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彼誰刻の我楽多  作者: タカノケイ
我楽多
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 晴明はるあきと目の合ったすずめは、驚いたように目を瞠った。視線が段々に下がり、その目にこんこんと溜まっていった涙がぽとりと床に落ちた。何が何だかわからない。わからないが、なつめが怪我をして、雀が泣いている。晴明は雀から棗を抱きとって、周りを見回した。


「すみません……妹が怪我をしてるんです。あの……」


 雀が黙って晴明の足に抱きつく。廊下を行く人は驚いたように少しだけ反応し、関わらぬようにしようというていで、そそくさと三人から離れていった。腕の中の棗がうっすらと目を開く。


「……お兄ちゃん、ごめんなさい」


 棗の唇から細い声が零れた。何故黙っていた、となじりたい気持ちがすうっと引く。理由など、心配を掛けたくないから、に決まっている。棗はそういう子だ。


「謝らなくていいから、な、棗。ちょっとだけ我慢しろ。お兄ちゃんが先生のところに連れてってやるから」


 棗は力なく頷いて、雀が晴明の足にへばりついたまましゃくりあげ始めた。


「ご、ごめん、ね。はる兄、あたし、役に立たなくて」


 切れ切れの声で、やっと聞こえるような涙声で謝る。晴明の中にふつふつと怒りが沸いた。それは妹に対してではなく、訳も分からぬままに妹たちをこんな目に合わせ、何もできない自分に対してだった。


「誰か! 怪我人です。助けて、助けてください! 誰か、看護婦さん!」


 怒り任せに大声で叫んでも、誰も来てはくれなかった。ただ、棗を助けてほしいだけなのに、ここは病院だというのに、どうして誰も来てくれないだのだろう。晴明は焦る心を抑えて棗に笑いかけた。


「ごめんな。ちょっと歩くぞ」


 棗を抱いたまま、晴明はナースステーションを探すためにふらふらと歩きだした。だが、白い廊下をどれだけ歩いても、いくつ角を曲がっても、ナースステーションは見つからないし、どこにも辿り着かないのだ。


――なんだよこれ、どうなってんだよ


 廊下にいる人々はまるで幻のように、話しかけようとするとどこかへ居なくなってしまう。晴明は十年以上前、一乃仁に引き取られてすぐの頃に、ここに来た記憶をたどった。何故来たのかは覚えていない。ただ、あの時はこんなにきれいじゃなくて、こんなに広くなくて……焦れば焦る程、何が何だかわからなくなった。パニックを起こしそうになった時、


「八塚!」


 と聞き覚えのある声が響いた。はっとして振り返ると、そこには課長の青沼が立っていた。職場の上司が何故ここに、という違和感を感じるよりも先に、見知った大人に会えた安心感で晴明は泣きそうになった。


「課長、助けてください。妹が怪我してて。なんかこの病院変で、どこにも行けなくて」


 晴明は引きつった声で、とりとめもなく懇願した。青沼は大きく頷いた。


「わかった、もう大丈夫だ。棗、よく頑張ったな」


 青沼が棗の頭を撫でるのを見て、初めて違和感が生まれた。青沼は棗を見たことがないはずだ。名前は教えたことがあったかもしれないが、それにしても雀と区別がつかないはずだ。

 それ以上に二人が以前からの知り合いであるように、名前を呼ぶ声音から感じ取れた。晴明の疑問を含んだ目に気づいたのだろう。青沼は安心させるように、もう一度小さく頷いた。


「訳は後できちんと説明する。雛菊ひなぎく三鍼さんしんに連絡を」と小さな声で言うと、廊下を小さなネズミのようなものが走り去る。


「課長。今のは一体」

「それもあとだ。こっちだ」


 青沼はそう言って、くるりと向きを変えて歩き出した。棗を抱いたまま、晴明は必死でその後を追う。ここで青沼を見失ったら、と思い、服の裾を掴んでいる雀を気にしながら、距離をあけないようにしてついていった。まわりを見る余裕もないまま歩き、立ち止まったのは「関係者以外ノ立入ヲ禁ズ」と書かれた紙が貼ってあるドアの前だった。青沼は何食わぬ顔でそのドア開けようとしている。自分たちは間違いなく関係者ではない。


「課長、ここ立ち入り禁止って」

「ここでいいんだ」


 青沼が自信たっぷりに言ってドアを開ける。そこは、なんとなく薄気味の悪い廊下だった。窓が一つもない。ぽつりぽつりと天井で光るオレンジ色の電燈は、足元を照らすには心もとない明るさだ。

 ここを見た事があるような気がする、記憶の中の逆名瀬病院に近いと晴明は思った。そして、その記憶は理由の分からない不安感を伴っている。


砂生さそう


 薄暗闇の中、何もない壁の前で青沼がつぶやく。その途端、青沼の前の壁がぐにゃりと歪んだように見えた。青沼がドアを開けて中に入る。壁しかなかったはずなのに……晴明はぶんぶんと頭を振った。そんなわけがない。現実に扉は目の前にあるのだから。落ち着け、と自分に言い聞かせて晴明もドアをくぐった。


「ここは……」


 何なんですか、という言葉を晴明は飲み込んだ。普通の診察室に見えない、と言っているようで失礼だと思ったからだ。

 だが実際に、ドアの中はあまり清潔とは言えない処置室だった。壁一面に薬品の並んだ棚があり、中央にベッドが一台置いてある。

 そのベッドの横に白衣を着た化粧の濃い女がいた。背もたれの付いた回転いすに気だるげに面倒くさそうに腰掛けている。


三鍼さんしん、急患だ」

雛菊ひなぎくに聞いているよ。そこに寝かせな」


 青沼に三鍼さんしんと呼ばれた女医は前半を青沼に、後半を晴明に言う。こんなに汚い処置室で、怪しい医者に棗を見せていいものか、晴明はここに来て不安を抑えきれなくなった。


「いや、ちょっと待ってください。ここは一体何なんです? その人、本当にお医者さんなんですか?」

「信じないなら帰っていいよ。でも、その子はここでしか助けられないと思うけどねえ」


 三鍼は細く整えた眉を、すっと上げた。真っ赤な唇が奇妙に歪む。それがまた女医の纏ってる妖しさを増した。晴明は腕の中の棗を見つめた。ぐったりとして、ぴくりとも動かない。その様子から、早く見てもらった方がいいのは明らかだ。変な女医だが、病院にいるし、白衣を着ているのだから医者には間違いないのだろう。


「八塚。こいつは性格はあれだが、腕は確かだから」


 青沼に促されて、晴明は躊躇しながらも棗をベッドにそっと横にした。粘るような三鍼(さんしん)の視線が晴明の体の線を撫でていった。ぶわり、と体中に泡が立つ。


「おかしなことを言うと殺すよ、蓮角(れんかく。で、あんた、夜吹よすいだね? 傷を見せとくれ」


 女医は、青沼を睨んでから、少し声量を上げて棗に尋ねた。れんかく? 課長の名前は蓮司のはずだがあだ名だろうか? それによすい? とは一体何の事なんだ。


「……はい」


 意識がないように思っていた棗が小さく返事をした。晴明は棗を覗き込むが、視線が合わなかった。ワンピースを切り裂くためだろう、鋏を持って棗に近づいた三鍼が、ふ、と顔を上げる。


「こら、レディの裸を見るつもりかい? 男はそっち」


 顎で衝立を示す。晴明は不安を残しつつ、大人しく従う青沼に続いて、衝立の陰に移動した。ジャキジャキと布を切る音が響き、衝立のクリーム色の影が動く。


「いつ、刺された?」

「昨日の八時くらいだよ」


 三鍼さんしんの質問に、棗に変わって、雀がしっかりと答えているのが聞こえた。あれ、と晴明は思う。雀は怖がりだ。幽霊とかお化けというものに弱く、あんなに狭いアパートなのに、怖い本を読んで一人でトイレにいけなくなることなんてしょっちゅうなのだ。

 どう見てもこの部屋は不気味である。怖がりそうなものなのに、何故平気そうなのだろう。自分の知らないものに、いつの間にか周りを全て取り囲まれていたような恐怖を感じて、晴明は拳を握りしめる。


「こりゃあ、河羽視かわしの槍傷だね」


 衝立の向こうで三鍼が言って、青沼が大きく舌打ちした。タバコの入っているポケットに自然に手を伸ばし、我に返ったようにその手をわき腹に擦る。何を動揺したのだろう。そして、河羽視かわしという聞きなれない単語を、自分は昨夜聞いたことを思い出した。


「大事には至らないだろうけど、なんでもっと早く来なかった?」


 少し責めるような三鍼の声と、きゅぽん、と何かの栓を抜く音が響く。棗は返事をしなかった。


「ああああああ!」


 急に棗の悲鳴が響き、晴明は咄嗟に衝立を掴んだ。その腕を、青沼ががっしりと掴んで止める。


「言い忘れたけど、ちょいと染みるよ。あと、そこの怪力。うちの衝立を壊さないでおくれ」


 なんでもない事のように三鍼が告げる。我に返って自分の腕を見ると、その腕は真っ赤になっていて、鉄製の衝立の枠が掴んだところからへにゃりと曲がっていた。

 晴明が驚きと恐怖を感じると、手は一瞬で肌色に戻った。昨日の夜と同じ――これは課長にも見えるのだろうか――恐る恐る青沼を見ると、険しい顔つきで晴明の腕を睨んでいた。


「まさか、その坊主は陰奴おんぬかい?」

「いや、ちがう」


 三鍼が衝立の向こうから顔をだして質問した。晴明を見る目に疑いの色があった。その目と、質問に対する青沼の答えが早すぎた気がして、落ち着かない気持ちになる。おんぬ……またしても知らない言葉だ。だが、昨夜聞いたばかりの言葉でもある。


「ま、陰奴がこんなとこにいるわけないやね。気配は人の子のようだが、面倒事じゃないだろうね?」

「大丈夫だ」


 三鍼さんしんはまあいいか、というように衝立の向こうに引っ込んだ。青沼は、今度はちらりと晴明を見てから答えた。それは、大丈夫だよな、と確認されたような気のさせた。


「さて、終わった。入っていいよ。この子は数日うちで預かるからね」

「すまんな」


 青沼はそう言いながら衝立を出たが、晴明は動くことが出来なかった。


「謝るこたないさ。仕事だからね。十万用意しな」

「ああ、必ず。八塚、雀、帰るぞ」


 青沼が振り返り、衝立を掴んだまま動けない晴明を呼ぶ。顔を上げて衝立の後ろから出ると、ガウンを着せられた棗が、ベッドに横になってすうすうと寝息を立てているのが見えた。


「お願い。あたしもここに居させて?」


 ベッドの棗に縋るようにしていた雀が、三鍼を見上げて言う。


「患者じゃない者を置く場所なんてうちにはないよ。さあ、帰った帰った。商売の邪魔だよ」


 三鍼に腕を捕まれて引き上げられ、雀は泣き顔で立ち上がる。棗を見たままそろそろと後ずさり、諦めきれない様子で晴明の足に抱きついた。その温かさが、晴明のこわばりを解いた。


「本当に棗は大丈夫なんですか?」

「早く帰れと言ってる」


 三鍼はこちらを見ずににべもなく言い放つ。こんなところに何故、棗を置いていかなくてはいけないのか。そうしたくないのに、他に為す術がない自分が情けなくて、どうしようもなく腹が立った。


「棗になんかあったら許しませんから」

「許さなきゃどうするのさ」


 三鍼を取り巻く空気が変わった。晴明と三鍼は真っ向からにらみ合う。やっぱりこの女医は何かおかしい。棗を連れて帰って、ほかの病院に見せたい、と思うが青沼への遠慮から言い出すことが出来ない。それでも心の底では、まともな病院に連れて行った方がいい、と自分の気持ちが囁く。

 やっぱり連れて帰った方が、と棗の方に進もうとする足を雀が止めた。こんなに小さいのに、押さえつけられて一歩も進めない。


「はる兄、大丈夫だよ。あたしも前にここに入院して先生に診てもらったもん。ね、行こう」


 目に涙をためた雀に見上げられた。そういえば、雀は小学生の時に車に撥ねられて大けがをした。その時、逆名瀬病院に入院したはずだ。晴明はちょうど高校受験の前で「悪い病気に感染すると困るから」と見舞いに行くのを止められた。確か三年前、一乃仁が亡くなる少し前の事だったと思う。雀がそう言うなら本当に大丈夫なのだろうか。第一、連れ出したところで晴明には棗を助ける何の手段もないのだ。


「何かいろいろ言ってすみませんでした。棗をよろしくお願いします」


 ここに頼るしかない。晴明は深く頭を下げたが、三鍼はもう返事すらもしなかった。とうとうしびれを切らしたらしい青沼に腕を引かれ、何度も何度も振り返りながら、晴明は渋々その部屋を後にした。

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