逃走
コココココ、コンッ。
草木が体をかすめる。小気味のいい音。
疲労感がひどい。虎はとっくに引き離した。
するすると木に登って一息。意識を保てそうにない。手近な枝葉を組む。かかったのは三分ほど。緑のベッドで眠っていた。
目を開いても暗闇だった。なぜかある別の感覚。輪郭を把握。風にゆれる木々。動き回ってるのは、虫とコウモリ。
ひどい目にあった。用心して無音で、叫ぶ。
コウモリが寄ってきた。仲間? なんだこいつ。違うとわかって逃げていく。
頭が冷えた。オレ、おかしい。これが世界の標準か?
男がいない村。卵。動物も雌だけ。逃げられただけよかったのかも。
死ぬのは一回で十分だ。前世のオレ、何やってんの? カマキリだってそうそう喰われないのに。強烈な。あれ、フェロモンか。わー。幸せなはずだよ。これは相手が、ほんとに美人だったかもあやしいな。
簡単な推理。あれだけ卵と成体を間近に見てたんだ。前世の記憶とつなげれば。卵から孵る。ちょこっと成長。違う世界に行く。育つ。交尾。帰還。産卵。
ふざけんなよ、って気持ち。同時に忘れらない充足感。いまだ恨む気にさせないところがすごい。かわいかったもんな。満子。いま、どうしてんのか。お父さんで、お兄ちゃんで、恋人のオレは、心配してるよ。って、我ながら引く。
オレの母親、満子じゃないか? 飛躍しすぎか。オレの父親がオレとか。混乱の極み。転生の仕組みがわからんし。
とにかく、女親はあの村にいたはず。迎えにきた女? 違う気がする。誰にしろ、完全無視か。産みっぱなしか。ひでぇな、ほんと。
愚痴ってるうちに寝てた。健全。
股間がかゆくて目が覚めた。明るい。今朝も元気だ。爪に引っかかったものをつまむ。はがれる。慌てたが、赤むけた様子はない。
「皮?」
手の平サイズ。はがしたばかりの人工皮膚みたいだ。
「きもっ」
葉の上に落ちる。小さな悲鳴が聞こえた気がした。
「生き物?」
ほんのわずか動く。返事のつもりらしい。
「カタツムリより遅いな」
ショック受けてる。こんな訳わからんもんと意思疎通できる、オレの方がショックだ。
何かをすごくがんばった、ってアピール。
「あ。お前が怪我、治してくれたとか?」
全裸で森を駆けぬけて、傷ひとつない。
否定。言葉にするなら、自分そんな力ないんで。正直なやつ。
「じゃあ、何してたわけ?」
はあ。よけいな細菌、食ってた? これで肌荒れしない?
「あ、ありがと」
やけに満足そう。雌らしい。微妙な気分。
ついては引き続きひっつかせろ、だって。
小さいし、薄いし、大して害はなさそうだけど。前世で雌に丸呑みされたしな。
「んなこと言って、オレのこと喰うんじゃないか?」
全力否定。落ち葉の下とか、水たまりが本来の餌場で。時々、放せばいいらしい。
「なんでオレに付いてきたがるんだ」
とにかくそうしたいってラブコール。なにそれ、照れる。
「うーん。まあ、いいか」
オレの方が強いし。話し相手がいなくなるのは、ちとしんどい。定位置は左肩な。
「くっ付いてる感じしないぞ」
へぇ、つま先立ちしてるんだ。いろいろ突っ込みたいが。
「すごいな」
得意げ。ずっとそうしてたら、オレ、気付かなかったよな。
半透明でわずかに顆粒があるくらい。目で探すのは大変だ。じわり、動き出したのが気配でわかる。
「おい、皮。ステイ」
指を突き付ける。
え、そんな名前じゃ、やだ?
「じゃ、皮子」
微妙にふくれている。そして移動してる。
「おい」
??! 自分で驚いてる。無意識に流動してるのか。
「生理現象なら、しょうがない。そこまでしょげなくていいだろ」
なに? 誕生日を思い出せないし。なんでこんなスタイルなのかもわからない。記憶喪失みたい?
いや、見るからにそんな複雑な生き物じゃないだろ。でも、その不安はわかる。
「自分で自分がわからないなんてよくあることだ」
尊敬の念、やめて。オレ、恥ずかしいこと言った。
「行くぞ」
無駄に急ぎたい気分。
「まずは飲み水だな」
の~んびり、突起が伸びはじめる。了解にしろ誘導にしろ、待ってたら日が暮れるな。空気のにおいを頼りに、自力で水場を見つける。
皮子にしかできないこと、あった。脇腹から引きはがして振る。オレが慎重に歩いてる間、うんともすんとも言わない。
「起きたか?」
え、寝てない? すねてただけ?
フキの葉もどきで作った柄杓。汲んだ水の雑菌や寄生虫を食べてくれると助かる。皮子は不機嫌そうだが、やるらしい。
その間、暇だ。火起こしに挑戦。気力が先に尽きた。
ふと思いついて、枯れ枝を腕に打ち付ける。
「おっ」
痛くない。さわった感じ。もう、ふつうの皮膚だ。勘違いかと思うほど、すぐに消えた硬さ。有機的な。昆虫の外骨格や、亀の甲羅を思わせる音。別の世界を知ってることが、いいのか、わるいのか。でもちょっと、わくわくする。さすがに石で実験する気はない。
謎のナイフについて検証。結論。材料がないからつくれない。取りに戻る? 怖いからやだ。縁があればまた出会うだろう。おかげでオレは助かった。来た方角に向かって、手を合わせておく。ワントーン空が明るくなった。気のせいか。
「腹へったな。皮子、まだ?」
のん気にしていられたのもそこまでだ。水辺にはほかの動物もやってくる。潜んでいるやつもいる。
「あっぶな」
木の上に緊急避難。水、ちょっとこぼれた。
「皮子、無事か?」
透けたひらひらが這い出してくる。よし。喉を湿らせることはできた。
「下流を目指せばいいか」
当てはないけど。とどまる理由もない。皮子も賛成してる。
地面。猛獣に出くわすのが怖い。気配を探りながらだと、時間がかかる。
枝から枝へ飛び移る。常に何かの縄張りに侵入している状態。どんどん移動する。
「アッアアー」
滑空しながら、探すものは決まっている。オレでも食べられる森のファーストフード。やっぱりサル目が口にするものか?
川から離れず、進んでいるうちは駄目だった。ちょっと休憩。頭つかおう。
理屈はわからなくても。虎の意志がわかった。コウモリを呼べた。皮子ともやり取りができる。じゃあ、他の生き物は?
落ち着いて、意識する範囲をひろげていく。ラジオの周波数みたいに、合う瞬間がある。いろんな動物の声。いろんな生き物の意志。だいたいが食い物のこと。次に多いのが、こっち来んなって威嚇。ここの生き物、求愛しないのな。
あ、これかな。
しばらく探し回る。動物も植物も、隠れるのうますぎ。やっとありつけた。
「味がする」
村でパクった野菜どうよう、お世辞にもおいしいとは言えない。前世のオレ、贅沢してた。
群れの端の方でおこぼれをもらう。周囲が示すのは警戒とちょっとの好奇心。不用意に近づいてくるやつはいない。いきなり攻撃してくるなんて稀。のはず。
ヒヒの雄、こわっ!
オス? うん、雄だった。いるんじゃないか、男。オレの中の、どうして坊やが騒ぐけど。なんか希望が見えてきた。
満腹ではない。そこまでもぐもぐしてたら、先へ進めない。第一いまは逃げなきゃな。