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◇◇◇
ムナガルの大きな港には一日に何艘もの船が行き交う。
最新式の軍艦や客船、たくさんの荷物を積んだ貨物船などその種類は多種多様。近隣諸国や島を回る定期船に乗るのは品物を買い付けに行く西大陸人だろうか。
コーディアが父に乗せられたのは西大陸行きの豪華客船。
造船技術が発達し、今までよりも快適に船の旅ができるようになり、ジュナーガルのような遠い異国ももはや地の果てではなくなった。物見遊山と称して遊びにやってくる人も増えたのである。
船は途中いくつかの寄港地に寄り約二か月かけて祖国へ到着するという。
肌を刺すような日差しが甲板に降り注ぎ、コーディアはまぶしさから目を細めた。
帽子をかぶり日傘をさしていても肌に感じる熱はさほど変わらない。それほどにこの地に注ぐ太陽の光は強いのだ。
コーディアにとってはこのまぶしさも暑さも濃い空色も陽に反射をして白く光った水面も当たり前のものだった。
最後の瞬間までムナガルの風景を目に焼き付けておきたいと思った。
もうこの地に帰ってくることはない。
本帰国をするというのはそういうこと。
コーディアが運よくムナガルを訪れることができるとすれば、それはきっと結婚をして子供を産んで、その子が成長して一区切りつき、夫の許可を取ることができたとき。
ディークシャーナは西大陸のほうがまだ女性の地位が上だというけれど、それでもまだ女性は結婚をしたら男性に従うものだとされているし、大学に入学する女性もまだ少ない。
コーディア自身、大学に行きたいかと聞かれたら、わからないと答えただろう。
寄宿学校では女性の教養として語学や歴史などは教わったけれど化学や数学などは教わっていない。計算などは本当に簡単なことを教えられただけだし、メンデス学長は卒業した生徒たちが、租界の男性に見初められ幸せな結婚をすることを望んでいた。
コーディアの考えを打ち消すように大きな汽笛の音が鳴る。地鳴りにも似た出発の合図が響くと、あたりの乗客たちが歓声を上げる。
コーディアの心臓がひときわ大きく鳴った。いよいよ、新しい土地へ向けて出発するのだ。コーディアはぎゅっと目をつむった。
船はゆっくりと港から離れていく。港が徐々に遠ざかっていく。
出航というイベントが終了すると甲板に出ていた人々は日差しから逃げるように屋内へと逃れて行った。
「コーディア、私たちも行くぞ」
「はい」
コーディアは父の後ろをついていく。
一等個室は続き間で、居間を挟んで寝室が二つと使用人用の控室や化粧部屋もついている。ここが船の上だということを忘れてしまいそうなくらい手の行き届いた設備が整っている。
コーディアは物珍し気に部屋の中を見て回る。室内にはふわふわのじゅうたんが敷かれているし寝台の大きさも申し分ない。鏡台の鏡はぴかぴかに磨かれている。
「コーディア、こちらへ来なさい」
父に呼ばれてコーディアは居間へ戻り、部屋付きの小間使いを紹介される。白い肌を持ったディルディーア大陸人だ。
「彼女とはインデルク語で話すように」
「は、はい……?」
おそらく小間使いは片言くらいならいくつかの言語を話すことができる。客船には多種多様な人種が乗船しているからだ。
コーディアが通っていたアーヴィラ女子寄宿学校の公用語はフランデール語だ。
ディルディーア大陸で一番通用するのがフランデール語であり、これはインデルクの隣国であるフラデニアやその東隣の国アルンレイヒを中心とした二か国周辺で使われている言葉である。
インデルクはフラデニアの西に位置するクラナトリー半島全域とダータン海峡を越えたイレーゲン島とミルファン島、その他いくつかの島からなる王国でインデルク語はその名の通りインデルク人のみが使っている言葉だ。
「コーディア、おまえ週に一度インデルク語を習ってきただろう」
ヘンリーは昔からコーディアに話すときは祖国の言葉を使う。租界の共通語はフランデール語、が一般的だった。
「は……はい。そうなんですが……」
週に一度、それもコーディアよりも十五も年上のインデルク人の婦人との会話だけではなかなかに無理がある。
「フランデール語とロルテーム語はどのくらい喋れる?」
「ええと、フランデール語のほうが最近では第一言語に近いような……? 夢もフランデール語でみるし。ロルテーム語は、好きな作品があの国のものなので普通に読めるくらいには」
「なるほど。それで祖国の言葉がそれか……」
今コーディアがしゃべっているのはフランデール語なまりの入ったインデルク語だ。
自分では自覚がないが、父の表情を察するに発音がかなりフランデール語寄りなのだろう。そういえば、インデルク語の夫人からも何度もある子音の箇所で注意を受けていた。
コーディアは身を縮ませた。
しかし、ムナガルで生活をしているとどうしても最初に覚える言葉はフランデール語になってしまう。
マーサだってフランデール語しか話せない。
ロルテーム語というのはフラデニアの北に位置するロルテーム王国で話されている言葉だが、貿易大国なのでこの国の言葉を話せる人間も多い。
祖国の言葉が西大陸での通用度が低いのがいけないのだ、とコーディアは勝手な責任転嫁をする。
「まあいい。今日からは全ての会話はインデルク語にするんだ。これから、おまえはインデルク人と結婚をして、インデルクで暮らしていくことになる。発音は帰国後に教師を雇うよう手配をする。いいね」
「はい」
コーディアは神妙に頷いた。
「ああそうだ。忘れるところだった。これを渡しておく」
付け加えるようにヘンリーは胸の内ポケットから手帳を取り出した。彼は手帳から紙を抜き取った。
そのままコーディアに渡されるからコーディアは身構えなしに受け取ってしまった。
手の中に納まったのは紙切れ、ではなく、写真だった。
「おまえの結婚相手だ。ライル・デインズデール。デインズデール侯爵家の嫡男だ」
突然未来の夫の写真を渡されたコーディアはあやうく写真を落としそうになった。
◇◇◇
船が北西へ進んで行くたびに空気が乾燥し、冷たくなっていった。
季節は九月である。アーヴィラ女子寄宿学校では新学期の始まる月になった。
二か月かけてようやく到着したインデルク王国の港町。
灰色の重たい雲が分厚く広がっているし、昼間だというのに霧で見通しが悪い。
港近くの建物はどれも濃い灰色の煉瓦造りで小さな窓が規則正しく並んでいる。
人夫たちはチャコールグレイや農茶などのジャケットを着ている者が大半で、険しい顔をして早足で行き来している。
ついにたどり着いてしまった。
久しぶりの陸地に安堵するはずなのに、徐々に目的地に近づくにしたがってコーディアの心にひたひたと得も知れぬものが侵食していく。それは新しい生活に対する不安や恐れなどだ。
それに……。
「コーディア、いくぞ」
ヘンリーはコーディアの感傷などまるでお構いなしに急かしてくる。
コーディアはついに生れて初めて祖国の地に降り立った。
降り立ったら休む暇もなく駅舎へと馬車で向かい列車に乗せられた。もうちょっと何か感動してもよいはずなのに、あいにくとそんなものは何も訪れなかった。
生まれて初めて乗る列車だ。
一等客室へ誘導され、父と向かい合わせで着席をする。父の隣には秘書官がいて、ヘンリーは彼と難しい話を始めてしまった。
列車がゆっくりと動き出し、コーディアは男二人の話の邪魔にならないように気配を殺し、何とはなしに窓の外へ視線をやる。
列車に乗ったのはもちろん初めてだ。
狭い租界には必要のない物だからだ。
ディークシャーナ曰く、うちの藩王国にも列車を導入したいのよねとのことだったが、それだって巨額の資金とディルディーア大陸の技術が必要ですぐにどうにかできるものではないとのことだった。
流れるように過ぎていく建物や丘陵地帯はこれまでコーディアが生きてきた南の国とはまるで違う。
それに、この寒さ。
インデルク王国は現在九月。四季というものは知識では知っていたけれど、寒さを感じたのは初めてだ。
コーディアはぶるりと身を震わせた。
客船が西へ進み、北へと進路を変えるにつれ、空気が乾き冷たくなっていった。
毎日蒸し暑くて水浴びをしていたムナガルでの生活が恋しい。
コーディアの気持ちとは裏腹に汽車は順調に進んで、途中休憩を挟みつつ王都ケイヴォンに到着をした。
ついたころにはすっかり日が暮れていた。
列車にずっと揺られ続けていたので一等車とはいえすっかり体が固まってしまった。
ホテルにようやくたどり着いたとき、コーディアは一直線に寝台へ向かった。
バタンと、寝台へ倒れこむ。
「もうすぐ、この人に会うのよね」
コーディアは一人つぶやいた。
独り言なのでフランデール語がついて出る。
船に乗っているときは現実味がなかった。
まだどこか、他人事だった。
渡された写真の中には一人の男性が映っている。年の頃は二十代前半だろうか。
暗い髪色をした男性の上半身の写真である。
口を真一文字に結び、写真機のレンズを射抜くような険しい眼差し。整った顔からは感情を読み取ることができなかった。
本当にこの人がわたしの旦那様になるのかな。小さいころから寄宿学校生活をしていたコーディアは男性と話すことが滅多になかった。
コーディアは写真を眺めるたびに不安になる。
こんな怖そうな人と一緒になれるのかしら、と。
だってこの写真の人、ちっとも笑っていないし、むしろ睨みつけているし。実物も写真と大差なかったらどうしよう。結婚したら同じ部屋で一緒の寝台で眠るはず。
と、そこまで考えてコーディアは胸を押さえた。緊張で口から心臓が飛び出しそうだ。
今まで考えないようにしていた不安感が一気に襲い掛かってくる。
もう、ここまで来てしまった。
明日には婚約者と対面しなければならない。
移動で疲れているはずなのに、ちっとも眠くなってこなくて、その晩コーディアが眠りについたのは夜もだいぶ更けてからだった。