陸
アパートに着いてタクシーを降りると、黄色いヘルメットを被った作業員がニ・三人忙しそうに立ち働いているのが見えた。これ以上また何かあったのか、晴明が足を速めると、アパートの大家が青い顔をして近づいてきた。
「晴明君、大丈夫だったかい?」
「あ、平気です。これは一体……」
「全く物騒な世の中だね。強盗にしてもやりすぎだよ。雀ちゃんも怖かったろう」
大家は心底恐ろしいという顔をして、雀を見て何度も頷いた。晴明は何があったのかもわからぬまま、大家に悪い印象を与えない為に適当に笑って誤魔化し、外階段を登り部屋に向かう。目に飛び込んできたのは、吹き飛んだアパートの玄関ドアだった。台所の前、アパートの通路側の窓も粉々に砕けている。
「あれ、うちですよね。なんで……」
後を追ってきた大家に問いかける途中で晴明は絶句した。一体何があったのだ。トラックにでも衝突されたようだが、ここは二階なのだ。そして、両隣には何の被害もなく、晴明の部屋だけがめちゃめちゃに壊されている。
「何があったのかさっぱりなんだよ。あ、修理費は……なんて言ったかな青島さんだったか、晴明君の上司だって人が立て替えていったから。あとで領収書と一緒に清算するからね。すぐに直すのは無理そうだけど、その人のところに落ち着くまで住む予定なんだって? この時代に親切な上司もいるもんだねえ。まあ、体だけしっかり治して、ね」
大家はペラペラと言うだけ言うと去っていった。
晴明は割れたガラスを踏みしめて、土足のまま部屋に入る。黙々と散らかった部屋のものを移動して、貴重品を入れたケースを見つけ出した。何もなくなっていないなんて日本は平和だな、と思い、これが平和なものか、と心の中で吐き捨てた。
「なあ雀、棗ちゃんは?」
部屋の外で待っていた雀に「行くぞ」と声を掛けようとする寸前、声変わり前の少年の声が響いた。隣の部屋の玄関ドアが細く開いていて、白夜が顔をのぞかせていた。
白夜は晴明の部屋の隣に住む、父親と二人暮らしの少年だ。何の仕事をしているのか父親は滅多に家にいないらしく、晴明は会ったことがない。毎日、買い物袋を抱えて歩く少年に晴明は勝手な親近感を抱き、時々夕飯に誘ったりしていた。
「白っくん」
雀はちらりと見てから、しょんぼりと俯く。聞かれたことで棗の怪我の事を思い出してしまったのだろう。
「棗はもうすこし病院なんだ。ごめんな、白夜。迷惑かけて」
晴明は努めて明るく言った。
「それは大丈夫だけど。父さんが心配してたよ」
「へえ。父ちゃん、帰ってるのか?」
「あ! うん。ちょっとだけね。今はもう仕事に行ったけど……じゃあ棗によろしく」
白夜はぺこりと頭を下げると、出てきた時と同じように、音を立てずに部屋に戻っていった。前から少し思っていたが、あの子も何かおかしい……そう思いかけて晴明はぶんぶんと頭を振った。変な話をされたから、何もかも怪しく見えているだけだ、と自分に言い聞かせる。
「さてと、じゃあ銀行に寄ってから病院に行くぞ」
見上げた雀の表情の中にある不満に気づかないふりをして、晴明は自転車置き場へと向かった。さすがに、これだけ出費がかさんでいるのに、タクシーを使う気にはなれない。
アパートの角を曲がって裏手に入ると、コンクリートの塀が少し崩れているのが目に入った。自分が打ち付けられた場所だ、と思いだす。コンクリートが砕けるほど打ち付けられたのに、どこにも怪我がないなんてことがあるのだろうか。そして、アスファルトに点々と残る染みが目に入った。血の染みだ。
――あんな風に刺されて、普通の人間なら……
「クソったれ」
再び頭を振って、思考を消す。そして、誰が戻してくれたのか部屋番号の書かれた場所にきちんと止められている自転車を引っ張り出した。
「雀」
名前を呼ばれ、雀は渋々と言った感じに自分の自転車を引っ張り出した。
「車に気を付けて、ついて来いよ」
晴明はまずは銀行に向かって、ペダルを踏み出した。
■
入院費は棗が十万で、自分の分も恐らくそれだけあれば間に合うだろう、と見当がつく。だがドアと窓の修理代は見当がつかない。晴明は悩んだ末にとりあえず百万円を口座から引き落とした。減るばかりだった通帳の残高が、やっと少しだけ増え始めた矢先なのに、と考えてしまう自分を情けなく思った。
青沼の気持ち次第では今の仕事もどうなることか、と思う反面、きっと青沼は何もなかった顔をしてくれるだろうと思った。それをわかっていて怒鳴り散らしてしまった自分の青臭い甘えも情けない。
――俺、どうすりゃいいんだよ、一乃仁
心の中で名前を読んだら涙が零れそうになった。しっかりしろ、病院についたぞ、と自分を叱咤する。自転車を降りて、雀の手を引いて院内に入った。
「あれ」
逆名瀬病院は実に簡単な形状で、迷うような要素はどこにもなかった。それなのに、青沼と入った「関係者以外ノ立入ヲ禁ズ」のドアが見つからない。それどころか、自分が入院していた部屋も見つけられない。三階建ての建物をぐるぐると歩き回って、確実に違うと知りつつ「関係者以外の立ち入りをお断りいたします」の貼り紙があるドアを開けようとしたら、通りがかりの看護師にすごい剣幕で怒られた。
「どうなってんだ」
病院内をうろつく晴明を不審に思った誰かから報告されたのだろう、男性の看護師がこちらを探すようにして廊下に出てきた。
「何かお困りですか?」
そうなって初めて、誰かに聞けばよかったのだということに思い当る。
「あの、妹の病室がわからなくなって」
「何科ですか?」
「あの……」
しどろもどろになる晴明に、看護師はにっこりと笑って廊下に置かれた長椅子をすすめる。座ってる場合ではないのだが、突っ立っていては邪魔なことも間違いない。晴明は誘われるままに椅子に座った。
雀は離れた場所に立っていて、あらぬ方を向いているが、耳はしっかりこちらに向いているようだった。
「外科、じゃないかと思うんですけど」
「妹さんのお名前は?」
「八塚棗です」
「八塚さんは……確か今朝退院したって申送りで……」
看護師は記憶をたどろうとするように視線を上げた。その顔から、引継ぎで聞いただけだが、珍しい名字だから覚えていた、という程度の記憶だと思われた。
「あ、それは多分、俺です。妹はまだ入院してて。妹の担当の先生が三鍼先生だと思うんですが。きれいな女性の……」
「三鍼ですか……そういう先生はうちには居ませんよ? 八塚棗ちゃんですよね。ナースステーションで確認してきます」
看護師の男はにっこりと笑って去っていった。
「どういうことだよ」
晴明は少し離れた場所に立っている雀を見る。話を聞いていないふりをしているのはわかっていたが、問い詰めれば、また化け物だのなんだの訳の分からない話をしだすに違いない。
「やっぱりいませんねえ。ほかの病院……ってことはないですか?」
看護師の男はまだ遠いうちから声を張り上げる。この忙しいのに馬鹿な若造の為にそこまで行くのが面倒だ、と言わんばかりの態度に晴明は肩身の狭い思いがした。
「すみませんでした……あの、確認してみます。雀、行くぞ」
消え入りそうな声で言って、晴明はそそくさと逃げるようにその場を後にする。自転車まで戻ると、どうしていいのかわからなくなった。アパートの部屋には戻れない。棗は見つからない。大金を現金のまま抱えて途方に暮れる。
二十一歳なんてまだまだ子供だったということを痛いほど思い知った。
一乃仁が居なくなった三年前のあの日。きっと二十歳を過ぎれば……大人になれば何もかもが、出来るようになる気がしていた。「君では育てられない」と雀と棗を誰かに連れていかれるかもしれない、そんなふうに怯えずに済む。二人の保護者として立派にやっていけるようになる、と思っていたのに。やっていけるようになった、と思っていたのに。
少し問題が起こったら、何をしていいかわからず、身動きもとれない。棗はどこにいるのか、それがわからないならどうすればいいのかもわからない。
「どうなってんだよ!」
晴明が叫ぶと雀がビクリと身を固くした。それを見て、また情けなさがこみあげた。
「ごめん、雀。大丈夫だからな」
「ねえ、はる兄。棗は大丈夫だよ」
雀は晴明の顔色を見るようにして言った。いつでも開けっぴろげに感情を表に出す雀の、こんな風にお人の顔を窺うような表情は見たことがない。何もできないと言ってはいられない。妹たちを守らなくてはいけないのだ。晴明はごくりと唾を飲み込んで作り笑いをした。
「一旦、青沼さんのとこに戻ろう」
ぱっと雀の顔が明るくなって、晴明はバツの悪さに視線を外す。
「先に金を返して、棗の居場所を教えてもらって、それから迎えに行こう」
見ていなくても雀の肩が落ちたことがわかった。その気配で、何も知らなかったことにむくれた自分が無駄な意地を張っているような気分になった。だが、あの薄暗い病室で青い顔で寝ている棗と、気持ちの悪い女医の赤い唇を思い出し、やはり連れ出そうと心を決める。
「その前に、腹減ったからハンバーガーでも食うか、雀」
明るい顔で提案したが、雀の表情は晴れなかった。晴明は黙って自転車に跨る。雀も乗ったことを確認して、再びペダルを漕ぎだした。
*この話に出てくる白夜君は甲姫様の「俺の養父は無毒である」からお借りしたキャラクターです。この場を借りてお礼を申し上げます。設定に齟齬がある場合には、甲姫さんの設定が優先されます