Spring 008
声を出しちゃダメなんて、そんなので自分の感情が伝わるわけがない。
あたしの身体にぴったりフィットするようにりかちゃんが作ってくれた白いワンピース、本当はとても可愛いのに、こんなぶさいくな演技をしていたら、非常に不釣合いになってしまう。あたしが頑張らなきゃ、素敵な作品をダメにしてしまう。
自分にカメラが向けられること。そんなの、去年からずっとやっているのだから、慣れているはずだったのに。でも、立場が変わると緊張感が全然違った。歩くのもやっとになるくらい、頭がくらくらした。何も出来ない自分がもどかしくて、情けなくて、消えてしまいたいとすら思った。
「すなお、落ち着いて」
東城先輩が一旦ビデオを停止させて、挙動不審な動きばかりするあたしの背中を軽く叩いた。あたしはそんな言葉も殆ど吸収出来ないまま、自分の動きの一部始終と、周子先輩のしなやかな演技とを重ね合わせては、がたがたと震えた。
いつもどおりにやっていればいい、と冬野先輩も言ってくれたけれど、主役とあろう人物がいつもどおりの端役演技では皆満足しないということを、あたしは痛いくらいにわかっている。脚本や映像が素晴らしくても、映画は人気を呼ばない。素晴らしい映画には、素晴らしいキャストが絶対的に必要なのだ。でなければ、素晴らしい物語が作られても、有象無象の中に埋もれて殆どの人の知るところとなることなく消えていく。それが現実だった。
周子先輩が居なくなった今、主役をはるのはあたし。でも、あたしが役者をしたことで、冬野先輩の物語や、東城先輩の映像技術が『くだらない』と評されるのは、絶対に許せなかった。『くだらない』と評されるならまだしも、誰にも知られることなく潰えていくことになったら――そんなのもっと許せない。
文化祭で発表する少し長めの映画とは違って、春に撮るものは十五分程度と、映画とは言えないほど短いが、あたしたちにとっては立派な映画。後に撮るものより人目に晒される機会はないとはいえ、駄作に終わらせるわけにはいかない。第一、この作品が駄作に終わってしまったら、次の作品の結果も同じようになってしまうに違いない。映研が作り上げてきたあの作品の数々に、泥を塗るような真似だけは、絶対に出来ない。
肺いっぱいに空気を吸い込んで、一気に吐き出す。頭が少しだけ澄んだような気がした。「すみません、もう一度お願いします」
あたしがそう言うと、冬野先輩が体勢を立て直し、るかやリクくんが真剣な眼差しを送ってくる。東城先輩は、相棒『スナちゃん』のスイッチを再び入れた。
セリフの無い映画は、長いセリフを話すよりよっぽど厄介だ。
今回の話は、春の到来を徐々に拾っていきながら、大学周辺を散策するというもので、登場人物にセリフは無く、歩くときの抑揚によって人物の感情を表現せねばならない。花や、雲や、川や、匂いなど、見たもの感じたものに対する反応を、いかに行動に示すか。春のショートムービーの難点はここにある。
周子先輩は、その点に難を感じていないのかと思わせるほど自然な演技をやってみせていた。セリフなんて一つもないのに、その人物が考えていることが、ごく自然に伝わってくるのだ。
しかし、あたしは周子先輩のようにはいかない。彼女のようなカリスマ性なんて微塵もない。星に近づこうと手を伸ばす子供みたいに無力だ。周りの皆の作業を滞らせる一方で、自然な動きは一向に生まれない。
「ちょっと休憩入れようか」
あたしの大根演技に見かねて冬野先輩がそう言った。皆が送る心配そうな、あるいは憐れみの目線に耐えかねて、あたしは近くの公園のトイレへ向かった。鏡の前で、あたしは自分の疲れきった表情に愕然とした。顔色が全体的に悪く、口の端が下がっていて、目も虚ろだ。
こんな調子じゃ、いけないのに。
容姿端麗、演技力抜群の周子さんに、何一つ及ぶことが出来ないじゃない。
カメラの前に立つこと。それが途端に恥ずかしくて嫌なものに思えた。出来れば隠れてしまいたいと。自分のせいで、というプレッシャーばかりが頭を打ち付けて、あたしはついに吐瀉してしまう。汚してしまった洗い場を急いで洗い流しても、お腹への圧迫感は拭えなかった。
「すなお」
はっとして振り返ると、トイレの出入口に東城先輩が立っていた。あたしと目を合わせた後、ずんずんあたしのすぐ近くまで歩み寄ってくる。
「先輩、ここ、女子トイレですよ」
「いいのいいの」
東城先輩があまりに当たり前のようにトイレに入ってくるので、あたしは呆気に取られておどおどとそう言うと、東城先輩はへらへら笑ってそう答えた。良くないって、と言おうとしても、その振る舞いは逆にあたしがここに居るのが間違いかと思わせるほど当然に思えた。
「背中」
「え?」
「さすろうか」
「あの……」
「苦しいんでしょう」
先輩は、あたしの返事を待たずに、大きな掌をあたしの背中にそっと乗せて、何度も上下に優しく動かした。あれほど強くあったお腹の圧迫感は、先輩の掌が背中を動くたびに、どんどん緩んでいくように感じた。背中がぽかぽかする。
「何考えてたの?」
先輩は、あたしの背中をさすり続ける。
「え?」
「撮影のとき」
「べ、つに」
「周子さんのこと?」
この人はエスパーなのだろうか。核心を突かれてあたしは何も言えなくなった。東城先輩は背中をさする手を止めて、後ろからあたしの顔を覗き込む。動揺を隠せないあたしと目をばっちり合わせた後、先輩は勝ち誇ったように笑った。
「図星」
「べ、別にそんなの……」
「すなお、だって動きとか明らかに真似しようとしてたし、わかりやすすぎ」
猛烈な羞恥心。顔から火が出て溶けてしまいそうだった。恥ずかしいだけではなく、哀しかった。周子先輩に近づきたいあまりに、子供のお遊戯のような不自然な演技をし、その不自然さの根源を見破られてしまうほど、あたしは拙かったのだ、と。
「あたしだって、頑張ってるのに」でも、あたしの口からは、反省ではなく言い訳が零れてくる。「あたしだって、一生懸命頑張ってるのに」
惨めだというのはわかっていた。
でも、自分の演技を肯定しなくちゃ、もう羞恥心と哀しみに押しつぶされて死んでしまいそうだと思った。あたしの口から零れる、情けない口実を、東城先輩はどう受け取っているのだろうか。怒っているかもしれない。いや、寧ろ蔑んでいることだろう。演技が拙いだけじゃなく、言い訳までも拙いあたしを。
ぽん、と私の頭を軽く叩く。それは、東城先輩の手。ふとして顔を上げると、彼は優しい表情で微笑んだまま、あたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「わかってるよ、そんなの。すなおは頑張ってるよ」
あたしは、咄嗟に何も言葉が出なかった。衝突するのだと思っていたあたしの言葉が、先輩の言葉によって包み込まれて吸収されていく。
「だから、また頑張ろう。可愛いすなおの魅力は全部、オレの『スナちゃん』が記録してくれるよ」
「……あほう」
「アホじゃないよ、『すなおバカ』だよ」
東城先輩はにかっと笑った。
「ほら、さっさと長いおトイレタイム終わらせて、皆のところへ帰ろう」
手を差し出されて、あたしは戸惑いがちにゆっくりとその手を握る。いつもどおりの、暖かいその手に包まれたとき目頭がじんじんと痛んだが、それだけはと思ってぎゅっと堪えた。