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彼誰刻の我楽多  作者: タカノケイ
我楽多
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 「え、なつめ、なんで」


 かすれた声が口からこぼれると同時に、鼻腔をかすめた血の匂いで晴明はるあきは完全な思考停止に陥った。部屋にいたままの服で靴も履いていない棗は、長い髪をだらりと垂らしてピクリとも動かない。


「お前、それ、俺の大事な……なあ、何してるんだよ」


 晴明は、なんの考えもなく緑色の生き物に手を伸ばした。その伸ばした手ごと体を振り払われて、コンクリートの塀に叩きつけられる。棗がうう、と呻いて横たわる晴明に顔を向けた。


「お……」

「なつめ」


 手をついて、必死に立ち上がろうとするが体に力が入らなかった。妹が化け物に殺されようとしている。それなのに立つことさえできない。絶望と恐怖で視界がぼやけて滲んだ。


「おにいちゃん、にげて」


 棗が細い声でつぶやく。それに反応した緑色の男がタン、と槍を地面についた。棗はより深く突き刺さり、ごぼ、と血の泡を吹く。緑色の男は、鎗を伝って流れてきた棗の血をうっとおしそうに見て、汚い、とでも言うように、鎗を一振りして棗を放り投げた。


「棗!」


 晴明は痛みも忘れて絶叫した。体中の毛が立つのがわかった。薄暗くとも確かに色のあった世界が、反転したように青と黒に染まっていく。心が圧倒的な怒りと暴力に支配されていった。


――いけないよ晴明くん


 一乃仁の声が頭の中で響いて、遠くに霞む。ギリギリと口元に痛みが走る。緑色の大男がわずかながら小さくなっていった。いや、自分が大きくなっているのだ。緑色の男が警戒するように一歩分の距離を広げた。


「てめえ」


 自分の口から洩れた息が生臭い。それを嗅ぐと恐怖と不安と怒りが穏やかな波に変わった。恐怖に取って代わるように、脳の中のとても原始的なところが、獲物を狩る方法を冷静に判断しはじめる。首を叩き折り、臓腑を食いちぎるまでの工程が、手慣れた工場作業のように脳内に組み立てられた。


――あいつの肉は不味そうだ。どうすれば柔らかくなるか


 自分の思考に驚いて瞬きをした。違う、俺はあいつを喰いたいんじゃない。棗を助けるんだ。晴明が動揺したその瞬間を狙いすましたように、緑色の男の槍を繰り出し、それは晴明の腹を貫いた。


「うあああ!」


 強烈な痛みが走った瞬間、晴明の意志は完全に消失した。上半身が肥大し、来ていたTシャツは伸びきって体に貼りつく。自分で自分の体を制御できなくなっていた。

 晴明だったものは腹に槍を刺されたまま立ちあがった。涎がぽとぽとと口元から滴る。緑色の男は戸惑うように視線を泳がせた。


『……この河羽視かわしを喰らおうというのか』


 自らを河羽視かわしと呼び、緑色の男はゆっくりと槍を引こうとする。だが、晴明に掴まれた槍はびくともしなかった。もはや完全な化け物と化した晴明の視線は、ぐったりと倒れる棗を見やることもなく、河羽視から離れない。棗を……と思うのに、自分の体ではないように自由にならない。


『やはり陰奴おんぬよ』


 河羽視は軽蔑の表情を浮かべて槍を離し、そのままゆっくりと後退しはじめた。その体にほんの一歩踏み込んだだけの晴明の拳が叩き込まれる。河羽視は体をくの字に折って、更に踏み込んできた晴明の肩に頭を預けた。


『グルルルル』


 晴明の喉から、野獣の唸り声のような声が漏れ、河羽視の頭を掴む。そのまま、ねじりあげ……ねじきった。盛大な血しぶきを上げて、河羽視の体が倒れる。

 つまらないものを投げ捨てる幼児のように、晴明は河羽視の頭を放り投げる。ゆっくりと屈み、河羽視の力の抜けた体に近づいた。

 瞬間、晴明のみぞおちに強い衝撃が走った。たたらを踏んで後退した晴明の目の前にはフワフワの栗色の髪があった。雀の髪だ……それを目にした瞬間、晴明の視界に色が戻る。


すずめ……」

「いったあ。はる兄、腹かったいよ」


 雀はぷらぷらと手を振りながら悲しそうに笑い、ポケットから取り出したスプレーを晴明に向けて吹きかけた。


「食べちゃだめだよ。はる兄」


 細く小さい体のどこにそんな力があるのか、雀が崩れ落ちる晴明を支えて横にする。徐々に霞む視界に、自分から伸びる真っ赤な腕が映った。脳内に光が走る。ぐ、と息をのんで晴明は意識を失った。



 目を開けると真っ白な天井が目に入った。白いレースのカーテンの向こうの青空には、判で押したような雲が浮かんでいる。外の音が何も聞こえてこない室内で、その窓は一枚の油絵のように見えた。

 消毒液の匂いが晴明の鼻腔をくすぐった。その匂いが押しつぶされそうな漠然とした不安を呼ぶ。晴明はそっと布団から手を抜いて、顔をぬぐった。ベッドサイドテーブルに自分の眼鏡がのっているのを見つけてかける。

 泡立つ不安が爆発しそうな感情に、理性が「恐らくここは逆名瀬さかなせ病院だろう」と告げる。少し顔を動かし、眼鏡をかけたことで、窓の端に逆名瀬病院の隣に立つ大型映画館のピンク色の看板が見えたからだ。


「あ、はる兄。目、覚めた?」


 どん、とベッドが揺れて、すずめが腹の上に飛び乗ってきた。乗られた衝撃だけではない痛みがみぞおちに走って、ぐえ、と大きな声が出る。慌てて周りを見回すとどうやら一人部屋のようだった。こんな時なのに、差額ベッド代、という言葉が頭をよぎる。


「そんなに重くないよ、失礼だなあ」


 腹の上に跨ったまま腕組みをする雀をぼんやりと見て、晴明はどうしてここにいるのだろう、と記憶をたどる。


「あれ? 雀、なつめは?」


 棗の名前を声に出した途端、血まみれの棗と、気を失う前に起こったことを思い出した。腹の痛みも構わずに、晴明はがば、と起き上がって雀の両腕を掴んだ。力が入りすぎたのか雀が顔をしかめたのに気づいて、慌てて離した。


「雀、棗はどこだ?」


 棗は腹を刺されていた。口から血の泡が……焦る晴明の気も知らず、雀はのんびりと晴明の腹の上から降りてベッドに腰掛け、呑気に足をブラブラと揺らしはじめた。横顔しか見えないが指の先が一瞬、鼻の頭を掻いた。嘘をつくときの雀のクセだ。


「着替えを取りに家に戻ってるよ。ってか、はる兄はなんで貧血でひっくり返ったりするかなあ。頭とおなかを打ってるらしいから動かない方がいいってよ。全く、チョコケーキは食べ損ねるし散々だよ」

「雀、こっちを見て」


 捲し立てるように話す雀に向かって、晴明は静かな声で促す。横を向いたままの雀の瞳が青いビーズのように光っている。雀の目の色はこんな風だっただろうか。


「雀」


 追求しようとする晴明を遮るように、ノックの音もたてずにかちゃりと病室のドアが開いた。


「あら、お兄ちゃん。起きても大丈夫なの?」


 そこには、大きな紙袋を抱えたせいで顔半分が見えない棗が立っていた。いつもの青いワンピース姿でスタスタと歩く。ワンピースは穴の一つも開いていない。


「え? 棗?」

「まだ顔色が冴えないね。着替えここに置くから」


 混乱する晴明をよそに、棗はパイプ椅子をかたん、と広げて紙袋を置く。几帳面な顔をしてパンツとTシャツに……と中身を確認しながら指を折っている。


「何?」


 横顔をじっと見つめる晴明に向かって、棗は首を捻る。顔色が悪い気がする、と思った瞬間、ぱっと笑った。普段無表情だからか、棗は表情が浮かぶと急に美少女らしく華やかな印象になる。


「いや」


 夢、だったのだろうか。そうか、それなら、良かった。引きつっていた晴明の頬に笑いが浮かんだ。あれが現実だなんて、そんなわけがないではないか。あまりに荒唐無稽な悪夢だ。第一、自分だって刺されたではないか。それなのに、と自分の腹をさする。少し痛い気もするが、傷一つない。


「なんか、悪い夢を見てたみたいだ」

「人の心配も知らないで呑気でいいですわねえ。ほら、雀、学校に行くよ」


 晴明を可愛くにらむと、棗はさっさと扉に向かった。


「ええー! 今日は休もうよう」


 ごねる雀に返事もせずに、棗が廊下に消える。ち、と小さく舌打ちをして、雀も病室を出て行った。一人残された晴明は腹を抑えて横になる。


「夢だったのか。なんつうリアルな。あいてててて」


 横になって天井を見つめると、ふ、と何かが心をよぎった。


――今日は日曜じゃねえか


 ベッドを飛び降りて、病室を出る。そこには、ぐったりとして服に血を滲ませている棗と、それを軽々と抱え上げている雀がいた。

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