Spring 010
恋は美しいと思う。
「折角二人きりになったのに言わないなんて勿体無い!」
「だ、だって言ったって勝算ないし……」
「そんなこと言ってたら、いつまでも進展しないよ。恋は動いてナンボ」
と、居酒屋の熱気でぼやけたアイラインを引き直しながら偉そうなことを言うあたしは、実際人に教えられるような濃厚な恋愛はした試しがない。
「まだ、嫌われたくないから……」
「コクって嫌われるって、冬野さんは子供じゃないんだから」
「そりゃそうだけど」
もじもじと話をするるかは、もどかしくもありいじらしくもあった。恋する女の子そのもの。あたしはこんなに可愛くなれる恋を知らない。
「すなおはどうした方がいいと思う?」
「そりゃ、言うのが先決だと思うけど、自分で決めた方がいいんじゃない?」
くっきりした化粧にして、トイレを出る。トイレの外は、もわっとした熱気とひとまとまりの音と化した人の声で溢れていた。
「ほら、先輩の隣、空いてるよ」
店の騒々しさに隠れて、あたしはこそっとるかに耳打ちする。るかはあたしの顔をじっと見つめてから、頼りない足取りで冬野先輩の隣の座布団に座った。
恋。
るかは昔から人見知りで静かな子だったが、ここまで臆病にさせているのは、おそらく本気の恋をしているからだろう。
性格をも変えてしまうような恋を、あたしは知らない。
それは、今まで好きな人や恋人が居なかったというわけではない。中学生のときに格好いいと思った先輩に告白して友達と大差ないお付き合いをしたり、高校のときに告白されて一年くらい付き合っていた人も居た。その人たちのことを好きではなかったというわけではない。でも、恋とはまた別なものと思えて仕方がないのだ。初めて手紙を貰ったとき、キスをしたとき、ロストバージンしたとき、どれを取っても、あたしが思い描いた恋とは違う気がする。
あたしはいつも淡々としていた。淡々と恋人と接し、淡々と別れた。それを繰り返すうちに、恋人に固執することを忘れてしまったのかもしれない。
「すなおちゃーん、まさかもう酔ったとか? 手止まってるよう」
焼酎のボトルを右手、グラスを左手に抱えた東城先輩には、他人にお酒を分ける姿勢が見当たらない。ぐびぐびとグラスの液体を飲んではボトルのお酒をつぎ足している。こんなきついお酒をロックでいくらでも飲める彼はまさに酒豪と言うに相応しい。
「酔ってません。酔うほど飲んでません」
あたしは飲み掛けの梅酒をちびちび啜る。
「そお? 酒も減らんわ箸も動かんわだから……あ、これラスト貰うねえ」
「あたしのチーズボール!」
小皿に盛られた最後の一つだったポテトチーズボールは、東城先輩の箸でちょいと摘ままれて、すぐ口の中に消えていった。この前の合コンでも食べそこなったし、なんて縁がないのか。あたしは再び梅酒をちびっと啜った。
「そんな顔しても、早く食べないから悪いんだよーん」
「むかつく……」
あたしは代わりに枝豆を口に入れた。枝豆にはあのじゃがいものホクホク感も、チーズのとろーり感もなく、ただ淡白にあたしの胃に落ちていった。
あたしが枝豆を食べ始めると、東城先輩もあたしを上回るペースで枝豆を食べ始める。
「ちょ、何であたしのものばっかり取るんですか!」
「すなおに食べられるなんてズルい!」
「酔ってるんですか!」
「素面だよ!」
「それはそれでやばいです!」
山のように盛られていた枝豆はどんどんなくなって、代わりに皮が積み上げられていく。枝豆が美味しいのか食べたいのかどうなのかもわからずに、あたしは躍起になってひたすら枝豆を貪った。口の中に入れた豆を殆んど噛まずに飲み込んでは次の豆に手を伸ばしまたその豆を噛まずに飲み込み――最後の枝豆に取り掛かろうとしたとき、横から手早くそれを奪われた。
「はい、オレの勝ちね」
東城先輩は最後の枝豆を摘まんで誇ったように笑う。
「別に、そんな勝負してませんし」
「勝者は敗者に何して貰えるのかなあ」
「聞いてます? あたしの話」
「じゃあ、オレの彼女になって」
どきんとした。先輩は真剣な面持ちであたしを見つめる。あたしはその視線にがっちりと捕らえられたようで、逃げられなくなった。と、思ったとたんに視線の緊張が一気に緩んで、東城先輩はへらりと笑った。あたしの口からは自然と溜め息がこぼれた。
「お断りします」
「えーどうしてえ?」
「どうしても」
口を尖らせて拗ねる東城先輩に、あたしはあくまでも冷静を装っているつもりだったけど、内心どきどきしていた。東城先輩の視線に捕まったときがそのどきどきの絶頂だった。逃げられない、と思った。しかしその袋小路な事態を、あたしは絶体絶命だと感じなかったのだ。逃げられない状況を打開しようとも思わなかった。
「不毛だなあ」
独り言を言うように彼はそう言って、左手のグラスを空にする。すると習性のように右手が空になったグラスを再び満たす。注がれていく透明な液体を、東城先輩は見ようともしない。グラスの中の液体は、一度も見られることなく、東城先輩に飲み干される。彼の視線は遠く別の場所にあるようだった。
別の場所。
あたしはそれが一体どこなのかしらない。
あたしが塞ぎ込んでいるとき慰めてくれる大きな手を、あたしが包み返すことは出来ないだろう。彼の表情はそれだけ存在感があった。
リクくんが酔っ払った表情で、ちょっとゲームでもしませんか、とやたらとテンションの高い声で誘いにくるまで、東城先輩の視線は、あたしの知らないところを見つめたままだった。
店内の熱気を引き連れたまま、店を出た。中も外も気温がほとんど変わらないように感じた。もう夏は近いのかもしれない。
「これからどうします?」
あたしがそう訊ねたとき、返事が返ってくる前に冬野先輩の携帯が鳴り始めた。スピッツのチェリーの着メロ。
「ごめん、ちょっと用事が入った。僕はこれで」
受話器に向かって二、三回返事をしたあとで、冬野先輩はあたしたちにそう言い残し、夜の街に向かって走って行った。全員がああそうか、と口には出さずにぼんやりと悟る。店の中から引き連れてきた熱気は、もうすっかり冷めていた。
「もう遅いし、そろそろ解散でもしますか」
東城先輩が、皆から熱気が離れた頃合いにそう言うと、皆がぽつりぽつり同意し始める。それでも何も言わずに立ち尽くしたままのるかの背中をパンと叩くと、るかはからくり人形のようなぎこちない動きでこっちを向いた。唇は結ばれたままなのに、今にも泣き出しそうな目はその感情をダイレクトであたしに伝えてきた。うん、うん、辛いんだね、今日はうちにおいで、女だけの二次会をしよう。あたしが背中を擦りながらそう言うと、るかは涙で潤んだ目を抑えながら何度も大きく頷いた。
りかちゃんに、今日はるかをお借りしますと告げて、あたしたちは部活メンバーから抜け出して駅へ続く道を歩く。
郊外の表通りは、街灯ばかりが眩しくて、車はあまり通らなくて静かだった。あたしたちは無言でただ歩いた。夏に近づいていく春の空気は少し湿っているものの冷たくて滑らかだった。駅の途中のコンビニで缶酎ハイや缶ビールを買い込んだ。飲み物だけで千円を越えた。あたしたちはまた歩き始める。駅はもうすぐそば。
「こんなにさあ」
「うん」
「頑張ってるのにさあ」
「うん」
「何でかなあ」
「うん」
コンビニを出てから、るかはぽつりぽつり話を始める。思ったことをそのまま言葉に変えたようなセリフに、あたしは細かく相槌を打った。るかはそれ以上は求めなかった。ただ話すだけ。
ホームへ続く階段を、一段一段踏み締めながらゆっくり上っていく。
「私のためにスピッツが鳴ればなあ」 ホームに降りたとき、不意にるかがそう言った。あたしは何も言えなかった。
ホームに人は少なかった。蛍光灯の濃い光に照らし出された色褪せたベンチに、あたしたちは腰を下ろした。電車の来ないホームは静かだった。
うつむいたままのるかの背中を撫でていると、東城先輩が思い浮かんだ。彼の手のようにあたしの手にも、人をなだめる力があればいいのに。無いと知りつつも、ただ撫でた。
今日東城先輩に言われたことを、ふと思い出した。
目を合わせて、はっきり言われた――オレの彼女になって。あのときあたしには、冗談だとか、本気だとか、あれこれ考える余裕がなかった。ただ真っ直ぐ受け止めた。真っ直ぐすぎて、動けなくなるくらい。あたしはあのとき、何と言えばよかったのか。
向こう側のホームも静かだった。こっちと何ら変わらない。と思いきや電車のアナウンスが、静かなホームにしっとりと響いた。こっちに電車が来る前に、向こうに電車が来るらしい。
「早く、来ちゃうよ」
「ちょっと待って」
アナウンスの音の上に、二つの声が跳び跳ねた。階段を駆け上るその影の片方に、あたしは目を吸い寄せられる。
東城先輩。
すぐ傍でいつも聞いていた声だった。あたしはすぐ、もう一つの影に目を移したが、それが女の人だということしかわからなかった。わからなかったというより、知らなかった。東城先輩はあたしの知らない女の人と歩いている。
東城先輩。
その名前を再認識したとき、ぼんやりとした頭に焦燥感がみなぎって、あたしは思わず席を立ってホームぎりぎりまで近づいた。しかし、もうホームに電車が入っていたため、その向こうの景色がすっかり遮られていた。
ガタンガタン、と電車がホームを抜け出していったとき、向こう岸には既に誰も居なくなっていた。あたしはまたぼんやりとした。焦燥感が抜け落ちたとき、本物の脱け殻みたいに空っぽになった。
「すなお?」
るかの声が、ようやくあたしに意識を戻した。振り返り様にあたしは笑みを作る。ひきつった笑みだったことくらい、鏡を見なくてもわかる。
あたしはまたベンチに座った。コンビニの袋からさっき買った缶ビールを一本取り出した。プルタブを捻ったら、白い泡が少しだけ顔を出した。あたしは飲み口に唇を押し付けて、直角に近い角度でビールを流し込む。少し温いビールが喉にまとわりつきながら胃に落ちていく。るかが目をまあるくしてこっちをじっと見ている。
半分くらい飲んで、湿った唇を袖口で拭った。相変わらずるかは目を剥いたままだ。
「るかも飲まない?」
あたしがそう言うと、るかは嬉しそうに笑って、いそいそとビールを取り出した。あたしは残りの半分のビールを、先程と同じように流し込む。隣でプシュッと気の抜ける音がした。
駅のアナウンスが鳴っているのが聞こえた。ここじゃない、もっと遠くで鳴っているように聞こえた。それくらい、あたしは孤独だと思えた。
第一章完結
第二章に続く