6話 私が理由になるから
しばらくして、彼女のもとから体を退けた俺は、もう泣き止んでいた。ほんと、男のくせにみっともない姿をさらしてしまった。この少女に合わせる顔がない。
どうにか、雰囲気を変えないと…
...そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。
いや普通会った時に聞いておくべきだよな。
「あーなあ...名前、聞いていいか?」
まだ涙が拭いきれていない俺は、そっぽを向いて尋ねた。
「ふぇっ?は、はい!私は、ビアンカ...。ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティって言います!」
彼女もまた、涙を残したまま微笑んだ。
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ、か。これまたファンタジックな名前が出てきたな。いかにも異世界ものらしい、西洋風の名前だ。
「じゃあ、ビアンカ...だな」
「はい、よろしくお願いします!」
涙を浮かべたまま、再度嬉しそうにはにかんだ。その表情に押し出された涙が頬を伝う。
ビアンカ、か。こいつ、名前の響きまで可愛らしいな。
「あ、あの…そちらは?」
「あ?ああ、そうだったな」
聞くだけ聞いといて満足しかけていた。危ない危ない。危うく、レジを済ませて金だけ払って品物置いて出て行くやつみたいになるところだった。
「えーとだな....」
…あれ、なんだっけ?
自分でもびっくりしたが、自分の名前というのは長い間名乗らないと忘れてしまうようで、この時の俺はちょうどその状態だった。
5秒ほど頭をフル回転させ、自分の名前を思い出す。
あーそうだそうだ。
「一条 秀だ」
「ぇ....」
特に意味がこめられているわけでもない。そもそも意味が込められているかどうかなんて親に聞いてみたこともない。まあ、単に響きがいいだけ、とかそんなところだろう。
とはいえ、気に入ってはいる。「しゅう」という短い名前、響きもいいし呼びやすい。まあ、呼ばれたことなどほとんどないが。
しばらく返事が返ってこないので、彼女の方へ目を見やると、何やら顔を伏せているようだった。
「…おい、聞いてるか?」
「は、はい、ごめんなさい!イチジョ― シューさんですね」
イチジョー↗シュー↘という独特のイントネーションで呼ばれた俺の名前に少し違和感を覚えつつも、わざわざ訂正するのも面倒なのでそのままにしておく。
「じゃあシューさん!よろしくおね」
「あー、待て待て。敬語はやめてくれ。タメ口にしろ」
「た、タメ口?ですか?えぇ…えと…」
なんだこいつ、タメ口知らないのか。
彼女に説明しようと試みたが、語句の意味ってフィーリングとかニュアンスで捉えているとこがあって、いざ説明するとなると難しいものだ。
「あーほら、俺が今使ってる言葉みたいなやつがタメ口っていうんだ」
分かりやすい説明だろ?俺が今使ってる話し方が、まさにそう「タメ口」なのだ。
しかし、俺のワカリヤスイ説明も空しく
「わ、分かりました!…じゃなくてえーと、わ、分かったぞシューさん!よろしくな!!」
「いやいやいや!!そうじゃねえだろ!それにシューさんってタメ口になりきってないじゃねえか」
こいつ、思ったよりバカなのだろうか。
「え?!なんか変でした?!」
「なんかっていうか全部な!」
うーんしかし、これはこれでいいかもしれない。可愛らしい声に男っぽい口調。そのギャップは何かそそるものがある。
いやいや、アホか俺は。何を欲望に負けてるんだよ。
…違うぞ?そういう性癖とかねえからな?ほんとだぞ?
「えーと、だからな...。こ、こういう感じだ...よろしくね、シュー....」
あーだめだこれ、めちゃくちゃ恥ずかしい。というか、今ので男として大切なものを失ってしまった気がする。いやマジで性癖とかじゃねえからな?!
だが、俺が何かを犠牲にしたおかげでこいつには伝わったらしく
「なるほど!分かりました!...じゃなくて、分かった!よろしくね、シュー!」
満面の笑みでこちらに返してきた。
「え、お、おう...」
なんだか、誰か自分の名前を呼ばれるのって、いい気分だな。なんだか感慨深い気持ちがこみあげてきた。俺という存在が、呼んだ人にとって必要とされている気がして。それにこんなに可愛い少女に。
ああ、なんかまた泣きそうだ。大したこと起きていないのに、もう「生きてよかった」と思い始めている俺がいた。
「ねえ、シュー。シューはどこの出身なの?」
「あ?福お」
待て待て、ここは異世界だ。日本の都市名、ましてや修羅の国だ。伝わるはずもない。
「あーっと、そうだな…」
やべえ、どうすっかな…
いきなり「異世界から来たよ!」なんて言ってこいつが理解してくれるはずもない。なるべく面倒ごとにならないように…そうだな…。
「わ、忘れちまった…」
そう、自殺した時の衝撃で記憶が消し飛んだとでも言っておけばいい。異世界召喚でも解離性遁走でも記憶喪失でも、この世界の虚構を知らないという点で何ら変わりはないからな。
「そ、そっかぁ…」
俺の考え通りに察したらしい彼女が漏らしたのが、ため息なのか吐息なのか分からなかった。
「あのね、聞いていいのかどうか分かんないけど…シューはどうして自殺なんか」
「やめろ!」
彼女が言い終わるより、俺が言葉を考えるより先に声が出た。
「ご、ごめんね…やっぱりそうだよね…ごめん…」
やはり彼女も自殺で記憶を失ったと、そう理解したのだろう。そう考えると、彼女を騙しているのに怒鳴り付けてしまった自分が恥ずかしくなった。それなら自殺した理由も忘れているはずなのに…。その辺が抜けているのも、彼女らしかった。
しばらくの間言葉をなくして悲しそうな顔をしていた彼女が、また口を開いた。
「ねえシュー。シューは今、身寄りがないんでしょ?」
「…」
俺は言葉を返せなかった。その先俺がイエスと肯定すれば、彼女は次になんというのか、容易に想像できたからだ。
もちろんイエスと答えるのが、事実に基づいてる上、最も俺にいい待遇を与えることは間違いなかった。
だから一瞬躊躇した。こいつに迷惑をかけるのが、申し訳なかった。
噛み締めた唇を緩め口を開く。
「ああ」
俺はこの時ビアンカの方を見なかった。
「そっか…な、ならね!」
ふわっと、女の子らしい甘い香りが俺の鼻腔をくすぐる。俺は顔を上げずに彼女が迫ってきたのを感じ取った。
「私と一緒に、ここで暮らさない?」
やっぱり。
思っていた通りのことが、起こってしまった。彼女の優しい声に乗って、その提案が俺の脳を揺さぶった。
思わず頷いてしまいそうになる。彼女の優しさに甘えて。異世界に来た俺は、第二の人生を歩める期待を持ち出している。
それが俺にとって、最も忌避したいことだった。
死にたかった。死にたかったのに死ねなかった。わけの分からない異世界召喚に巻き込まれてしまった。ここから逃げ出して再度自殺を試みたが、それもダメだった。彼女ーービアンカが俺を助けてしまった。
ダメなんだ、ほんとに。それだけは。
「私が、その…家族になるから!私も一人でずっと寂しかったの!だから、ね?一緒に暮らそ?」
家族、その言葉が俺の胸に深く突き刺さる。
「ぅ………」
「しゅ、シュー?!どうして泣いてるの?わ、私と一緒に住むなんて、やっぱり…嫌だった?!」
また、泣いてしまった。久しぶりに人と会って、人の温かみに触れて、情けまでかけてくれて。さっきとは違う、別の涙が俺の頬を醜く伝っていく。
俺は制服の袖で涙を拭うと、また顔を上げずに言った。
「ビアンカ、その…言葉に甘えてもいいか」
馬鹿な俺は、また人を傷つけようとする。俺の存在がどれだけ周りにとって不快か、俺が一番理解しているはずなのに。
「え?!それって私と一緒に住んでくれるってこと?!やったぁ!ありがとうシュー!!」
子供みたいにはしゃいで抱きついてきたビアンカの姿が、俺の胸に罪悪感を募らせた。こんなに可愛い子なのに、優しい子なのに、俺はまた、こいつまでも不幸にしてしまうのだろうか。
「じゃあ、シューは今日から私の家族だよ!今は二人しかいないけど…あれ、なんか夫婦みたい…!ちょ、ちょっと恥ずかしいなっ!ふふっ!…どうしてそんなに泣いてるの?」
そうやって俺の高鳴りもしない胸に抱きついて上目遣いを向けるビアンカ。俺の泣き顔が目に入ったのだろう。
「ごめん…ごめん、ビアンカ…」
何がごめん、なのだろうか。
さっきこいつが謝っていた気持ちが、なんとなく分かった気がした。
「大丈夫だよ、シュー。大丈夫だから」
そう言って彼女はまた俺の頭を撫でる。
「あのね、聞いてシュー」
俺は何も言わずに、くしゃくしゃになっているだろう顔をビアンカの方へ向けた。
彼女もまた、潤んだ瞳を浮かべていた。
「シューにどんなに辛いことがあったか私には分からない。だけどね」
その先の言葉を、俺は一生忘れない。
「シューが死んだりしたら、私とっても悲しいよ…。だから生きて!生きる理由が見えないなら、私が理由になるから!!だからお願い…死なないで…生きてよ…!」
この言葉が、俺にどれだけ希望を与えたことか。
彼女はすすり泣いていた。また彼女を泣かせてしまった。ここまで言われて、女の子にここまで勇気を出させておいて、それをないがしろにするほど、俺はクズではなかった。
「分かったよ…自殺は、やめる…」
「…よかったぁ…!」
俺の返事で彼女の顔は安堵に緩んだ。
俺が死にたがってた理由、それらは一生消えない傷だ。考えようとか気の持ちようで変わる事でもない。変わってはいけない。
だけど、今、ビアンカの前だけでは忘れていよう。
少しずつでいい、少しずつでいいから、俺も人生を楽しんでみたいんだ。
せっかく異世界に来たんだ。さっきみたいに魔法が飛び交うドキドキ展開が俺を待っているかもしれない。さっきのドラゴンだって、こいつが銀髪になって剣を振り回していたのだって気になる。そう考えてみれば、なんだか気持ちが高ぶって、人生って案外捨てたもんじゃないなって思えてくる。
嗚咽を漏らしていたビアンカは涙を拭い笑顔を作って
「…うん、はい!もうしんみりするの終わり!」
わざとらしく元気を出した彼女が、俺に回していた手を解いて立ち上がった。
「夜も遅いし、今日はもう寝よっか!さっき使ってたベッド使っていいよ!」
そう言って俺は、さっきこいつに看護してもらっていたベッドの部屋に手を引かれていった。
「私はまだすることがあるから、先に寝てて!何か分からないことがあったら、何でも聞いていいからね!」
一人暮らしだからやることも多いんだろうな…。俺のせいで夜遅くまで家事ができなくなってしまったかと思うと、申し訳ない。
いや、このネガティブな思考もやめておこう。
聞きたいことは山ほどある。だが、今はこれだけを伝えておこう。
「…ビアンカ」
廊下へと足を向けていたビアンカが振り返った。
「ん?なあに?」
「…ありがとな」
彼女は返事の代わりに、頬をほんのり染めた可愛らしい笑顔を返してきた。
冬季課外が始まりました、死にそうです。
早く大学生になってのんびり執筆活動したいです。