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◇◇◇
激しい殴り合いには発展しなかったためライルの殴られた箇所は顔に一か所だけだった。それでも腫れた箇所は地味に痛かった。
「まさかあなたが殴り合いの喧嘩をするなんてね」
と腰に手を当てて言うのはエイリッシュだ。昨晩のクラブでの出来事についてはローガンと喧嘩をしたとだけ言った。
クラブの、酒の席の話だ。
あまり過剰な騒ぎにはしたくなかったが、ライルは頬を一発殴られているので手当てをしないわけにもいかず、結構悲惨な見た目になった。
喧嘩という割には一方的に殴られただけなのでなんとなくもやもやする。ローガンは完全にライルを舐めていた。そのことについても腹が立ち、やはりあのときナイジェルを振り切ってでも一発お見舞いしておけばよかったと頭の中でぐるぐると考える。
「とにかく、あまりコーディアを心配させないのよ。あの子、今日起きてあなたのことを聞いて顔を真っ青にさせたんだから」
母の小言はまだ続きそうだったが、部屋の扉が叩かれる音が聞こえ、二人してそちらに視線を向けた。
ほどなくして入ってきたのはコーディアだった。
「お薬とか、氷を持ってきたのですが……」
「あら、わざわざありがとう。気が利くわね」
エイリッシュは「あとはあなたにおかませするわ」と言い嬉しそうに肩を揺らして部屋から出て行った。
反対にコーディアが「おじゃまします」と言ってそろりと入室する。
ライルの私室に入ってきたコーディアは物珍しそうにあたりを見渡した。思えば彼女を自分の部屋に招いたのは初めてのことだった。
私室といっても気の置けない友人を迎えるための簡単な応接セットが設えてある続き間だ。書斎は別にあるため、あとは小さな机や棚があるだけだ。
「あの、お怪我大丈夫でしょうか? 氷で冷やしますか?」
コーディアはライルの隣に座る。
青い瞳がこちらの身を案ずるように揺らめいている。ライルは彼女の瞳に吸い込まれそうになり、慌てて自制心をかき集めた。
「ありがとう。氷を貰う」
コーディアはあらかじめ用意していたのだろう、ゴム袋に入った氷をライルの頬に押しあてた。
看病をしているからかコーディアは顔色一つ変えないが、ほんの少しだけ彼女の指先が顔にあたりライルの方が緊張し身を強張らせた。
「大丈夫だ。自分で持てるから」
ライルはコーディアから氷の入った袋を取り上げる。
このままだと自分の心の方が持たない。コーディアはライルのことをどう思っているのだろう。男性の私室に入るのに緊張しないのだろうか。
「あ、あの……。痛くありませんか?」
「少し腫れただけだ。みんな大げさなんだ」
ライルは平気な声を出した。
このことでコーディアに気を病んでほしくない。そもそもの原因は最初に相手の安い挑発に乗ったライルの方にある。
「で、でも……。お相手はローガンだと伺いましたし……えっと、わたしたちの事情にライル様を巻き込んでしまっているようで心苦しいのです」
こういう顔をさせたくなかったからライルはローガンとの一件を詳しく語りたくはなかった。しかし、後々面倒になっても困るので一応両親には報告をしておいた。
正直にコーディアに言うことはないではないか。
「別にきみが謝ることではない。私が勝手にあいつの安い挑発に乗ったことが原因だ。きみがこの件で責任を感じることはないし、わたしたちなんて言わないでほしい。きみとローガンがまるで婚約者同志のようだ」
ライルはコーディアの言葉尻に鋭く反応してしまう。
「い、いえ……わたしと父との話で」
「そ、そうか……」
つまらないやきもちを焼いた自覚のあるライルは視線を少し逸らした。
「私の方でもヘンリー氏に連絡を取っているから、大丈夫だ。仕事が片付いたたら戻ってくるだろう。きみの方こそ色々と言われているんじゃないか? 女性はうわさ話を好むと聞いたことがある」
ライルとしては彼女の精神的負担の方が気にかかる。
女性というのは色恋沙汰のうわさ話が大好きだと聞いている。この辺のことは何事にも卒のないナイジェルからの知識である。
「わたしのことは大丈夫です。それに、エリーおばさまも励ましてくださいます」
コーディアはしっかりした口調だ。
ライルは軽く目を見張った。今はもう、彼女がライルの視線を避けて下を向くこともない。たまに顔を赤くしてぷいと顔をそらすことはあるが、ライルを怖がってのことではないと思えるくらいに二人の距離は縮まった。
「きみは……」
初めて出会った頃より強くなった。
「え……?」
ライルの中途半端な言葉にコーディアが瞬きをする。
「いや。私もきみの力になる」
「あ、ありがとうございます」
ライルの言葉を聞いてコーディアの顔がみるみるうちに赤く染まった。
「あの。その……ライル様にそう言ってもらえて……うれしい、です」
コーディアのはにかんだ顔はいつまででも見ていたいと思える愛らしい笑顔だった。
「い、いや。このくらい別に……」
コーディアがまぶしくてライルは言葉を忘れたように尻すぼみになる。
隣に座る少女をこのまま腕の中に閉じ込めてしまいたかった。
◇◇◇
マックギニス侯爵邸は朝から、といってもすでに昼前だが、女性の高い声が響いていた。
寝起きの彼女は化粧着姿のままローガンに詰め寄った。
「あなた、本気でコーディアと結婚をするつもりなの? ああローガン、考え直してちょうだい」
「お母さん。あまり眉間にしわを寄せると皺がつきますよ」
ローガンは適当に母の癇癪をあしらう。
マックギニス家の恒例行事でもある。ローガンの母エリーゼは息子の指摘にすぐに指を額にやり、丁寧に皺をもみほぐす。
「けれどね、お母様はやっぱり反対だわ。ヘンリーの娘は野蛮な南国の租界育ちで碌な礼儀もなっていないと聞くもの。伝統あるマックギニス家の妻にはふさわしくないわ」
「まあまあエリーゼ。少し落ち着こうじゃないか」
と親子の会話に割って入ったのは現在のマックギニス侯爵でもあるエイブラムだ。
「だって、あんな新聞の記事が出て! わたくしの可愛いローガンが噂の種になっているんですのよ! 黙っていられますか! わたくしまで笑われているのよ」
「まあ、少し落ち着こうじゃないか」
「あなた!」
夫の宥める口調にエリーゼはさらに語気を強めた。
ここ最近の日課になりつつある母の癇癪にうんざりしたローガンはその後二、三言適当にエリーゼを宥める言葉を発して部屋を後にして書斎へと移動した。
彼だって今日の目覚めは最悪だった。
それというのも、昨夜のクラブでライルとみっともなく醜態を晒したからだ。挑発したのはローガンの方だったが、まさかあんなにも簡単に乗ってくるとは思わなかた。どうやらローガンの指摘通り、コーディアに情を移したらしい。その割に口づけもまだだとは、さすがは紳士である。
ライル・デインズデールとは普段あまり交流がないため人となりまでは知らないが、名門侯爵家の嫡男であり、王宮に出入りをし、政治の研鑽を積む真面目な人物だということは知っている。
だから醜聞を流せばコーディアを放りだすだろうと踏んだのだが、なかなかにしぶとい。
ローガンだって本来このような醜聞とは無縁なのだ。自分から仕掛けておいてローガンは早くもむしゃくしゃしていた。
「それで、父上。ヘンリーの行方はわかったんです?」
妻を宥めてきたのだろう、ローガンよりも後からエイブラムが書斎に入ってきた。
書斎には父子二人きりである。
「事務所の人間は、ヘンリーは仕事で飛び回っている、との一点張りだ」
エイブラムは葉巻に火をつける。ローガンと同じ琥珀色の髪の毛は半分ほど白くなっている。
「早くコーディアとの結婚を整えなければね。おまえの結婚には我が家の行く末がかかっているのだ」
エイブラムの言葉にローガンは「分かっていますよ」と瞳を細めた。
マックギニス侯爵家はインデルクでも歴史ある一族だが、この数十年ほどの世間の改革からは取り残されている。技術革新だの列車の開通だ、中間層の台頭だと伝統を無視した革新が大陸中を席巻して久しい。
ローガンは爪を噛んだ。また、これらの改革をうまく利用し従来の貴族から爵位を取り上げた事件が約八十年前の出来事。マックギニス家は当時の当主の機転により難を逃れたが、以降新しく爵位を与えられた新興貴族が我が物顔でのさばっている。
マックギニス侯爵家の面々は伝統的な暮らしを好んでいる。労働することなく、領地からの収入だけで暮らしていく、従来のやり方だ。国の役職にもついていないし、事業などもってのほかなのに、この時勢に負けてローガンは投資に手を出してしまった。
父も同じである。
昔のやり方が通用しなくなってきているのだ。金回りは悪いのに伝統的な暮らしというものには金が必要だ。領地やいくつかある屋敷の維持費に貴族同士の付き合い。見栄もある。
金はいくらあっても足りない。
「僕だってあんな女娶りたくなんてないんだ。南国育ちの世間知らずなど」
ローガンにとっての結婚相手というものはきちんと教育をされた伝統的な貴族の娘だ。だからよく聞く莫大な持参金目当ての成金娘との縁談など考えることもなかった。
大事なことは伝統を守ることである。平民の血を侯爵家にいれることなど考えたくもない。
「そう言うな。ヘンリーの財産だぞ。いくらあると思っている。あいつは侯爵家の次男なんだ。稼いだ金をこちらに寄越すのは義務だろうに、それを今後はやめにしたいなどと世迷言をぬかしおって。最初独立するときに金を用立ててやったのはその侯爵家だ。恩をあだで返し追って」
エイブラムは忌々し気に舌打ちをする。
ちなみにその時借りた金などヘンリーはとっくに返しているし、その後何度も金を無心されるたびに彼はエイブラムらにそれらを用立てていた。その恩義などすっかり頭から消え去っている発言である。
最初ローガンはコーディアなどと結婚するつもりなどなかったのだ。
ローガンは貿易国ロルテームの貴族令嬢に目を付けた。公爵家で財産もたっぷりと有り、しかもその血筋は血統書付き。そこの家の次女をたぶらかし、あとは婚約をし、結婚式の日取りを決めるという段取りまでこぎつけたのに、娘の父がローガンの借金を調べ上げ、話自体を白紙に戻した。 大誤算だった。
ローガンは結婚相手の持参金を当てにしていたのである。そのお金で借金を清算しようと思っていたし、大層な財産家だったのでその後も色々と当てにできると踏んでいたのだ。
その娘も今では別の男の婚約者に収まっているというのも腹立たしい。
(いっそうのこと、コーディアも流行熱で死んでいてくれればよかったんだ)
ヘンリーの妻と息子は十数年前の流行熱で命を落としている。
と、ここでローガンは妙案を思いついた。ローガンは別にコーディアと結婚したいというわけではないのだ。彼女が手にするであろうヘンリーの財産が手に入れば問題はない。
「そうか……この手があったか」
くくっと笑い出した息子にエイブラムが眉を持ち上げる。
「どうしたんだ。突然笑い出しおって」
「いえ、別に。僕はちょっとこれから忙しくなりそうです」
ローガンはそれだけ言って書斎から出て行った。




