エピローグ
一旦明るくなった景色は、瞬きする間に薄暗闇に戻った。
――俺たちの彼誰刻だ
何を見るまでもなく、体がそう感じた。
「お、戻ったな」
青沼の声に目を向けると、そこは我楽多の集会所である神社だった。出かけた時と全く同じ場所に座長の拓善と大杉校長、そして青沼が立っている。時間が経たない、というのは本当なのだ、と実感する。
「んでは、さっそぐやってみせろ」
「え?」
座長にじっと見られて、晴明はたじろいだ。やってみせろ、というのは陰奴の姿になってみろ、ということに違いないだろう。まだ一度も使ったことがないのに、うまくやれるだろうか。受け取ってすぐに試してみればよかったと思うがもう遅い。
「はい」
ライターを取り出して、震える手でカチリ、と付ける。青い炎が付いてふわりと浮かんだ。熱そうには見えないが。晴明はごくりとつばを飲み込んで、口を大きく開けた。
――はっ
息を吸い込むと、炎は意志を持っているように晴明の口の中に飛び込んできた。熱くはない。ごくり、と飲み込むと手足がカッと熱くなった。熱くなった場所から徐々に赤みが広がる。どちらかと言えば細身の晴明の体が、筋肉で膨れ上がる。
だが、体の芯は熱くならずにいつものままだった。陰奴に変化しているときにいつも感じる凶暴な思考にも支配されない。
「おお。んだが。んだったのが。ほんではしんぺえねえな」
座長は、得たり、というようにうんうんと深く頷いて、去っていった。
座長の頷いた意味がわかっていないのは、どうやら晴明だけではないようで、座長の背中を見送った全員の顔に疑問符が浮かんでいた。
「ま、座長は早く戻って飲みたいんだろ」
ぼそっと呟いた千太の声を聞きとがめて、コホン、と大杉校長が咳払いをする。
「八塚君、異常はないですか?」
「……はい、大丈夫です」
「元に戻れますか?」
「やってみます」
できる、できる、できる、と心の中で唱えて、晴明はライターを目の前に翳して、チン、とふたを開けた。そこにゆっくりと息を吹きかける。手足に散らばった熱が肺に集まり、喉を通って出ていくのを感じた。ライターを持つ手が肌色に戻る。
ふう、と最後の息を吐ききると、ライターには青白い炎が灯っていた。
「お見事。何も問題ありませんね。さて、今日は疲れたでしょう。お腹がすいているなら戻ってもう少し食べてもいいし、大丈夫なら早めにお帰りなさい。私はこれで帰ることにします。明日は全校集会ですから、原稿をまとめないと」
校長が、緊張が解けた顔で言って片目を閉じた。長い長い「校長先生のお話」を思い出して、同級生三人は顔を見合わせて苦笑いする。
「いろいろとありがとうございました」
晴明はぺこりと頭を下げた。明日も仕事を頑張りなさい、と笑って大杉校長は座長の後を追っていった。
一人で生きていけるようになった、と思っていた自分がいかに甘かったかをここ数日で味わった。
それは俳でなくても、恐らくそうだったのだ。運よく何もなかっただけで、小さな小石に躓いても立ち上がるのが難しいほど、自分はまだ未熟なのだと思い知った。たくさんの人たちが陰ながら自分を支えてくれていたから、今があったのだ。
「さあて、どうする? 戻って食うか? 帰って寝るか?」
青沼は煙草を咥えたまま、もごもごと言う。
「課長、ありがとうございました。で、出来ればもう戻って寝たいです」
晴明は即答する。もうくたくただった。今朝起きてから、体感だと二十四時間以上たっている。しかし、戻ると言ってしまってから、また階段を登り降りしなくてはいけないことを思い出してゲンナリした。
「じゃ、僕は先に戻るね。今日は楽しかった。またすぐ来るよ。はるに隠す必要がなくなったしね」
南天は言い終わると同時に深い息を吐く。少しすぼめた口から吐き出されているのは真っ白な雪だった。雪はやがて南天を真っ白に包み込んだかと思うと、ふわっと霧散した。そこにはもう南天はいなかった。
「な、んだよ急だな。お礼もちゃんと言ってねえのに」
あまりにあっけない。晴明は誰も居ない空間に向かってぼやく。そうか、南天はこの能力でここまで来たのだ、と納得した。自分だけが通れる随を持っている、ということにでもなるのだろうか。
「これからはしょっちゅう会えるって。俺も帰るわ、さすがに疲れた」
千太はフウ! と炎を吐く。そこに、あの狐の銀細工が付いた鍵を入れてカチャリと回した。そこに現れたのは、千太の住んでいるアパートの部屋の中のドアだった。
「じゃあ、明日な、はる」
「おう、本当にありがとな。……って、ちょっと待て!」
このドアなら、誰でも通れるのではないか? そう気がついての叫びも虚しく、千太はドアの向こうに消えて、パタン、とドアが閉じた。途端にドアも炎も幻だったかのように消える。
「あああ! 千太の家からなら、課長の家に近いのに! あ、でも、車……そっか」
千太の扉から帰ることが出来れば早い、と思ったが、よく考えたら青沼の車を廃寺の階段下にある駐車スペースにとめたままだ。それよりも、何故こんな便利な能力や道具があるのに、わざわざ車で来て階段を上り下りしてここまで来たのだかわからない。
向こうからこちらへは来られないシステムなのだろうか? いや、それだと南天が東京から一瞬でここまで来られた理由の説明がつかない。
「……何を騒いでる? 俺たちも帰るぞ」
青沼の声に振り返ると、青沼の前にゆらゆらと何か漂っている。水……だろうか、とじっと見ると、その水の向こうに見慣れた茶の間が見えた。
「先に行け」
「ええっ」
青沼に手首を掴まれて水の中に放り投げられる。水はぬるりとした感触で、生暖かい。息を止めて通り抜けるとそこは、まさしく青沼の家の茶の間だった。
水の中に入ったというのに、服も髪も一つも濡れていない。
「あの、車は良かったんですか?」
晴明は後ろから出てきた青沼の気配に向かって呟く。
「ああ、勝手に帰ってくるから」
勝手に? 車が? 訳が分からない。だが、それを考える思考能力すら、疲れで回らない。
「行く時は大変だったけど、帰りはすぐなんですね」
「いや、行きもこれで行けるけど。お前にいろいろ見せようと思って」
行きも……これで行けた? 晴明は崩れ落ちて畳に手をついた。
「いろいろって……昨日のあの騒ぎで……今日は二時間残業して……、そのあとでなんで俺がいろいろ見たがると思えました?」
思わず愚痴が口から洩れる。とにかく異様に疲れていた。この場に倒れ込んでしまいたい衝動をかろうじて堪える。こんなに疲れたことはない、というくらいに疲れている。
「あ、そうだ。止水に吸われたんだったな。疲れたろ?」
失念していた、というように青沼がポンと手を打つ。
「しす……校長先生が」
吸われた? そういえば盃事のあとの暴走が治まったのは大杉校長が後ろに立ってからだ。その時、背中に感じた妙な違和感を思い出す。
「華歯朶に力を吸われても動き回れるんだから、陰奴の体力はケタ違いだよなあ」
困惑する晴明の前で、青沼が感心したように言う。吸われたって何を……どうやって? と思うが頭も口も回らない。
「まあ、今日はもう寝ろ。風呂は明日でいいだろう? 鈴蘭、布団は?」
青沼が声を掛けると、奥の襖がすっとあいた。その襖に続いて、次の空き部屋の襖も開き、空き部屋の襖も開くと晴明が借りている奥座敷が見えた。そこには既に布団が敷かれている。
「おふとぅん!」
叫び声をあげて走って、布団にダイブする。姿は見えないが鈴蘭が準備しておいてくれたのだろう。晴明は滅多に姿を見せない美少女に、心の中で手を合わせる。ピシっと敷かれた布団はふかふかで柔らかくて気持ちがいい。
「まあ、ゆっくり休め」
カチ、カチ、とライターを開け閉めする音とともに青沼の声が遠くなる。家の中は禁煙だから外に吸いに行ったのだろう。晴明は両手足を伸ばして大の字になる。
――疲れた。……だけど、楽しかった。何だか久しぶりにすごく楽しかったなあ
青沼にああは言ったが、間庭寺も、三途の川マーケットも、夜の市場も、薄気味悪くて賑やかで、怖くて、面白かった。千太と南天と三人で歩くのは、学生時代に戻ったような気持ちがした。あ、南天が女子だったのは本当にびっくりだ。風呂も一緒に入ったことがあったの……晴明はガバ! 身を起こした。
「ま、いっか」
南天がそれで平気なら、別にいい。ぱたりと倒れ、ガラスと障子戸の向こうに彼誰刻の薄明りを感じながら静かに目を閉じる。とたんに意識がもうろうとした。
――一乃仁、今日、すっごい楽しかったよ
誰かが布団を掛けてくれる感触があった。それはとても懐かしい感触だった。それが誰かを確認することもできないまま、晴明は深く幸せな眠りに落ちた。
<第二章 了>
これにて二章終了です。
お付き合いいただいてありがとうございます。
いつになるかはわかりませんが、また三章でお会い出来たら嬉しいです。