玖
落ち葉の嵐が収まるのを待って、晴明はゆっくりと目を開けた。そこに広がっていたのは見渡す限り何もない草原だった。既に目に慣れた彼誰刻の明るさである。
「ここ、好きじゃねえんだよなあ」
千太の声がして振り返ると、そこには俳の姿の千太が立っていた。狐のような顔立ちに、ふさふさとした尻尾。顔は昨日見た時と同じだが、服が見たことのないものに変わっていた。
上は着物で、下は袴である。上下とも黒で、下から覗いている襟と、袖口や胸のところに付いている飾りのような紐は白い。全体に黒で、所々が白。千太は普段、原色の服を着ていることが多いので、なんだか変な感じがした。
「千太……どうした? なんで、えっと振袖?」
「振袖じゃねえよ! 直垂だよ!」
千太が怒ったように返す。ひたたれ……晴明には聞いたことがない言葉だった。なんにせよ、相撲の行司とか、神社のおっさんが着ているアレだな、と勝手に納得する。
帯の所に銀で型どられた狐と鈴が太目の紐でぶら下がっていて、千太が動くたびにチリリと可愛い音を立てた。その紐は帯を経由して大きめの古い鍵に繋がっている。
自分をかたどったキーホルダーというのはいかがなものか、と一瞬思ったが言わずに飲み込んだ。
「そんなことより、いつ着替えたんだよ?」
「ここはそうゆうとこなんだよ。自分のルーツ? アイデンティティ? そうゆうの? のカッコになるんだ」
どうやらよくわかってないらしい千太を横目に、自分は何を着ているのだろう? と気になって服を見下ろし、南天と繋いだままになっている手に気が付いた。
「あ、悪……えー!」
晴明は思わず大声を上げる。自分は何故か西芝精機の作業服姿だった。これが俺のアイデンティティかよ? とは思うが、それはどうでもいい。
作業着の青い袖を辿ると、南天のものよりも華奢で小さな手があり、その先には、着物姿の儚げな美少女が居たのだ。
千太と同じ和服だが、今度こそ間違いなく振袖だろう。素材は千太のものより随分と上等だ。白地に光沢のある白い糸で刺繍がしてある生地で、襟の内側から覗く半襟は赤く、へその上あたりで蝶結びに結ばれている帯も赤い。
帯って背中で結ぶんじゃないのか? という疑問が浮かんだが、その帯のあたりまで垂れた艶のある真っ黒な髪に目が奪われる。上に辿ると黒髪に何本も刺された簪の金が良く映え……いやいや、そんなことよりも……晴明はごくりとつばを飲む。南天の顔だ。南天の顔なのに、素晴らしく可愛らしいのだ。
晴明は慌てて、振りほどくように手を離した。
「誰!? あ、いや、南天の顔だな。でも、女の子? だよな?」
「ああ。うん、そうなんだよ。人間の女の子ってほら、いろいろ面倒だからさ。男でも面倒な時はあるけど」
「へえ」
答える声も南天とよく似ているし、喋り方も間違いなく南天なのにワントーン高い。男だろうが女だろうが、人間だろうが俳だろうが、南天は南天だ。もうこのくらいで動じてなるものか、と南天の目をしっかり見て笑うと、同じく笑顔を返された。動じない……つもりだが、ちょっと可愛すぎる。
「小さなものが沢山重なると命が生まれるんだ。雨とか、雪とか、波とか……そうやって生まれる俳を屡累という。僕は雪が積もって生まれたから、わかりやすく言うと雪女、かなあ。歳は数えてないけど、明治生まれだよ。名前は南天、千太が南って呼ばないから向こうではあだ名みたいになってるけどね」
南天は少し緊張した顔で、晴明が聞きたいことをすらすらと答えてくれた。知らないことは気になって仕方ない晴明の性格を知っているから……それがいかにも南天だ、と晴明は思った。
「時間が来たぜ、はる」
千太が狐の顔で振り返る。何度か見たので、和服とはいえこちらはかなり見慣れてきた。
昔、妹たちが遊んでいた、なんとかファミリーという小さな人形のようだと思うが、それも言わない方がいいだろう。晴明は緩みそうになる頬を引き締めて、千太の指差す方を見た。
先ほどまで彼誰刻の草原だった場所には夜の帳が降りていた。沢山の灯が一列になってゆらゆらと揺れている。晴明はじっと目を凝らした。
「川? さっきまであったか?」
灯は川に沿って並んでいる屋台と、川に浮んでいる舟の灯りだったのだ。それにしても、さっき見たときは川などなかったような気がするのに、今は小川が川に流れ込むせせらぎの音まで聞こえている。
川に集まる小さな灯りの群れは、まるで死者の魂を弔う為に川を下る灯篭のように見えた。
「ようこそ、三途の川マーケットへ」
千太はにやりと笑う。三途って……晴明はごくりとつばを飲み込んだ。
「そ。向こうは彼岸。間違っても渡るなよ? それと、俺たちにとってここには時間がないから、戻れば月曜の夜。あの場所、あの時ってやつ。だから会社は休めないぜ」
晴明の怯えを面白がるような顔をして、千太は歩き出す。
時間がない……三途……彼岸……恐ろしい言葉を並べておいて、余裕ぶっているのが憎たらしい。そう言えば、千太や南天は肝試しで怖がっていたことがない、と思い出した。怖がる晴明を良く笑っていたが、それはそうだ、本物を見ているのだから。全くズルイやつらだ、と思う。
ふ、と視界の端に何か白いものが掠った。何かと思って視線を移動する。だがそこには何もいなかった。ぞっと鳥肌が全身に立つ。
その瞬間、南天のものとは比べ物にならないくらい冷たいものが晴明の手に触れた。何かと思って見降ろすが何もない。だが、確かに手を握られている。
「せ……せせせせ千太。なんかやばい、なんかやばい感じする」
おろおろと訴えながら、何かに掴まれた腕を振り解こうとするのだが、ぴくりとも動くことが出来ない。金縛り、というやつかもしれない。
同時に、異常に寒かった。ついには声も出せなくなり、喉があわわわわ、と意味のない音を出した。視界が白くにじんでいく。
声にならない悲鳴を上げた直後、背中に人の気配を感じた。同時にじんわりと暖かさが伝わる。背中に手を当てられているのだ、と理解できた頃には視界が元に戻っていた。
とん、と背中を叩かれて、体の自由が戻った。慌ててぶんぶんと腕を振る。
「……お前、何を連れてきたんだよ」
千太は、狐の顔の癖に心の底からうんざりという顔で言った。海外のアニメ映画の喋る動物並みの表情の豊かさだな。とは、助けてもらったのだから言うまい、と思う。
「何も連れてきてねえよ!」
震える声で言って二の腕をさする。まだ鳥肌が立っていた。
「え、お兄ちゃん?」
南天が低い位置を見つめたまま声を出す。
「おい、やめろ南天。まじでそういうのはやめろ。お願いです、やめてください」
「なんで? 俳が居るんだから、幽霊だっているって思わない?」
「ベツモノだ。それはずげえ別物だよ」
俳は少なくとも生き物だ。間庭で見たものの中には、生き物っぽくないのもいたが、それでもギリギリで生きている感じがする。だけど、幽霊は死んでるじゃないか。魂だけとか怖いだろ、ふざけるな。にらむ晴明を見返して南天が困ったように言う。
「いや、子供の霊が居るんだよね。はるのこと、お兄ちゃんって言ってるけど、見えないんだ?」
子供? お兄ちゃん? 晴明は南天が屈んでみていたあたりを凝視する。何も見えない。だけど、子供の霊なのか? 子供が一人で……
「おいおい、霊になんか、かまってないで行こうぜ」
晴明が気にかけたことに気づいたのだろう。止める千太の声も虚しく、晴明はその子供とやらに再び腕を掴まれた。だが、今度は手を振りほどこうと思わなかった。襲われる寒気と戦いながら、晴明は子供がいるだろう場所の前に屈みこむ。どうやら逃げようとさえしなければ、体は動くらしい。
「俺は君のお兄ちゃんじゃないよ。君は誰?」
千太が何か騒いでいるのが聞こえたが、無視して南天を見上げる。
「なあ。この子、どうしてやるのがいいんだ?」
「死んだ子供は賽の河原って決まってる。向こうだよ」
我の強い子供を見る親ような目で晴明をみて、南天は灯の方を指さした。よし、と言って晴明は立ち上がる。自分から憑かれるバカなんて聞いたことねえ、と千太が呆れた調子で毒づくのを、すぐそこだから大丈夫でしょ、と南天が宥めているのが聞こえた。
「よし、じゃあそこまで一緒に行こうか」
晴明は見えない子供に声を掛ける。小さな手の感覚は雀や棗の幼い頃を思い出させた。物凄く寒くて、手足がゾワゾワする以外、特に問題もない。
「バカ明。浮遊霊なんてかまってると身が持たねえぞ」
晴明の晴、の部分をバカに置き換えて千太がつぶやく。大丈夫、大丈夫、と助けてもらったことを棚に上げて笑い、晴明は並ぶ灯火にむかって歩きだした。