Spring 004
「じゃあ、とりあえず乾杯しますか。せえのっ」
「かんぱーい!」
慣れないテンションと慣れない熱気に、頭がくらくらする。あたしは何とかジョッキを掲げて、皆のジョッキとぶつけあった。あたふたと持ち上げたせいか、勢いよく当てすぎて、ビールの泡が少し跳ねた。
どうしても人数が足りないの、と同じ文学部の友達に頼み込まれ、承諾もしないうちに行くことになっていた、合コン。
これが初合コンとなるあたしにとって、そのノリは全く掴めておらず、冷や汗が出るばかりだ。今まで、大学でもバイト先でも、誘われることは何度かあったが、別に男には困ってないし、第一今彼氏が欲しいとも思っていないので、何となく交わしてきたのに、まさか今日参加させられる羽目になるとは。あたしがこうやってジョッキ片手にあたふたしている間にも、男性陣は自己紹介を始めている。このスピーディーな流れに、あたしはしがみついて行くしかない。
「え、っと、皆と同じく、大学二年生です。月本すなおです。よ、ろしく」
自己紹介が自分の番になって、脳内で内容を構成する間もなく、反射的にそう言う。知らない男性陣の目線がたっぷりと注がれ、あたしの冷や汗がまたじわじわと沸き起こる。やっとその視線から解放されても、今度は自己紹介の内容が途端に恥ずかしく思える。声、上擦ってたのでは? 『です』が重複していて、聞こえが悪かったのでは? 汗でファンデーションが浮いていたのでは? ……冷や汗の源泉は尽きない。
誰の名前も覚えられないまま、あたしはちびちびビールを啜りながら、帰ることばかり考えていた。他の男女はすっかり打ち解けて、居酒屋の一品料理をつまみながらも、会話と笑いは尽きない。あたしの好きなポテトチーズボール――マッシュしたじゃがいもの中にとろけるチーズを入れて丸め、揚げたもの――を、食べたくても、とても箸を伸ばす気にはなれず、話の途中に誰かが啄むのを、ただ見ているしかなかった。
すっかりバリアに阻まれたあたしは、遅々と流れる時間を、ただ待つしかなかった。あたしは人見知りではないが、どうも合コンのノリは苦手らしい。
「ねえ」
座敷の隅っこで縮こまっていたら突然、男性陣の中の一人が声を掛けてきた。少し長めの髪を、焦げ茶色に染めた男の子。遊んでいる風でも、かといって硬すぎる風でもない、ほどよく垢抜けた男の子だった。
「何、でしょう」
あたしは驚いて声を詰まらせる。多分、警戒心を剥き出していたと思う。それでも、男の子は怯まずに、ゆったりと笑った。
「すなおちゃんだよね。ちょっとおれと話しようよ」
男の子は、あたしの横に腰を下ろした。あたしは思わず距離を取りたくなるが、さすがにそれは失礼なので我慢した。しかし内心、すぐ横を見ると自分の知らない男の子の顔があることが、落ち着かなくてたまらなかった。東城先輩なんて、これ以上にくっついてくるというのに。相手が違うだけで、こうも落ち着かないのか。
「すなおちゃんって、この辺地元?」
「い、え。地元は埼玉で……」
「へえ、じゃあ一人暮らし?」
「うん、そう」
「じゃあ門限とかなくて楽だね」
「でも、バイクも車もないから、移動手段は全部電車で、結局同じだよ」
「バイクも乗らないの? じゃあ通学も電車?」
「まあね」
取りとめのない会話は、だらだらと続いた。男の子はあたしに一つ一つ問いかけてくれるけれど、あたしはその問いかけに答える以上の気分にはなれなかった。腕がぶつかるくらい近くにいる人が、名前もよくわからない人であることに、違和感ばかり感じていた。
十一時を過ぎた頃、皆はすっかり酔っ払って、それぞれの男女グループが出来上がり、ハイテンションな絡みに入っていた。お酒を殆んど飲まなかったあたしは、素面でそんな絡みに混ざることもできず、すっかり浮いてしまっている中、あの男の子は遂に最後まであたしに絡みに通して、あたしはすっかりくたくたになっていたが、
「電車なくなっちゃうから、そろそろ帰るね」
というセリフが通用する時間帯になったので、ようやく身体から重みが抜けていった。
しかし、皆がバイバイとかまたねとか適当に送り出してくれる中、
「夜道危ないから、おれ送るよ」
と、よけいな親切をしてくれるあの男の子のせいで、あたしの身体に再び重みが加えられた。結構だと言っているのに、それを真意でなく遠慮だと彼は取り違えているようで、結局あたしの横をべったりとついて歩いた。
居酒屋やカラオケなどの光が密集した通りを過ぎると、急に暗闇が濃くなり、辺りが静かになった。あたしたち二人の足音と、未だに続く彼の質問攻撃が、夜闇の中に反響した。
「へえ、中学のときは駅伝かあ」
もう自分でも、何の質問に答えた結果返って来た相槌なのかわからなくなっている。駅の看板が闇の向こうに見えたとき、ようやくこの果てしない問答が終わるのかと安堵した。
「あのさ」
駅がすぐそばに迫ったとき、彼はあたしの腕を軽く掴んだ。
「メアド教えてよ。そんで、今度は二人で会ってくれない?」
あたしは街頭の下にぼんやり浮かぶ、彼の顔を見上げた。照れ臭そうに笑う彼に向かって、ノーと答える勇気はなかった。あともう少し進めば、駅なのに。この心苦しい距離から解放される一歩手前で、あたしは更に息苦しくなる。逃げ出したいと、本気で思った。それなのにあたしは、鞄の中を探り、携帯を出さざるを得ない状況になっている。
「すーなーおー!」
その時、夜闇に駅以外の光を見つけた。
「東城、先輩?」
闇の向こうで大きく手を振る人影が、だんだん大きくなるにつれて、疑問は確信になった。いつもあの廊下で『ばったり』を繰返す、その姿。見紛うことはない。
「やっぱり、こんなところでもばったり会うなんて、本当に運命的だね」
東城先輩はかかかと笑い、あたしの手を引き、駅の中へと導いた。その動作は余りにも自然すぎて、あたしも、置いていかれた男の子も、ただ唖然とするばかりだった。
改札を潜って、ホームに降りたとき、東城先輩はあたしの手を離して、代わりにその手であたしの頭をくしゃりと撫でた。
「だめだよ、簡単に男の人についていっちゃ」
あたしに目線を合わせて、子供をあやすかのごとく、先輩は言う。その言葉が、あたしの心の緊張をふにゃふにゃにして、思わず泣き出しそうになった。
「オレがばったり、すなおに会えてなかったら、きっとあの人あそこで盛ってたね! すなお超可愛いから!」
「先輩、どこからつけてたんですか?」
「何の話?」
先輩は惚けたような表情をした後、柔らかく笑って、
「ばったりに必然はないんだよ」
と、からかうように言った。
先輩の乗る電車が来る前に、あたしの乗る電車がホームに入った。電車のドアが閉まると、ドアの向こうで先輩はへらへらと手を降っていた。車両が動き出して、ホームが見えなくなる。暗闇が窓ガラスを滑っていくのを呆然と眺めている間も、あたしはずっと泣きそうだった。
先輩の、大きな手の感触が、いつまでも頭から抜けなかった。