっと体を洗って湯につかる。
「あーっ」
生まれ変わってよかった。ぬるめのお湯。いつまでも浸かっていられそう。
あっ、皮子。大丈夫か? 極楽? よかった。
岩を額縁にした海。空。なにもかも忘れちゃ、まずいよな。
「ごめん。話の途中で」
初対面で風呂入らせろ、とか。オレも図々しくなったもんだ。
「どうせだから。ハインツも入ったら?」
「そうさせてもらう。なんか、どっと疲れた」
ハインツは、ベベとにらみ合う男を労い、後を引き受ける。頑張って休むタイプ。
「あーっ」
声といっしょに魂もぬけそう。
洗い場には、ベベだけだ。指を湯につっ込んで、引っ込める。
「猫か」
「慣れてないんだよ」
ハインツがいるからか。ベベはおっかなびっくり入ろうとする。
「尻くらい洗え」
せっかくその気になったところ悪いが。これだけは譲れない。
「ハインツぅ」
大の男が、なんだそれ。オレは、対応しようとするハインツを止める。しばらくおろおろしている気配。
「ベベ、おふろ。はいった」
ほら、やればできるんだよ。気持ちよかろう。にらんできても無視。
「おい」
下手な犬かきは迷惑だ。せめて平泳ぎをしろ。
「こうだ。こう」
「あはは。すっかりベベに懐かれたね」
「いや、対抗心だろ」
まるで、うざったい弟。お前のせいで、話が進まないんだぞ?
「リュウイチも、ベベも。生まれたばっかりなんだから、急かなくていい」
むずかしいことを言わない奴。
「できることをやればいいんだ。いくつか大事な仕事があるけど。それは、少しずつ僕たちが教える。村を出ていくのも自由。戻ってくるのも自由だ。まだ、わからないことが多いだろうから。一緒にがんばろう」
手馴れてる。ベベたちが慕うわけだ。
崖の横穴は、寝室や貯蔵庫、船倉だった。左右の壁に二つずつあるくぼみ。形としては二段ベッドが二つある感じ。貯蔵庫では、そこが棚になる。
村にあるのは、最低限のものだけ。でも、必要なものは揃っている。
早めの夕飯がうれしい。砂浜から少しひっ込んだところにテーブルを並べる。総勢、十六名。多国籍な若い男たち。整いすぎ。そこに加わるのはなぁ。顔を一撫で。大丈夫だ。オレ、そんなに鼻高くない。
無難に配膳を手伝う。薪での火加減なんて自信ない。
「ベベ。うろうろしないで、それ持っておいで」「ベベ、きたよ。ひ、つける」
竈からカンテラに火を移す。
「もとの火種は?」
火の番をしてた男が、小石を鎌に打ち付けて見せる。
「火打ち石か」
オレ、よっぽど物欲しげな顔をしたのか。
「いっぱい落ちてるところがあるぞ。今度つれて行こうか?」
「絶対だぞ。約束な」
これほど童心に返れる場所もない。
そういえば、風呂場にもカンテラがあった。演出、のわけないか。あれ?
勧められた席に着く。一応、オレの紹介。もう食っていいかな。
「いただきます」
焼き魚、あぶったナン、野菜スープ。拝むよ。カトラリーケースには箸も入ってる。
「うまい」
ここに辿り着けてよかった。へまして追い出されないようにしないとな。
「ベベ。せめてスプーン遣いなよ」
犬食いしてる奴が、他二名。なんとかなるか。
ローテーションで回しながら、新人教育。何度でも教える。叱らない。できた連中だけに、柵もある。
「ハインツに頼まれたら、断れん」
皆がみんな、自主的にここにいるわけじゃない。
たまには青タンつくってる奴もいる。喧嘩? いま肩組んで笑ってる奴と?
こいつらが夕日に向かって走っても、驚かない。夕焼けとか、ないけどな。
夜明け五時。日暮、七時。一年中、変わらないらしい。一日が二十四時間。三十日で一月。十二カ月で一年。作業小屋の掛時計。なんで誰もネジ巻かないんだ。固っ。
朝起きたら全室、掃き出す。洗濯。無心にふみふみ。ある一点で、笑いがこみ上げる。絞るのが面倒。作れないか? 手回し脱水機。石臼はすでにあるんだし。
ベベ。ビビ。ボボ。逃げ回るのが日課。みんな長い目で見てる。名前、揶揄わないでよかった。付けたのはハインツらしい。三人とも、髭を剃るにも大騒ぎだ。髪を梳かさない。なかなか着替えない。畑の草むしりも。水汲みも。途中で放り出してしまう。
「しょうがねぇな。また、ぐずってんのか」「あいつら、一年生だから」
「は?」
「リュウイチもそうだろ」「そうだった」「なんか忘れるよな。これだけ使えると」
生まれて一年目ってことらしい。体の成長ぐあいが『歳』で。みんな二十五歳。生きた年月が『年生』か。二百年とか三百年、すでに生きてるって。信じられん。卵生のはずだけど。ストーンサークルは見あたらない。
おかしいな。想像通りなら、どこかにあるはずなんだ。雄だけの孵卵器。そこからオレも上がってきたことになってる。
「新顔みんな、こうだと楽なんだがな」「ばっか。俺たちだって、最初はあんなもんだったろ?」「そうだ。リュウイチが変わってんだよ」
心臓に悪い。
「あ、あんまり、おだてないでくれ」
実際、三十八年かけて得た知識も、さほど役に立たない。ロープの結び方、あやしい。魚をさばいたこと、なし。畑でさくを切ったこと、舟を組み上げたこと。あるわけない。
「まあまあ。急ぐ必要はないんだからさ」「そうだな」「のんびりやろうぜ」
彼らが口を濁すほど。銛の扱いが下手だ。上達も望めない。めげそうな時は、できることをやる。打ち寄せる波に紛れた魚。親指サイズ。すばしっこい。狙った時だけ、光の屈折分を目が補う。嘴みたいに指先を突き込み。掴む。
「おおっ」「驚いてる、驚いてる」
放って海に返す魚。一発芸って感じで受けた。
休憩はとってる。不安になるくらい。
気候はいい。いつでも魚が獲れる。風呂は勝手にわいてる。大らかにならない方がおかしい。へこむのは明日のオレ、ってことで。
馬の世話。教わろうとしたけど。三頭すべてが、オレと距離をとりたがる。犬は、もっと離れたところでマジ吠え。思い出したくない、疎外感。
「おかしいな。こいつら、おとなしい方だぞ」「なんか嫌がることやったか?」
そう言う奴らだって、完璧にできるわけじゃない。
「クウィーイイイ(背中かゆぅ)」
「そうかそうか。腹減ったんだな」
「イイイイイッ(ちげーよ馬鹿)」
馬と話がかみ合ってない。犬相手でもそう。
「とれたての魚だぞ」
「オウオウ(肉くれ)」
「そうか、うまいか」
海中の魚の動きはよく読む。
ベベがよく無言でハインツに話しかける。面倒でも声に出すように指導される。進んで使うことはなくても。皆そういう能力あるんじゃないのか。
一人の時に、遠くからトライ。なんで、オレを避けるんだ?
馬。あんたすっごい駄々漏れだから。犬。醸し出しすぎてて鼻が曲がる。
えらい言われよう。オレって、そんなにくさいわけ?
皮子。どう? 好き好き? ありがとう。
どんなに見目がよくても。男くさい連中は当てにならない。風呂だな。心行くまで浸かる。直後、三十分間だけブラッシングできた。そこだ、あっちだ。強くしろ、弱くしろ。要求がきびしい。一頭に集中しすぎると噛みつかれる。馬も犬も全部、雌だった。
また漂ってきたわよ、って。追い払われる。何なんだ。自分で感じるのは、家畜臭さ。また風呂だ。
「なんで、雌の馬がいるかって?」「街からつれてきたんだよ」「犬もな」
小麦や綿布もだな。人は確実に増えてくわけだし。ハインツの出入り自由宣言。有るところから、無いところへ。
馬の出所、あの村か。雌だし。街と交流してるんだ? びっくり。オレ即、追い出されたから。考えれば当たり前のことも、信じがたい。ここでは、いっさい話に出ない。女だけの村。存在自体、知らないのか?
此処のことは皆ただ、村、って言う。むこうもそうかもしれない。オレはこっそり、男村、女村って呼ぶ。
「雄は?」
男村に、雄の動物がいない。おかしいよな?
「雄の馬なんか、いるわけないだろ」「犬もそうだよ」「何言ってるんだ」「やっぱ、まだガキだな」
そこまで堂々言い切られると。いろいろ揺らぐ。
「魚は」
どうだった? さんざ食べてて、意識してなかった。
「海のもんに雌なんているか」「川うまれは雌だぞ」「俺もはじめは勘違いしてたな」
なんだそれ。でも、オレ。確かに見たぞ。
「ヒヒ。雌も雄もいるよな?」
「ヒヒ?」「毛長猿のことだろ」「それは俺らと同じだな」「両方いる」「雌の猿、どこで見たんだ?」
あぶなっ。ハインツに聞いたとでも言っておこう。
つまり、こういうことか? 陸の動物、雌だけ。海の動物、雄だけ。霊長類、って言っていいかわからんが。とにかく人とかサルっぽいものは両方いる。
「なんで、そんな生態なんだ?」
「なんでったって」「そういうもんだから」「おかしなことか?」「いいや」
ああ、もう。オレがわるかった。前世をもとにするから、おかしいんだ。
「ははははっ」
いいじゃないか。答え合わせが不要な世界。そこに、オレは生まれ変わった。
知りたいなら、見つけるしかない。知らんままでも生きていられる。何百年も。オレがその枠に入ってる、保証はないけどな。
「そうか。街か」
「街に行けば、女もいるぞ」
んー。その情報、いま、いらなかった。フェロモンだか忌避物質だか。これを何とかしないと、ろくろく猫と遊ぶこともできない。
めちゃくちゃ興味あるけど。女、好きだけど?
オレがこっちの常識にぎょっとするレベルで。オレもぎょっとされるんじゃないか?
ダッシュで逃げられたり。包丁持って追い返されたり?
「や。まだ、オレには早いよな」
「臆したか」「やっぱり、一年坊主だな」「情けねぇ」
見た目、二十五歳のおっさんたち。デリカシーなんて食い物だと思ってる。
くそう。皆、体は若いのに。なに、けろっと清い生活おくってんだ。そうでなくても、誤魔化しごまかしやってきたところ。目を引くのに、手酷い。女のことなんて、思い出さすなよ。