Spring 003
表紙がまっさらの、A4サイズの冊子。
一ページめくるだけで、軽く手が汗ばんだ。この中には、私が熱望していた、私の知らない世界がある。映像以外で、冬野さんの作品に触れるのは今回で二度目だったが、作品自体に携わるのは、今回が初めてだった。
私は、もう大学に通うこと二年目になるが、サークルに加わったのは、一年の秋、文化祭が終わった後だった。
当時、映画研究会なんて地味なサークルの存在すら知らなかった私は、一年の文化祭の当日、中学時代からの友人であるすなおに、一度映研の映画を見に来てくれと言われて、気が進まないながらも他に友達もいないことだし、見に行くことにした。法学部楝にある、一番大きな階段教室で、それは上映されているらしかった。人足もそこそこで、映研イクォール地味だと思っていた私にとって、この人たちは相当暇なんだろうか、という疑問さえ抱いた。
しかし、映画が上映されるとすぐ、映研の待遇の良さの理由を理解した。
ストーリーも、カメラワークも、役者の動きも、全てにおいて、素晴らしかった。プロが作ったような完璧性の中に見え隠れするアマチュア感、それがまたその作品魅力的にしていて、たまらなかった。
映画が終わる頃、私はどきどきしていた。手が震えるほど興奮していた。今まで見てきた映画やドラマにはなかった、『眩しいもの』がその映画には籠められていた。
教室を出た後で、外で映研部員が売っていたビデオテープを、一枚購入した。
家に帰って見てみると、そこには昼間見た映画よりは短い話――映研では、年に二度、物語を作り、春には短めの話を、秋までには本格的な映画を撮る。おそらく、私の買ったビデオは、春の段階で作ったものだろう――が収められていた。その話も、気の抜けるところが一つもないほど丁寧に仕上げられていた。私はその三十分程度の物語を、何度も何度も巻き戻しては再生した。
題名のない物語を読み終わるのに、時間はかからなかった。丁寧に選び抜かれた言葉の一つ一つは、簡単に私の心に入り込んでくる。短めの物語なのに、私の心を余すところなく埋め尽くす。
表紙を閉じると、溜め息が溢れた。心臓がどきどきした。冬野さんを、すごく近くに感じた。汗ばんだ手の不快さも忘れるくらい、私は満たされていた。
映研の映画を見てすぐ、すなおのコネクションで映研を見学させてもらった。
そのときそのサークルには、すでに五人しか残っていなかった。文化祭が終わって、四年生が抜けていったらしい。人手不足となった映研は、私の入部を一切拒まず、寧ろ大歓迎してくれた。入部してすぐ、私は前作の脚本を見せてもらったが、やはり今回と同じように、心がすぐ飽和状態になって、どきどきが止まらなくなった。
ビデオを飲み込んだままのテレビデオの再生ボタンを押すとすぐ、あの物語が始まる。
下宿先であるこのアパートにDVDレコーダーが無かったことを、私は大変幸運に思っている。あのとき、映研で売られていたのは、実際はビデオはこの一本だけで、他は全てDVDだったのである。製作された年代的には一番古いものだったが、この出会いが更に、映研に対する私の興味を増長させたのだから。
画面に数本の線が入り、女の人の顔がややぶれる。それでも、彼女の気品は衰えなかった。確かな風格、容姿。彼女のしなやかな動きは、女性の鏡とも言えるほど、徹底されていた。
テレビの中だけの人なら、ただ見とれるだけだったのだろう。
「るかちゃん、またそれ見ているの?」
急に現実に引き戻されたような心地がしてびっくりした。振り向くと、後ろにはりかがいた。
「ただいま、とかないわけ?」
「言ったのに、るかちゃん聞いてくれないんだもん」
「言ったっけ」
「言ったよ。でもるかちゃん、テレビばっかり見ててさ」
りかは口を尖らせながら堂々と服を脱ぎ、スウェットに着替えている(家で外の服を着ていると息苦しいそうだ)。ちょっとくらい恥じらえば、と言うと、姉妹だからいいの、と笑った。
「あ、りかの分も台本もらったけど、いつくらい来られそう?」
私が訊ねると、りかは狭いキッチンで、茶碗にご飯を盛りながら、
「来週くらいから、ちょっと余裕できるかな」と答えた。
「今週はレポートだの研究だの忙しい」とも。
りかは私と同じ大学だが、薬学部ということで、大学名は同じでも、私の属するマイナー学部よりも、偏差値が十近く違う上倍率が高い。それに、薬学部は理系キャンパスでなので、映研のある文学部キャンパスとは、やや距離があるので、私たちのように頻繁にサークルに顔を出すのは無理らしい。
昔からずっと、妹であるりかの方が、何でもよく出来た。勉強も、運動もよく出来たし、顔も可愛くて、男の子にもよくもてた。明るいので、友達も多い。唯一の欠点は、男をころころ換えるところくらいだろうか。そんな感じなので、勿論りかの方が、昔から誉められることは多かった。幼い頃は、多少の劣等感を抱いたが、年を取るうちに、りかはりか、という観念が生まれ、劣等感などつゆも抱かなくなった。ただ、すごい。ただ、かっこいい。そう思うだけになった。
「晩御飯ないの?」
りかは狭いキッチンをうろうろしながら、冷蔵庫や空っぽの鍋のふたを開けたり閉めたりしている。
「今日はりかが当番だよ」
「げ、うそ」
「だって木曜日じゃん」
「明日と代わって」
「嫌」
るかちゃんのオニ、と言い残し、ぶつぶつ言いつつもキッチンでごちゃごちゃやっている。りかが乗り気でないときの料理は、大抵が炒飯か野菜炒め。今日は野菜がないから、恐らく有り合わせのもので炒飯を作るだろう。
私はビデオテープを、そっと本体から抜き出した。色の白い女の人が静止したままの画面は、途端に真っ黒になる。
「ああ、もう玉ねぎって、何でこう目が痛くなるのよ」
キッチンからは、玉ねぎのにおいに混じって、そんな声が聞こえた。