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Spring 005

 人気がなくて静かな廊下。窓が殆どないため薄暗い。部室のドアの隙間から、西日が細く零れ、一筋の線を描いている。

 さっき廊下で出会ったすなおと、途中まで一緒に来ていたが、すなおは台本をロッカーに忘れたらしく、取りに戻ってしまった。私も一緒についていっていればよかったなあ、と部室の扉を前にして後悔する。ドアに手をかけているというのに、私はそれを引くことが出来ない。この立て付けの悪いドアを開けるコツなんて、もうすっかり理解してしまったはずなのに。

「この台詞、少し変えたほうが良いわ」

 しっとりとした声が、西日のこもった埃っぽい部屋の中から聞こえてくる。私はドアの前にしゃがみこんだ。すなおが早く戻ってくることを、心の底から願った。

「どんな風に」

「日常会話をイメージしてみて。文才は、冬野くんの方がずっと優れているはずだから、内容は任せるけれど、もっと自然な感じ」

 会話はいたって静かだった。その静かなやり取りが、私の心にちくちくと刺さる。今すぐ間に介入して行きたいのに、それを出来なくさせるほどの空気。ドアを隔てていても、その重みがずんずんと私を圧迫する。

「何してんの?」

 私が膝を抱えて縮んでいると、すなおではなくて、先にリクが到着した。リクは眉をひそめて私を見下ろす。

「……な、にもしてない」

 咄嗟の言い訳が思い浮かばなくて、私は苦し紛れにそう言った。

「変な奴」リクは軽く鼻で笑う。「早く入ろうぜ」

「何か、先輩たち、真面目な話してるから、入りにくかったのよ」

 小馬鹿にされたことにむきになって言い返すと、リクはドアの隙間からこっそり中の様子を窺った。

「映画の話してるだけじゃん」

「……そうだけど」

「ほら、立てよ、入るぞ」

 リクは私の手を引っ張った。私はそれ以上の言い訳は思いつかなくなって、渋々部屋の中へ入る。

 西日が溢れた部屋の中では、思ったとおり、いつもの席に冬野さんが座っていて、そしてそのすぐ傍に、髪が長くて背の高い女の人が居た。

「あら、るかちゃんにリクくんね。久しぶり」

 女の人は、上品に笑いながら、そのしっとりした声でそう言った。お久しぶりです、と返事をするリクの声が、少し動揺しているのがわかった。それくらい、この人の美貌には迫力がある。そしてその美しさは、切なさを伴う。だから、男女問わず、この人の美貌にはすっかり萎縮させられてしまうのだ。

 静川周子。

 本来、この大学の四年生だった、映研で女優をやっていた人。私が持っているビデオでも、彼女が主役をはっている。その演技は、指先の動作一つにも感情の細かな動きを表現できるほど、繊細で美しい。だけど、私が入部する少し前から休学を続け、私が入部した後も、殆ど姿を見せることなくそのまま大学を中退した。詳細はよく知らない。その後も時々サークルに顔を見せるが、冬野さんと会話をするだけで、直接サークル活動には参加することなく帰ってしまう。

「それじゃあ、サークル活動の邪魔しちゃ悪いから、そろそろお暇するわね」

「いえ、まだメンバーも揃ってませんし、もうしばらく大丈夫ですよ」

「ううん、いいの。また今度お話をしましょう」

「じゃあ、玄関まで送りますんで」

 周子さんが部屋を出ようとすると、冬野さんは急いで立ち上がり、その後ろをついていく。周子さんは部屋を出る際に、一度私たちの方を振り返り、微笑みながらしなやかに手を振った。私もリクも、その姿にすっかり飲み込まれてしまい、会釈するのが精一杯だった。

 ドアが閉まったとき、空気が一気に弛緩して、二人同時に大きな溜め息をついた。

「何かすげえ、別世界の人間って感じだよな、あの二人」私が考えていたことをそのまま、リクが代弁する。「お似合いって感じ」とも。

 私と同じことを、周りも考えているということ。私はそれがとても悔しくて、切なかった。

 私は、冬野さんに恋をしている。

 決定的に、いつ恋に落ちたかはよくわからない。ただ、彼の作品に触れているうちに、彼自身にも興味を持ち始めていて、いつしか好きになっていた。眼鏡越しの彼の目線も、丁寧な笑みも、落ち着いた声も、全て。

 この恋を知っているのはすなおだけで、他には誰にも言っていない。勿論冬野さんにも。言えるはずがなかった。私なんかよりずっと、絵になるほど相応しい人が、冬野さんの心の中にはいつもいるということを、私はずっと知っていた。私の恋に、勝算なんてあるはずがなかった。

 わかっているのに、私が冬野さんを好きということは、覆らない。冬野さんと周子さんが二人で居るのを見るなんて、心臓が押しつぶされそうなほど苦しい。さっき彼が急いで周子さんの背を追ったときも、身体がかっかと熱くなった。壊れてしまえばいいと思った。自分でも恐ろしいと思うほどの莫大な嫉妬心が、私をどんどん嫌な奴にしている。それは決定的で、ふと嫉妬心を忘れて我に返るたび、自分のことが嫌で仕方がなくなる。毎日その繰り返しだった。

「こんにちはーって、あれ、今日は二人しか居ないの?」

 大きなバッグを肩に引っ掛けたりかが、立て付けの悪いドアを力ずくで押し開け(途中蹴りも加えながら)、少しの隙間に身体をねじ込むようにして入ってきた。途中、バッグが引っかかったようだが、それもまた力で無理矢理ドアを潜らせていた。

「おお、りかちゃん、久しぶりじゃん。最近どうしてたの」

「何か課題が妙に多くてさ、資料とかで荷物も重たいし、別キャンパスだと来るのが億劫になっちゃってね。でも、台本読んだら来たくなったの」

 りかは大きなバッグをどすんと床に下ろす。すると、もわっと埃が起こるのがわかった。

「ていうかりっくん、るかちゃんに何にもされなかったあ? るかちゃんながーいこと彼氏いないから、餓えてるよ、きっと」

「ちょっと、何言ってんのよ、りか」

「まじかよ。それは、くわばらくわばら」

 そう言って、二人は私をからかってくる。お調子者の二人のペースに巻き込まれてしまうと、どうもかなわない。矛先が私に向く前に、話題を変えねば。

「そういうりかだって、真面目に恋愛しなさいよ。彼氏とすぐ別れてばっかりじゃん」

「ふーん。恋ならしてるもんね」

「どうせ、三日もすれば飽きた、とか言うんでしょ」

 私がそう言うと、ばれたか、とりかは笑った。リクは、りかは可愛いもんなあ、と言って、りかの肩ばかり持つので、やはりいじられる矛先は私に向くらしい。

 と、そこへ助け舟、すなおと東城先輩がいつものように二人で部室に入って来た。

「あら、りかちゃんじゃない、久しぶり」

 と、二人がりかに話しかけたので、私はいじられる難を逃れて安堵する。

「ていうか、冬野は?」

 東城先輩が、いつもの席が空っぽなのを見て、そう言った。私の心が、思い出したようにまた、嫉妬心のもやもやで埋め尽くされる。

「静川先輩を、送り出すって言って、行っちゃいました」

「ほお。冬野もゾッコンですな」

「それにしても、戻ってくるの遅いですね」

 確かに、リクの言うとおりだった。結構時間が経つというのに、冬野さんは戻ってこない。もやもやの濃度が濃くなって、居ても立っても居られなくなる。

「私、ちょっと様子見てきます」

 そう言って部屋を飛び出してすぐ、私は後悔した。二人が一緒に居るところなんて、見たくないのに。敢えて二人を追いかけて、一体何がしたいのだろうか。

 壊れていたらいい、私はそう考える。二人がもう、壊れていたら。自分がどれだけ最悪なことを考えているかはわかっていたけれど、自分を軽蔑している余裕なんてなかった。

 足を早めて、玄関へと向かった。しかし玄関に人影は見えなくて、私は校舎を飛び出した。正門の方へ足を進めたとき、二人の姿があった。背の高い女の人が、眼鏡をかけた細身の男の人に、一言二言何かを告げて、タクシーに乗り込もうとする。すると男の人は、焦ったように、自分もタクシーに強引に乗り込んだ。ドアが閉まり、タクシーが門の向こうに消えていった。

 私は、ただ呆然と、そのやり取りを見ていた。何も考えられなかった。何を考えたらいいのかわからなかった。頭の中が真っ白になったまま部室に戻ると、東城先輩が、冬野さんが欠席するということを、私に知らせた。

 真っ白の頭の中には、何度も、あの二人がタクシーに乗り込むシーンが思い浮かんだ。

 何度も、何度も。

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