アーニャ登場
高所恐怖症は、遺伝しなかった。これで、へんなもん放出してなければな。
どう見ても、いつも通り暮らしてる人々。危機感ゼロ。いや、それでいいんだ。オレ、何もする気ないし。今日は偵察と、探し物。
立体迷路のような街だ。ややこしさはあるが、人の往来を妨げるものはない。機能してる四つの区画、それぞれに目印がある。岩の道や壁、屋上にも。ところどころ埋め込まれたタイル。
白が東ってことでいいのか? 街門のある表の顔だな。日用品を売る店と、小洒落たカフェやブティックが入り混じってる。二階以上は住居か。皆、お行儀よさそう。
赤は、たぶん役所関係。いちばん狭い。昔の音楽家みたいな、鬘を被った男が馬車に乗り込む。例の議会? 建物の造りはまわりと大差ない。公報してた連中が、撤収してくる。
青の区画は、白と同じくらい広いが。窓も扉も取り外された、空き部屋が目立つ。変なオブジェつくってる男とか。怪しげな煙を発生せてる女とか。喧嘩しながら金属鍛えてる男女とか。店舗部分も、怪しげな雰囲気。意外に客が出入りしてる。帽子、目深にかぶってな。
黒は唯一、街灯のある区画だ。まだ、灯はともってないが。道行く女の服装がもう、違う。気のせいでなく、キラキラしてる。
これだよ、これ。この泣きそうな気分を、皮子はわかってくれない。いまは近付けなくても。あるってことが希望につながるんだ!
ちょっと時間は早いが、一杯ひっかけて、ご機嫌な男連中。それを眺めながら。互いに突き合って、くすくす笑ってる女達。それぞれの会話を盗み聞き。
えーと。異性について、彼らは。眺めてると心地いいなぁ。お友達になれたらなぁ。くらいに思ってる。夫婦も少なからずいるようだが。スキンシップは、ぽっぺにチューまで。
人間相手には、やらないと決めてたが。速攻、読んだよ感情。奴ら、本気だ。
何、この世界。皆、産卵もしくは、それに携わった経験あるだろ。いや、あるからこそなのか。オレだけ変態、確定? 袋小路に面した屋上の縁で、膝を抱える。もともと色彩に乏しい街が、なお味気ない。
「ふっ、ふっ、ふーっ。や、やっと見つけた」
背後から響く、女の声。やばっ。こっち、もろ風上だ。
「こ、ここまでの。カモフラージュは、はじめてだけど。街のワンワンと呼ばれた、アタシの鼻は誤魔化せないっ」
なんか、へんなの来た。走ってきたのか、ぜいぜい言ってる。肺呼吸しなくていいんじゃなかったっけ? 格好つけて、びしっと右腕を伸ばすが。おしい。一メートル程ずれてる。
「さぁ、観念して出てこい」
言われて出ていく奴はいない。何が目的なのかもわからんし。
丸のまま革に加工したのか、継ぎ目のないレザースーツ。だぼだぼの胴体部分は紐で括って。襟を巾着みたいに絞ってる。美人だと思うんだよ。透けそうな肌の色。それを真っ赤にして、涙と鼻水と涎がね。大丈夫か、こいつ。
「くぅっ。さすがに、きつぅ。で、でもこれを一千万倍薄めれば、きっと完璧な誘引の香に、なる、はず」
あ、力尽きた。
風下に回って突いてみる。生きてはいる。気になること言ってたな。研究熱心なのか、商売に命かけてるのかは知らんが。どっかに、突き出すって感じではない。モルモットにされるのは勘弁だが。余計なものだけ取って渡せるなら、そうしたい。
カエルのようにうつ伏せてた体が、再び、びくっと震える。その姿勢から、いきなりジャンプ。
「捕った、ご飯の種ぇ」
特攻かけた先に、オレはいない。
ぎゃぁぁぁ。
しょうがない。真っ逆さまに落ちてく女を追って。オレは、宙に身を躍らせた。壁や回廊を蹴って加速。女をキャッチ、着地。
おーっ。
男共は歓声を上げるが。女達は悲鳴を上げ、逃げていく。気が弱いのは蹲って震えてる。それ見て警戒しない奴はいない。
めっちゃ見られてるな、オレ。えーと? 足元にうっすら影がある。もしかして、街灯のせいか? まだ、完全に夜にはなっていない。
「お、おろしてぇ」
俵抱きにしてたのを、とりあえず下す。女は、ふらふらしながら、項から下げてたものを被った。くぐもってるが、声は聞こえる。
『ふっ、ふっ、ふー。これでもう大丈夫』
おっ。変なやつだけど、見直したぞ。やはり継ぎ目のない革がデコルテまで覆ってる。それだけじゃ、単なる袋だが。瓶底二枚と。その二回りは大きい、フィルターが二つ付いてる。
『とりあえず、助けてくれてありがとう』
最低限の常識はあるらしい。周囲の反応も、かなり変化してる。
「アーニャの連れか」「ああ、だから」「へんな格好」「なんだ、新しい弟子か」「若いんだろうに、気の毒な」
パニックに陥りかけた女達ですら、憐れみの目でオレを見てる。怪しい実験の被験者って、位置付けらしい。まあ、結果オーライ?
マッドなサイエンティストかと思いきや。アーニャは、街公認の調香師だそうだ。住居兼研究室とやらへ。彼女の道案内に従って、手を引いて歩いてる。
ずれるガラスの位置を、うっとうしそうに直してしたアーニャだが。そのうち、あちこちにぶつかりはじめた。
『におい通さない君。空気は通すのに、なぜ、曇るかな? 製作者に文句、言ってやらなきゃ』
ぶつぶつ言ってるが。それは、全力疾走した直後、猛烈におしゃべりしながら使うことを想定してないんじゃないか。
マスク取って、離れて歩けばいいと思うだろ? 彼女、鼻の良さが並みじゃないらしい。姿が見えないほど離れてもきつい、って。うれしいんだか、悲しんだか。いや、革越しでさえ。むちむちの体を抱き上げたり、手をつないでいるのは、素直にうれしいと認めよう。ただ、アーニャだからな。
『お小水ちょうだい』
いきなり言われて、蹴倒さなかったのは、我ながら偉いと思う。なぜ、素直に手を引いてるかと言えば。彼女の持ってるマスクに興味がある。知り合いに医者もいるって言うし。本当は、オレがその防護服もどきを着れば、いいんだが。向こうが気付くまで、黙っとこう。
隣で、小さな怪獣が鳴いてる。そういや、オレも腹へったな。食堂らしき店から明かりが漏れてる。いい匂い。
どう考えても、オレの入店は営業妨害だ。金もない。アーニャは、こんな状態。やっぱり金がないらしい。店を出る客の声や、ドアベルから見当をつけたのか。
『そこの板の。図形の説明できれば、一食只になるんだけど』
指先から少し左にそれた辺り。確かに、畳ほどの板が掲げてある。描かれてるいろんなマーク。
「アーニャは?」
『一回、挑戦したよ。運よく、覚えてたのがあったから』
「適当に言ったんじゃ駄目なのか?」
『想像で答えるのもありだけど。食事にありつけるかは店主しだい。この階層で、嘘は吐けないからね』
「へ、へぇ」
階層? 真偽は定かじゃないが、アーニャはそう信じてる。
ズルするようで気が引けるが。店主が男だってことを確認して、呼び出してもらう。
「いらっしゃい。まず、興味を持ってくれてありがとう。こういうものがあるって、多くの人に知ってほしくて、こんなことをやってるんだ」
こっち来てはじめて会った、ぽっちゃり系。アーニャのゾンビ姿勢にも動じない。
「もう、オーダーストップだけど。挑戦者なら、中に入っていいのに」
同好の士を得たって感じで、にこにこしてるが。戸口に立つ、奥さんとおぼしき女性が、全力で首を横に振ってる。だよね。
アーニャも覚えてたらしいが。何か店の印ってくらいで、只飯にありついたとか。ハンバーガーって食べ物を売ってる店のマーク。建物の形をもとにしたらしい、って答えると。店主は言葉を失って。次を指さす。営業時間をもとにしたロゴマーク。次。ヒエログリフは読めんのでパス。と思ったが、すんごい昔の、鳥を象ったもんだ、って言ったらオーケーだった。ピクトグラム。そっち男、こっち女。あれ、マンジ? 逆だっけ? おおっ、家紋がある。花がモチーフの。家ってどう説明すればいいんだ。いいか、そこは。えーと、自分を示すもので。それを入れておくと、自分のものだってわかる印。
調子にのって全部答えたら。我に返った店主と、アーニャがこそこそ何か取引を始める。
毎日三食、二人前。テイクアウトする代わりに。似たようなもの、シンボルマークか絵文字か、まんま文字だな。それを教えること。
さっそく漢字を一つ教え。余り物で作ったとは思えない、ハンバーグサンドを渡される。
「よかったね。リュウイチ」
「アーニャもな」
ちゃっかり自分の分もキープしてるあたり。逞しいっていうか、何ていうか。
「そのフィルター。におい通さない君だっけ? その空気通すところだけでも、譲ってくれないか。文字、いや。図形、教えるのオレだし。飯代だと思って」
『そんなに安いもんじゃないよ。それに、アタシが教えなかったら、リュウイチだって、ご飯にありつけなかったでしょ』
それはそうなんだが。釈然としない。
『そんなにほしいなら、自分で交渉してよ』
作り手の紹介だけはしてくれるらしい。
『言っとくけど、へんな奴だよ』
お前が言うんじゃ、相当だな。
アーニャは、青の区画の一番上。五階に住んでた。水場と手洗いが一階にしかない。エレベーターなんて、当然ない。結果、いちばん家賃が安い。
向こう三軒両隣、真下が空き部屋だそうだ。自分の部屋を通り過ぎて、三つ目の扉をガンガン叩く。
『アジット。お客さんだよー』
すでに日は暮れて。外廊下から見る限り、部屋の内部にも光源はなさそうだ。
「寝てるんじゃないか? オレは明日でも」
『寝たい時、寝る奴だから。気を遣ってたら、何にも頼めないよ』
足音はしなかった。突然、扉が開く。
「うるせぇ。少しは気を遣え」
ナイトキャップってはじめて見た。浅黒い肌。骨格のしっかりした男に、案外、似合うな。蝋燭の灯りがゆらゆら揺れる。
『こちら、アジット。こちら、リュウイチ。におい通さない君の、空気穴がほしいんだって』
「ほう。あれに目をつけるとは、なかなか。ひとまず、中へどうぞ」
急ににっこり、握手。
「突然、押しかけて申し訳ない」
「いいってことよ。で、どういったタイプをお望みだ」
狭いダイニングに通されて。テーブルの上に次々、フィルターが並べられていく。あれ? 筒状のこれなんか、浄水器カートリッジにしか見えない。
「水の浄化用か?」
「おおっ。わかるか? これの価値が」
『アジットはねぇ。水汲みに降りるのが面倒で。自分のお小水飲もうとしてる、変態なんだ』
いや、それは。オレは挑戦できないけれども。
「非常に進んだ考え方だ」
無言でハグされた。よほど、理解されなかったんだな。街中に張り巡らされた水路の水は、飲用可能だって聞いてる。
「そこで、俺は考えた。水をきれいにできるんだ。臭いも取り除けるはずだ、ってな」
アーニャが頻繁に起こす異臭騒ぎ。アジットは、簡単に気体用にできると踏んだ、自分の愚かしさを語りはじめ。五分で、アーニャは離脱。
『こうなると長いんだ。アタシ、向こうでご飯食べてくる。リュウイチも、遠慮せずに食べた方がいいよ』
「なんだ。晩飯まだだったのか。よし、茶くらい入れてやる」
それ、やばい水じゃないよな?
素材探しの苦労を聞きながら、飯を食う。アジットは、あれこれ工夫しながら、独力でここまできたようだ。
「すごく役に立つはずなのに。わかってくれる奴が、なかなかいない」
「いや、すごい発明だと思う。ただ、何にどう使うかだよな」
「例えば?」
耳掛け式、簡易マスクの説明をする。
「風邪の予防?」
ぴんと来ないみたいだ。くしゃみは、わかるが。
「咳? 熱が上がるって?」
病気しないのか? まさかな。
防護スーツは、いまのところアーニャ専用。皮膚呼吸もするから、顔だけ覆っても意味がない、って。そうだった。
オレ、むきになってる。前世の知識、もっとパクるぞ。
「液体用の、もっと小型化できないか?」
「それだと、すぐ使えなくなるぞ?」
「そうか。水筒の口に、それが付いてれば。森とか、旅先でも安心して水飲めるかと思ったんだが」
「水筒? 水袋のことか」
「あと、逆にもっと大きくして。海水を真水に変えられたら便利だ」
「それは、面白いな。ついでに塩も取れるか?」
けっこうな時間がたっていたらしく。しびれを切らしたアーニャが、燭台片手に迎えにきた。
『男のおちゃべは嫌われるよ』
「おお? 長々とわるかったな。とりあえず、これと。これ、持っていけ。アーニャの手伝いするなら、絶対必要だからな」
なんか、いい具合に勘違いしてくれてる。代金はいらないって。
「次からは、貰うさ。それまでに、もっと改良しておく。いや、本当に参考になった。こっちこそありがとな」
あの目の輝き。妨害しておいてなんだが。ちゃんと寝ろよ。
『アジット、ケチなのに珍しい。図形もいっぱい知ってるし。リュウイチ、すごい奴だったんだね』
感心されて、わるい気はしない。すごいのは、確実にオレじゃないが。
『今日は遅いから、もう寝よう。明日こそ、よろしくね』
まだ、九時にもなってないと思う。オレが協力すると信じて疑わないアーニャ。姿を見るまで、新種の動物を追ってるつもりだったらしい。話せばわかるっていいね、だって。
「ほんとに泊めてもらっていいのか? 金もないし。ありがたいことは、ありがたいが」
『気にしないで。アタシ、空き部屋で寝るから』
ちらりと覗いた感じ。前々から、資料や器具を置き。比較的おとなしい香りの調合はしていた様子。
「大家は何も言わんのか?」
『ここは公営住宅だし。五階はもともと空きが多いし。役人も、ここまでは上がってこないし?』
確信犯かよ。
「じゃあ、世話になる」
何しれっと宿泊してんだって、話だが。オレのこれ、公害レベルだ。宿屋の戸を叩く勇気はない。森で野宿? 一向に構わないんだが。アーニャが承知しない。何とかオレから必要な物質を取り出して、誘引の香を完成させるんだって、息巻いてる。あ、におい嗅ぐのに息吸うよな。話すにも、吸わなきゃ吐けない。
「誘引の香って?」
既製品を嗅がせてもらった。さわやかな甘い匂いだ。
「まあ、ふつうに香水だな」
人に多少の好感を抱かせる効果はありそうだ。
『だよね。何が足りないのかなぁ』
植物だか鉱物だか虫だかの名前を羅列されたが、全然わからん。
『リュウイチも、とぉーーーーーーく、離れてるとこんな感じだよ?』
「近くだと?」
アーニャは、律儀なところがある。マスクを取って一息。無言で、床に屈み込んで。しばらく動かなかった。ぽつりと。
「自分って存在が、消えてくような恐怖を感じる」
心の底から、すみません。
アーニャは、すぐにガードを固めて。やる気をみなぎらせる。
『人生には華やぎが必要なんだ、って。受け売りなんだけどね』
敬愛する先輩の言葉だそうだ。このアーニャ、学校の卒業生だった。五十年生ちょっとで、まだ若いから。ハインツのことは知らない。
『リュウイチは見えてるから、必要ないかもだけど。蝋燭は好きに使っていいよ。火の始末だけは気をつけてね』
街公認になると支給されるらしい。オレがうらやましいのは、マッチだ。
『火付け棒? 竈に使うくらいだよ』
獣脂くさくなるから、調香はできない。それもあって、夜は早々に寝てしまうんだとか。
変人とはいえ女。おいしい絵面ではある。
「頼むから。オレの目につく所に、下着を干さないでください」
アーニャの精神年齢、高校生くらいだろ。しかも、純粋培養。素材としてしか見られてないのも、わかってる。




