みつ子
1
いま、ちょっと困っている。
中野龍一、三十八歳。
名前負け? 言われ慣れてる。スペックの値は、すべてが平均値だ。
いつも通り出社して、いつも通りに仕事を始めようと思っていた。細かな嫌がらせはいつものことだし。
きっかけはささいなことだ。本当に重要だかあやしい戦略会議。予備で出したオレのリスク回避案が、ちらっととり上げられたらしい。あいかわらず安月給。
それであいさつ返さないとか。社内メール送り付けまくるとか。仕事の優先度、逆に伝えるとか。お前ら小学生か。集団検診の時、マダムズファミリーに放り込まれたのが、地味にきつかった。
いとこがバリバリのヤンキーだった。オレは筋金入りの非暴力主義者になった。毎日あれだけ、おばさんが泣いてるのを見ればな。
それでも、いまだけは違う。生死に関することをネタにするのは、しゃれにならない。してはいけないと思う。
自分のデスクに、愛用のマグカップ。少々くたびれた花が一輪、生けてある。
オレは椅子を蹴りつけ、怒鳴った。
「お前ら一遍、呪われろ」
途端に景色は色を失った。
電話は途切れず鳴っている。同僚たちは何事もなかったかのように仕事をしている。ただ白黒映画の世界。
いつの間にか腕の中におさまっていた赤ん坊と、オレだけに色が付いていた。
「は?」
慌ててかかえ直す、猫くらいの重さ。病院の検査着のようなつくりのうぶ着を着ている。
周囲がこれに気付いているのか、いないのか。いまいちわからない。日頃から無視されまくってるからな。
「よ、四番入りまーす」
学生時代にしていた飲食店のアルバイト。その癖が出た。
駆け込んだのは授乳室だ。仮眠室よりせまいが、カーテンで仕切れるようになっている。人気のない、その一角を占拠した。
「ちょっと待て。待ってください」
なるべく距離をとりたい心理状態。敬語になるのもしかたない。
つぶらな瞳がこちらを見上げている。首は座っている。ほっぺもぷくぷくしている。それなりに育っているらしい。
わずかな安心材料片手に、オレはうろたえる。もみじのような手が、オレの胸をわきわきしているからだ。見事なふくらみ。こんなもの、さっきまでなかった。
かわいい顔が、猿に戻りそう。大音量の要求を理解せざるをえなかった。
ネクタイをかなぐり捨てる。ボタンを引きちぎるようにして、胸をはだける。
「おおっ」
あるはずのない豊満な乳房。そのやわらかさを堪能する前に、赤子に吸い付かれた。
「これは、うーん」
はっきり言って快感だ。はちきれんばかりに張って、苦しかった。それが解消されていく。こんなちっちゃなものが一生懸命生きている。重みと熱に満ち足りた気分になる。
自分にも父性があったとは。驚きだ。三十歳をすぎたあたりから、いろいろあきらめていたからな。
はっと思い当って股間をにぎる。よかった。あった。
安心して現実逃避ができる。ぼんやり光輝いている、見も知らぬ赤ん坊を放り出しもせず。あるはずのない乳で乳を与えつづけた。
「もういいのか」
あやしい知識で、たて抱きにした小さな背をさすさすしてやる。
げぷ。
腹がふくれれば、おねむのようだ。
オレは衣服を整えようとする。
「ははは」
自分がおかしいのか、世の中がおかしいのかの二択。オレは選択を保留し、ついでに意識も手放した。
うん、きのうは徹夜に近かったからな。睡眠はきちんととるべきだ。
目覚めると、オレは壁に寄り掛かった状態。二の腕にしがみつく赤ん坊。周囲のものに色はない。期待の夢おちならず。
警報のような声に従い、二度目の授乳。なにやら手慣れてきたよ。顔をのぞき込んで、話しかけたりしてさ。時計を見ると、三時間ほどたっていた。我ながらのん気な話だ。
飲んでるってことは、出すってことで。遅ればせながら、下の心配をする。だっこしている手の感覚からすると、この子おむつをしてない。ちらりとのぞくと案の上、ノーパンだった。
女の子だ。いろいろと衝撃的。
そろそろ昼休みだ。廊下が混み出す前にと、オレは思い切って移動した。目撃されたところで、ただの挙動不審な男が一人。その可能性は大。
通用口。表の受付と違って、せまく薄暗い。普段から、あまり人も通らない。その脇の警備員室。
白髪の老人が一人、暇を持て余していた。互いにネームプレートを見て名字を知っているていど。でも必ず、あいさつを返してくれる人だ。
他の人たちと同じく灰色の濃淡だけど、きちんと目が合った。ちょっとほっとする。結局、詳細をつげることはできず。
「これ、見えますか」
視界の端にぼんやり光るものが見えるのだが、と言うにとどめる。ワイシャツのボタンが、いまにも飛びそう。
人生の先輩は微笑んで、お茶を入れてくれた。
「それ、飛蚊症。疲れているんだよ」
涙が出るぜ。赤ん坊は両手両足で、オレの左腕にしがみついている。人間の子って、こんなに力あったっけ。
振り払う気になれない。むしろ、かわいく思えてしかたない。なんだこれ。
「もう少し落ち着いたら飯にしよう」
茶菓子まで出してもらって、くつろがないのも申し訳ない。
ためしに近付けた菓子は無視。赤ん坊は、オレの膝に移動して寝るもよう。
警備員室の無線に入電。間を置かず、中年の警備員が駆け込んでくる。
「病人です。救急車呼んだんで、通用口全開でお願いします」
普段は片方だけ、手動で開け閉めしているガラス扉。いつからか積んだままの段ボール箱を、オレも手伝い急いで運ぶ。十分もしないうちにサイレンの音が近付いてきた。
「エレベーター、せまいです。ストレッチャー、使えません」
救急隊員たちは布担架で抱えるようにして、傷病者を運んでくる。
外も内もけっこうな騒ぎになっている。誰の指示か、意地でも表玄関は使わせないらしい。全員が、オレたちの前を通りすぎていった。運ばれたのは皆、オレと同じ課の人間。
「のろわれた」
子供の声。いつの間にか、オレの指をつかんでいる小さな手。目が合った。得意そうな笑みを浮かべる四、五歳の女の子。さっきまで抱いていた赤ん坊がいないことに、疑問を抱かない。
「食中毒らしい」
野次馬たちの声が遠い。
「うわっ、私まだ食べてなくてよかった」
社食派と、コンビニ派と、手作り弁当派。全種そろって一つの課だけアウトって、あきらかにおかしいだろ。オレ、変な疑いかけられないよな。
「ざまぁみろだな」
しわがれた囁き。老警備員から目をそらす。
ほんと、心読むのやめてください。
「おにいちゃん、トイレ」
こちらは無視するわけにいかず。
この子すごいよ。空気読めてる。オレがあきらめきれない最後の一線を越えてこないんだ。一応、おじちゃんでいい、って言ったけど。
髪はツインテールになってるし、うぶ着と同色の服はワンピース。パンツは履いてるかわからん。こうなってる理屈もわからん。
ともかく、自分で下の始末ができる歳になってよかった。
女子トイレの入口付近で、またもや現実逃避をしているしだい。どうせ午前はさぼったし、今日のところは家に帰ろう。
通勤カバンは放置で。手洗いをすませた少女の手を引き、ゆっくり歩く。
誘拐犯に見えなきゃいいけど。って、他の奴には見えないんだった、この子。
あいかわらず世界は灰色で、オレの視線はどうしたってこの子に集中してしまう。大げさでなく、世界に二人だけって感じだ。
「自分の歳、わかるか?」
「いち、に、さん、よんさい」
「名前は?」
「ない」
うん。意思疎通ができるって素晴らしい。
不必要になったからか、オレの一部女体化も解けてるし。
名前がないのは、けしからん。この子が認識してないだけなのかもしれないが。親は地面の下というジェスチャー。
「おにいちゃん、つけて」
それでいいのか、少女よ。そして、オレ。
あきらかに普通の子じゃない。いきなり成長するし、輝いてるし。人とかものが、体を通り抜けてるし。もしかして、さわれるのオレだけ?
「おにいちゃんのなまえは?」
「龍一」
新しい言葉を口の中で転がす様がほほえましい。と、思ったら。
「りゅういち。おなかすいた」
いきなり呼び捨てか。まあ、いいけど。
「普通に食べられるのか」
「たべる」
「本当か?」
「ほんと」
疑わしいが、信じるしかない。さっきから、すかすか通行人を通している体。でも、オレの指は離さない。確かにふれられるし、あったかいんだよな。特にさわりはなくても、衝突をくり返すのは気の毒だ。抱き上げると満面の笑み。
この子、かわいいな。ぷくぷくのほっぺが特に。
「満子でいいか」
「みつこ」
気に入ったらしい。
ひさしぶりにスーパーマーケットに寄った。満子をステップカートに乗せる。本人の意識の問題なのか、ところてん状態にならなくてよかった。
彼女は黄色い長靴をはいていた。雨は降っていない。
「何か食べたいものあるか?」
元気な返事は、内容がいただけない。
「へびとかえる」
「生きてるの、とか言う」
赤べこのように首をふる。縦だか横だかわからんな。ごきげんなのはわかる。
一応近いものをいうことで、うなぎのかば焼きと、鳥の胸肉を選ぶ。満子は首をかしげている。
「うなぎも蛇も似たようなもんだ。食用ガエルの脚は鶏肉みたい、らしい」
母親より年上だろう女性が、人を凝視している。
話の内容のせいか。いや、大の男が一人でぶつくさ言っているのがぶきみなのか。
オレにしてみれば、薄墨の背景を気にする方が大変だ。
天然色の満子が、夕闇の中でひときわ輝く。宗教画のような後光。色は銀色。
独り住まいのアパートの一室。まあ、世間一般の想像通りだろう。きれい寄りだと自己弁護しておく。
満子は、とりあえず飯は食べた。箸は使えず、かろうじてスプーンをにぎる。風呂は理解できないようなので、一緒に入った。一人じゃ溺れるんじゃないかとか、ちゃんと洗えるのかとか、心配すればきりがない。変な趣味もないからな。
廊下を歩く音が不安定。満子は、はしゃいでいてもオレの手を離さない。何度かドアはパスしかけたが、自分で開けることもできる。
布団は一組しかないし、一緒に寝たがるのでそうした。
これからどうしようとか、不思議と悩まない。考えないわけではないが、思考がすぐに洗い流されてしまう感じだ。さすがに夢見は悪かった。
現実そのままに、母親に責め立てられている。おかげで結婚とか将来とか、単語を聞くだけでジンマシンが出そうだ。
ほっといてくれ、と怒鳴ったところで目が覚めた。
夢でよかった。夢だけで疲れる。
安物の羽根布団でも暑かったのか。満子は布団からはみ出していた。カーテン越しの薄明かりを頼りに、夏掛けをとり出しくるんでやる。ちょっと、いや、だいぶ大きくなっているような。
「まさかな」
暗がりで見間違えたのだと自分を納得させる。
近くの薬局の明かりがついている。まだ、いつもの就寝時間にすらなっていない。中途半端なねむけだ。おかげで携帯電話の震えに気付いてしまった。
相手を確認して洗面所へ。満子を起こしたくない。
「どうしたん、こんな時間に」
「いまさっき、ペロが死んじゃったのよ」
どこか気が抜けたような母親の声。ほっとするような、腹立たしいような。もろもろをのみ込んだ。
「そりゃ悲しいけどさ。寿命じゃないか」
「お医者さんもそう言ってた」
「親父は?」
「お父さんもそうだろうって。もう寝てる」
薄情なようだが、父親に一票だ。時代劇の悪役が飼っているような室内犬。母親にとっては家族以上。オレや弟を含めて男連中には不人気だった。弱いくせに人をなめきっていたのだ。
そういえば、買ってもらったばかりの長靴を駄目にされたっけ。にくにくしい気分が急激にわき起こり、静まる。まあ、あれは一代目のペロだけど。
明日には庭に埋めるという。オレは仕事があるし、週末まで帰れないと伝えて電話を切った。
オレはたぶん、いや絶対、帰らないだろう。霧が晴れた時のような気持ちで、すんなりと眠りについた。
満子は寒くなったのか、こちらに転がってきた。
「いま、いくつだ」
「九歳、かな?」
見間違えでなく、満子は大きくなっていた。オレのジャンパーが、ワンピースとしてちょうどいい。袖を何度も折り返し、髪も自分で結っている。
すごい。オレの中で猫が負けた。放つ光がちょっと黒ずんでいるのか気になる。
「何、食べたい?」
「目玉」
そこで区切るのやめなさい。ドキリとするから。
「焼き、な」
「焼く」
簡単な調理くらいできるらしい。もう、ドアも家具も突き抜けないんだな。深くは突っ込まず、まかせることにした。
オレは、パンをトースターにセットしながら、テレビをちら見する。特に興味があるわけではない。押さえておかないと、人間らしくなくなるからだ。
速報。興奮気味の声が、犯人逮捕の瞬間を伝える。ぶれた画面の中で、黒いジャンパーを頭からかぶせられた男が連行される。数人の女児に乱暴したとかなんとか。
「こんな奴、死ねばいいんだ」
子供の前であることも忘れて、つぶやく。
あっという間に、状況が変化する。犯人だという人物が、刑事や報道陣の波に沈む。リポーターはいっそう高らかにわめき立てる。そのうちに救急車両が到着。つい最近、どこかで見たような騒ぎだ。
目玉焼きはまだ出来ていない。
「十六歳になったよ」
すらりとした太ももがのぞいている。ポニーテールはそのままに、美少女が跳ねていた。どこぞのアイドルよりもかわいい。後光は限りなく黒に近かった。
「満子?」
「うん」
今日、会社、行かなくていいかな。オレは頭の隅で考える。朝食もまだすんでいない。
不吉さは感じない。むしろ喜ばしいことなんだと、何かが囁く。
あ、やばい。ドキドキする。蜂蜜以上に甘い匂い。
自分の年齢を呪文のように唱えて落ち着いた。
いったい何が起こっている?
目の前に、目玉焼きとトーストが並んでいる。インスタントのスープも付いている。
だけど、食べたいのはそんなものじゃない。色なしの食事はちっともおいしそうじゃない。
「ちくしょう」
本気で呪ったわけじゃない。だけど。少女はするりと大人になって、本物の闇をまとっていた。流れるような黒髪。その下には、およそ欠点のない白い裸体があるだけ。らんらんと光る瞳を美しいと思う。
オレはそれにさからえない。吸い寄せられるように互いが近付く。
「ありがとう、龍一さん。おかげで、私は大人になりました」
やわらかな声。はじめて聞く女の声なのに。
「満子」
「はい」
間違いなく彼女だとわかる。
「お前って、なに?」
「私は、満子。あなたが名付けてくれた。こういう生き物なんです」
そうなんだ。
「どっから来たの?」
白魚のような手が真下をしめす。そんなことは無意味だとは言わない。伝わってくるのは心からの謝意。
腑に落ちる。オレは彼女を育てさせられた。彼女によって。
理由も対価も必要ない。きれいって、ずるい。
たとえようのない快楽も。先がないって絶望も。もたらした以上にとり込む。満子は闇そのもの。
いとおしい。ほんとにそう思ってんの? 不確かなものに縋って、うねる波にのる。自身の絶叫と、かろやかな哄笑を聞く。
「龍一さん、大好きです」
だから全部よこせ。言われた気がした。やわらかな肌におおわれた四肢が、しがみついてくる。ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう。
痛い痛い痛い痛い。息が苦しい。でも、素晴らしい。
これに集中したいのに、くだらないことばかり思い浮かぶ。
観てない映画の続編。処分すべきデータリスト。残したラーメンスープ。臭くて捨てたパジャマ。いつも無駄に終わる筋トレ。眺めるだけの自転車。
おわりに満子。あれ? わるくない。
妖艶な唇が大きくひらいて。すべての輪郭が大きくゆがんだ。それが、オレを頭から押し包む。
わー。
全部搾り取られて、意識も体も闇に呑まれる。
暗くてあったかくて気持ちいい。
オスなんてこんなもん。