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Spring 007

 眠れない夜がもたらした朝は、サイアク。身体は痛いし、頭はぼうっとするし、肌は荒れるし、まぶたも重たい。いつになくぶさいくな自分の顔を鏡で見た後は、食欲も出ない。

「るかちゃん、朝食べないの?」

「何か食欲無くて」

「今日から撮影入るってのに、それじゃあ元気出ないよ」

 りかはすっかり身だしなみも整えて、食パンをかじっていた。コーヒーも淹れて、きちんとした朝食を摂っている。「今日一限あるから、アタシそろそろ行くけど、そこの紙袋にメイクアップ道具と衣装入ってるから、部室に置いて来て欲しいの。よろしくね」

 りかはちゃっちゃと食事の片付けを済ませ、いってきますと元気に言い残して部屋を飛び出した。私は二限目からなので、顔も洗わずにぼんやりとテレビを眺めた。ニュース番組で政治経済の討論が行われていたが、内容は右から左へと流れていった。 ニュースを見ている間も、昨日の光景は脳裏にぺったりと貼り付いたまま剥がれなかった。あの後、二人はどうなったのかしら――そう疑問に思うだけで、心臓が苦しくなって、身体中を掻きむしりたくなる。

 どうか、何もありませんように。

 もう昨日済まされたことなのに、私は切実に祈った。

 この恋が簡単に、終わってしまいませんように。

 と。

 私が冬野さんを想い続けた日々が、形にならないで崩れていくことが、私はとてつもなく怖かった。それじゃあ、私が今まで注いできた愛の意味がわからなくなってしまう。無意味なものになるなんて許せなかった。だから私は、冬野さんが好きでいなければならない。それは自発的でもあり、強制的でもある。

 好きであることから解放される日はおそらく来ない。冬野さんが居る限り、私は愛さずには居られない。恋の意味を潰してしまわないようにするために、私は冬野さんの恋の破綻だって望む。心の狭い女だと、吐きそうなほどの自己嫌悪を感じながらも、切望する。

 本当に相手のことが好きなら、その相手の幸せを願うのが先決だと言う人も居るけれども、私にはそんな余裕なんてない。とことん我田引水な思考を張り巡らせて、好きな人の恋愛の破綻を祈るという、恐ろしいことをしている。


 朝の時刻は刻々と過ぎて行き、私は鉛のような身体を引き摺って家を出た。りかに頼まれたメイク道具と衣装の入った紙袋は、予想以上に重く、私の身体を更に不自由にした。

 徒歩十五分の大学までの道のりを、いつもの倍ちかくの時間をかけて歩き、法学部の校舎を目指す。

 法学部の校舎なんて、大方講義が終わってしまって人気の少なくなった時間帯にしか行かないので、人がごちゃごちゃと溢れた校舎はとても新鮮に思えたが、荷物は重いわ身体はだるいわで、その新鮮な光景に新鮮味よりも不愉快さを感じつつ、人の合間を縫って階段を上る。階段を上っていくと、階を重ねるごとに、その人気はどんどん疎らになり、部室のある最上階ともなれば、いつもとなんら変わらない、人気ゼロのしんとした空間が広がっていた。知らない人で溢れた場所では、それなりに気を張っていたものの、誰も居ないともなれば一気に気が緩んで、同時に大きな溜め息がこぼれた。私は両足を引き摺りながら、立て付けの悪い扉を開ける。

「っわ!」

 誰も居ないと決め付けて入った部屋に、人影があったことにあまりにも驚いて、思わず声を上げてしまう。向こうも驚いたようだったが、私ほどというわけでもなく、一瞬目をぱちりと開いてこちらを見た後は、くすくす笑い始めた。

「るかちゃん、びっくりしすぎだよ」

「だ、だって普通誰も居ないと思うじゃないですか」

「そうかな。僕は結構朝もここに居ること多いよ。静かだから」

 冬野さんは部活のときと同じように、いつもの席に座って本を読んでいた。私は未だに心臓がばくばく鳴っている中、部屋の隅っこに紙袋を置いた。

「それ、何なの?」

 冬野さんは本を一旦閉じて訊ねる。

「りかに頼まれて……衣装と、化粧道具だって言ってました」

 私は心臓を縮ませながらも何とか答える。

「あ、りかちゃん、本当にメイクと衣装担当してくれるんだ」

 冬野さんは嬉しそうに笑った。

「あの子、お化粧するの上手だし、手先も器用で、要らない服を適当に合わせてリメイクするの得意だったから、多分メイクと衣装の担当になれて、喜んでると思います」

「本当に? 今までその役は女の子の中で交代交代やってもらってたから、喜んでやってもらえるなんて光栄だな」

 冬野さんが、レンズの奥で目を細めた。いつも西日が眩しい部屋の中で見るより、その笑みはずっとはっきりしていた。私の心臓が小さく跳ねた。と、同時に小さく痛んだ。そのはっきりした笑みを、周子さんはいつも見ているのだろうか。昨日、あのタクシーの中で見ていたのだろうか。タクシーを降りた先で見ていたのだろうか。

 昨日、どうしたんですか。どうして欠席したんですか。寂しかったです。冬野さんがいなくて。寂しかったです――頭の中で、何度も何度も繰返した。頭の中で言っていたはずの言葉は、いつしか言葉になって飛び出していたらしい。冬野さんは、少し驚いたように私の顔を見つめた。でも、すぐにまたあの笑みを浮かべた。

「周子さんのお話を、別の場所で聞いてたんだ。部室じゃ周りの迷惑になるからね」

「迷惑だなんて、そんな。あの場所で話していただいても、全然構わなかったのに」

「そういうわけにもいかないよ。それに、周子さんも落ち着いて話せないから」

「ちなみに、どんな」

 自分でも驚くくらい積極的で、それでいてとてつもなく嫌な質問をしたと思った。言った後で、嫌われてしまうんじゃないかと強く後悔した。それでも私は、強く知りたいと思っていた。こんなに怖いのに。

 冬野さんは少し私の強引さに戸惑ったようだったけれど、特に嫌な顔をすることはなかったので、私は少しだけ冷静になった。

「るかちゃんは、入部が遅かったから、知らないんだったね」

 遠くを見つめるような、切なげな表情で冬野さんは言った。私の心臓が、再び跳ねる。緊張感がぐっと押し寄せてきて、私は逃げ出したくなった。それでも、好奇心と嫉妬心は止まなかった。

「周子さんさ、去年色々あって、体調が思わしくないんだ。一人暮らしだし、周りに彼女を管理してくれる人は一人も居ないから、心配なんだ。彼女の負担を少しでも減らしてあげるために、なるべく僕に頼ってくるように言ってあってね」

 冬野さんは、今までにないくらい、優しくて、切ない顔をした。その顔は、見ていてすごく苦しかった。涙が出そうになるくらい、苦しかった。

「じゃあ、僕、そろそろ講義あるから、また部活で会おう」

 冬野さんはそう言って、読みかけの文庫本を机の中に入れ、雲の上でも歩いているような透明な歩き方をして、部屋を出て行った。

 ドアが閉まった後の部屋には、沈黙と切なさの余韻が残った。

 私は立っていられなくなって、地べたにへたへたと座り込んだ。その瞬間、突然涙がぽろぽろと溢れてきた。涙を拭う気にもなれなくて、私は声もなく涙を流し続けた。

 周子さんが、冬野さんに何を話したのか、具体的な答えはちっともわからなかった。けれど、冬野さんが、誰よりも周子さんを大切にしているということは、痛いほどわかった。

 私が一人で泣いている間に、講義開始のチャイムが人気のない廊下にぼんやりと響いた。その音はすぐ静寂に吸収されて、私の泣き声だけが取り残された。

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