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彼誰刻の我楽多  作者: タカノケイ
我楽多
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 一日が終わった。作業員たちが居なくなった生産工場のフロアは、何故だか急にオイルの匂いが強くなる。八塚(やつづか)晴明(はるあき)はかちりと最後の電灯を消して、暗闇に目が慣れるまでその場に佇んだ。ずり落ちた眼鏡を上げて、静まり返る機械たちをなんとはなしに眺める。

 高校卒業と同時に「西芝精機」という、どこかをパクったような社名の会社に就職して三年目。仕事にもだいぶ慣れたし、この春からはワンフロアを任せられるようになった。

 もちろん、晴明の代わりになる人間など山ほどいるだろう。自分でなくてはならない、というわけではない。それでも「ここにいても良い」という小さな許しを貰えたように思えていた。


「八塚、明日は休出な」

「うわ」


 ぼんやりしているところを突然話しかけられて、驚いて振り返る。いつの間にか課長の青沼(あおぬまが後ろに立っていた。


「ひどいな。人を化け物みたいに」

「いや、課長って気配がないから驚くんですよ。俺、そういうのけっこう敏感な方なのに」

「背後への警戒が甘いのだよ? 小僧」


 カチ、と煙草に火を付けながら青沼はにやりと笑う。

 三十歳で三つのフロアの総合責任者を務める青沼は、Aフロアの主任を任されている晴明の直属の上司にあたる。長身だが痩せぎすで猫背なせいか、はたまた鷹揚な人柄のせいなのか、圧迫感を全く感じさせない男だった。「何ですかそれ。例のドラマの影響ですか」と言いながら晴明も笑った。青沼は週末の時代劇が大好きで月曜日の昼休みには一通りの考証を聞かされるのが恒例になっているのだ。


「お、お疲れ。何? 何笑ってんの? つか、青っさん、ここ禁煙っすよ?」


 向かいのフロアから同期の尾崎(おざき)千太(せんた)が顔を出し、首を回しながら話の輪に入った。晴明とは中高と同じ学校で、就職先まで一緒だったという腐れ縁だ。

 青沼は千太が敬語を使わなかったことにも、社内が禁煙であることも気にせずに「よ、おつかれ」と片手を上げた。


「いや、俺の忍びの術を密かに八塚に伝授……って、いけね。これから本部に行くんだよ。お前らと遊んでる場合じゃねえ。で、八塚、明日頼むぞ」


 当たり前のように言われて晴明は返事に迷った。今まで残業や休日出勤は進んで出ていたのだが、明日は約束があるのだ。しかも、担当するフロアの作業が遅れている。それはもちろん、晴明が一番よく知っていることだ。親の墓参りは、出勤を断ってもいい用事に含まれるだろうか。


「あー。青っさん、明日こいつの親父の命日なんすよ」


 晴明が逡巡している間に、千太が横から口を挟んだ。青沼の動きが止まり、口に咥えたままのタバコから紫煙が立ち上る。


「そうか、何年になる?」

「三年です。ここに入る前の夏で」

「大変だったな。いや、今も大変なのか」


 青沼は煙が目に染みたように瞬きを繰り返す。些細な仕草に、自分が思いやられていることを晴明は感じた。自分の痛みを想像してくれたのだろうと思う。この三年の間、青沼には恩返ししきれないほど世話になった。よし、と晴明は心を決める。


「もう慣れました。墓参りは日曜に行けばいいから出ますよ。金も欲しいし」


 晴明は妹たちのがっかりする顔を思い浮かべないようにして答えた。稼ぎたいという気持ちも嘘ではなかった。休日出勤は歩合もいいし、金はいくらあったって困るものではない。

 青沼はポケットから携帯灰皿を出してタバコをもみ消した。


「いや、休め。大丈夫だ、代わりに尾崎が出る」

「……俺!?」


 そうそう、と満足げに頷きかけた千太が、素っ頓狂な声を上げた。呆然とする千太をしり目に「いいよな。友情って、本当に美しいよ。羨ましい、おじさん羨ましくって妬けちゃうよ」と言いながら、でも、と粘る晴明に手を振って青沼は立ち去った。

 千太の任されているBフロアの作業は予定通りに進んでいる。Aフロアでしか作れない部品の大口発注をこなす為なのだから、自分が出るべきであると晴明は考えた。


「千太、やっぱ俺が出るわ」

「あー、いいよいいよ。どうせ暇だし。それにお前、誕生日も明日だろ」

「でも……」

「気にすんな。俺は可愛いすずめちゃんとなつめちゃんの為に頑張るのさ」


 千太は晴明に最後まで言わせずに、晴明の二人の妹の名前を出して、気取った顔で親指を立てて見せた。これ以上遠慮すると、千太は怒りだす。晴明は笑って、深く頭を下げた。


「悪い、じゃあ頼む」

「おう、任せとけ」


 帰るぞ、と手で合図して千太は歩き出す、もう誰もいない工場の廊下は他人のようによそよそしい感じがして好きではない。家が近いので作業着のまま通勤している二人は、ロッカー室から手荷物だけを取り出し、従業員通用口から表に出た。


「夏だなあ。六時だってのに明るいや」


 千太はあくびをしながら、晴明が自転車置き場から自転車を出すのを見ている。晴明が自転車を引いて横に並ぶと、両手を上げて伸び、ふう、と力を抜いた。知り合った八年前から何一つ変わらず友人の見慣れた所作だった。そんなことに、何かに打たれたような気持ちになるのは、養父の話をしたからだ。すっかり見慣れていたのに、もう見られなくなってしまった癖を思い出していたからだろう。


「千太。今日、うちに飯食いに来いよ。チビらも喜ぶし」

「マジで? いいの? いくいく!」


 感謝を声に出すのは恥ずかしいから、晴明は「明日の礼だ」と頷くだけにする。千太が家に来るのは久しぶりかもしれない。近所だし、そのうちに、と思うと時間は驚くほどあっという間に過ぎてしまう。

 二人並んで工場から出ると、真っ赤な夕日が空を染め上げていた。


「何食いたい? 肉でも焼くか」

「いいねえ」


 千太は嬉しそうに笑う。二人でスーパー「まるしち」に立ち寄って、閉店間際で安くなった肉、妹たちを喜ばすためのボックスアイスと、奮発して高いビールを買った。会計を済ませて店を出ると、ほんの少しの間にあたりは真っ暗になっていた。


「うわ、月でか!」


 晴明は驚いて声を上げる。大きくて丸い月は恐ろしいほどに赤く、雲のない夜空に浮かんでいた。

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