Spring 001
一本のビデオテープがある。映画なんて、全く興味のなかった私を、いとも簡単に映画の虜にした、ビデオテープ。擦りきれるほど見た。今では砂嵐が画面を邪魔するほどだ。それでも、その画質の悪さを気にさせないほど私を引き込んでいく、映画。私はこのビデオテープが、ついには何も映さなくなったとしても、見続けるだろう。
出逢いは、それっぽっちの、単純なものだった。
漠然とした講義は、漠然とした心持のまま終わる。去年の熾烈な受験勉強が、遠い昔のことのように思える。分単位キチキチのスケジュールを作られて、ヘドが出るほどの膨大な知識を脳みそにぶちこんで、無理矢理偏差値を二十近く上げて、周囲にダメ元と言われた大学受験を成功させて、いざ入学となれば、ぱんぱんの風船に針を刺したかのごとく、一気に萎んで、へにゃへにゃのゴムの固まりのように気が抜けてしまった。そこでは、勉強してまで大学に来るほどじゃなかったな、と思うくらいの講義しか行われていない。
別に、興味のある学科を選んだからじゃないから、当然といえば当然かもしれない。単純に、大学名というブランドを意識しただけで、学部学科は通りやすさだけで選んだ――インターナショナルを目指した学科で、二年の最後に二ヶ月間海外研修で発展途上国に派遣される。そこでの生活がハードらしく、それが原因で人気がないらしい――。 講義が終われば、私はちゃきちゃきと帰り支度をする。
教室のざわめきの間をすり抜けていくのは、入学して早一年、もうすっかり板についたものだ。年度末、海外研修に行くまでに、学科内の輪を深めようという魂胆らしく、飲み会やカラオケ大会がしょっちゅう計画されるが、私はそんなものには全く興味がない。板につくというのは、そういうのに興味がないというのが、学科の人たちに認知されるということだ。
二階まで下り、法学部の校舎に向かう。私のマイナーな学科が組み込まれている社会学部の校舎と法学部の校舎は、二階で渡り廊下で繋がっている。他の学部の校舎は基本的にバラバラだが、この二つの学部は資料の貸し借りが多いらしく、結果的に繋がったらしい。
渡り廊下のコンクリート床は、いつも湿っていて湿気臭い。それでも私は、この廊下を渡ることが好きだった。廊下を渡った先に見える、通常のものより天井の低い階段を上ることも、階を重ねるごとに、私の足音だけが大袈裟に反響する校舎も。全ては、五階の、西向きの部屋に繋がっているから。
立て付けの悪い扉は、少し持ち上げて引くと開けやすい。この部屋の諸事情も、すっかり理解してしまった。半年前までは、ドアを開けるのに、必ず誰かの協力が必要だったのに、今では一人でも簡単に開けられる。それが、『新人』から『一員』に変わることなのだと、入部当初はしみじみ思っていた。
「こんにちは」
西日が教室いっぱいに差し込んでいて、おまけに扉を開けるともわっと埃が巻き起こる。
煙たい部屋は、上下にスライドする黒板と、木製の小さな机と椅子が一脚ずつセットであるだけで、他には何もない。その小さな机と椅子のセットには、大抵冬野先輩が、黒渕の眼鏡を小高い鼻に引っ掛けて、何かに目を落としながら――何かというのは、大抵は文庫本などの書物で、時々脚本や、雑誌、参考書などを見ている時もある――座っている。他の人は、その机を囲うようにして、地べたに座って、ぺちゃぺちゃ何か話をしていることが多い。
今日も案の定、小さな机と椅子に、冬野さんが座っていた。西日を半身に受けながらも、静かに本を読んでいる。いつも机を取り囲んでいるメンバーは、今日はまだ来ていないらしい。
私が来たことに気が付いた冬野さんは、本からゆっくりと視線を持ち上げた。
「こんにちは、るかちゃん」
冬野さんは、レンズの向こうで、目尻をくしゃりとさせる。逆光で、顔がはっきり見えなかったけれど、私には彼が笑っているのがわかった。私は冬野さんのその笑顔が大好きだ。
「今日は早いね」
冬野さんは、読み掛けの文庫本に、丁寧にしおりを挟んでぱたんと閉じる。
「そうですか? 急いで来たからかな」
「意欲的だね」
私はふふふと笑った。あなたに早く会いたかったんです、ということは、口が裂けても言えないから、その代わりに。
「何の本読んでたんですか」
「今のは、シェイクスピア」
「冬野さんも、外国文学読むんですね」
「また脚本書かなきゃなんないから、少しでも視野を広げなきゃって思ってさ。外国文学、避けてたけど、読むと意外とはまっちゃって」
今度は冬野さんが、ふふふと笑った。本当に読み出すとはまりますよね、と相槌を打つ私は、本なんて滅多に読まない。でも、いくらでも背伸びしたくなる。私よりずっと高い位置にいる冬野さんに、少しでも近づきたいから。それがたとえ虚栄の階段だったとしても、私は上ってしまうのだった。
「ちわ」
短い挨拶と共に、鈍いドアが開く。
「あ、リク」
「……反応薄いな」
リクは少し不機嫌そうに顔をしかめた。
「こんにちは、リクくん」
「あ、冬野先輩、ちわっす」
リクはさっさと鞄を下ろし、やはり冬野さんの机のそばに、どかっと腰を下ろした。
「今日もお疲れっぽいね」
「最後の講義、村上だったんです。俺、アイツの講義ホントダメで」
「あの人の講義、大体皆寝てるしねえ」
「あー、最初からアイツの講義くだらんって言ってくれてたら、取らなかったのに」
リクは独り言のように不平を言ったあと、私に肩を貸せという。しゃがんでやったら、私の肩を枕代わりにしてきたので、もたれてきたところをひょいと交わしてやった。するとそのまま床に倒れ込み、またぶつくさ言っている(今度は私に)。
リクは私の幼馴染みだ。
といっても、一緒に居られたのは小学校までで、中学高校は、リクの親が離婚したことをきっかけに、リクが大阪に引っ越しすることになって離れ離れになり、もうお互い会うことはないと思っていた。しかし、大学に入学してみると、なんとそこにはリクが居て、しかも結果的に、同じサークルに入っているとは。もう腐れ縁としか言いようがない。
「ちっさい頃は膝枕してくれたのにねえ」
「もう数年で二十歳を迎えるお兄さんが何をおっしゃいますやら」
私がからかうと、リクは笑った。苦笑いに似た笑みは、遠い昔を見つめた、懐かしそうな笑みだった。
「こんちは」
「今日は皆早いね」
今度は二人同時に来訪。明るい声はサークルのムードメーカーで、それに続くはきはきした声はサークルのマドンナの声。
「あれ、一緒に来たの?」
「うん、そこでばったり会ったから」
「やっぱりオレら運命的だよね」
「はいはい」
ムードメーカーの東城先輩が言いながら、すなおの頭を強く撫でるのを、すなおは慣れたようすで簡単にかわす。この光景は、もはやこのサークルの名物とも言えるほど、日常的になっている。
「今日は何しましょうか」
「そうだね、昔の小道具とかの整理を頼んでもいいかな。次の話に使えそうなもの、探したいから」
「話、また書かれるんですか?」
「うん、前々から書いてたけど、ちょっと詰まっててね、でもさっきひらめいたから、もうあとはすんなり行くよ」
冬野さんがそう言うと、皆の顔が喜びに満ちるのがわかる。冬野さんの作品が出来上がらないことに、私たちは動き出せないから。『映画研究会』たるもの、まず脚本が出来なければ、話は進まない。
「ほんじゃ、今日はさっさと片付けて、冬野が脚本書きに専念出来るように、早めに切り上げよう」
東城先輩が、先頭に立って、大道具の置かれている、この部屋の隣の小さな空き部屋へと向かった。リクとすなおも、それにぞろぞろとついていく。
「るかちゃん」
私も続こうとしたとき、夕焼けでいっぱいの部屋で一人、小さな椅子に腰をかけたままの冬野さんが、私の名前を呼んだので、私はどきんとした。
「るかちゃんにとっての初映画、頑張ろうね」
冬野さんの声は、私の心をそっと覆い尽くした。どきん、が、どきどきに変わった。ありがとうございます、と言うのがやっとだった。立て付けの悪い扉を閉めた後も、私の心臓はどきどきどきどきうるさく鳴き続けた。